現代版 置いてけ堀 「置いてけ堀の囁き」 ~消えた足跡と水底の声~
あらすじ
東京の下町にある古びた公園。
その一角には小さな池があり、地元では「置いてけ堀」と呼ばれている。
この池には不気味な噂が絶えず、「釣りをすると帰り道に必ず何かを失う」と言われている。
釣りを楽しむ者たちの間では都市伝説として語られるが、ある若い釣り愛好家グループが好奇心からこの池で釣りを始める。
そしてその日を境に、彼らの周囲で不可解な失踪事件が次々と起こる。
主人公の青年・遥斗は、失踪した親友を探すうちに、置いてけ堀の秘密と深い因縁に気づいていく。
水面に潜む何か、そして人々を狂わせる「おいてけ」という囁きの正体とは――?
主な登場人物
主人公
名前:八木 遥斗(やぎ はると)
年齢:22歳
性別:男性
職業:大学生(環境科学専攻・3年)
容姿:身長175cm、細身で中性的な顔立ち。少し癖のある黒髪を無造作に伸ばしている。いつもフード付きのパーカーを着ており、無意識にフードをかぶる癖がある。瞳が少し暗めの茶色で、どこか物憂げな雰囲気を漂わせている。
性格:観察眼が鋭く、冷静沈着だが、自分の感情を内に秘めがち。幼い頃に両親を交通事故で亡くし、祖父母に育てられたため、自立心が強い。正義感が強く、友人や大切な人のために行動する勇気があるが、無茶をすることもある。
背景:幼少期から釣りが趣味で、亡き父親と一緒に釣りをした記憶を今も大切にしている。今回の「置いてけ堀」調査に参加したのも、釣り仲間である親友の悠真に誘われたためだが、悠真の失踪をきっかけに責任を感じ、池の謎に挑むことになる。
口癖:「…まあ、どうにかなるだろう。」(状況が悪化しても、無理やり落ち着こうとする癖)
親友
名前:西原 悠真(にしはら ゆうま)
年齢:22歳
性別:男性
職業:フリーター(バイトを掛け持ちしている)
容姿:180cmの長身でがっしりした体型。爽やかな笑顔が印象的で、いつも明るいオーラを放っている。短めの茶髪をいつもきっちりセットしている。カジュアルなジーンズやジャケットを好む。
性格:明るく陽気でムードメーカー。少し調子に乗りやすいが、裏表がない性格で周囲から好かれるタイプ。自信家だが、実は孤独を恐れており、仲間を大事に思っている。
背景:幼い頃から遥斗とは親友であり、「釣り愛好家グループ」のリーダー格。置いてけ堀の噂を知り、「都市伝説を確かめよう!」とメンバーを引っ張った張本人。しかし、池の呪いに巻き込まれ、失踪してしまう。
口癖:「やっぱ人生、楽しんだもん勝ちでしょ!」
女性ヒロイン(釣り仲間)
名前:相沢 美咲(あいざわ みさき)
年齢:21歳
性別:女性
職業:大学生(心理学専攻・2年)
容姿:肩までのストレートな黒髪で、前髪を軽く分けた清楚な雰囲気。小柄で華奢だが、瞳が大きく印象的。薄いピンクの服やパステルカラーの服を好む。
性格:穏やかで気配り上手な性格。グループの中ではお姉さん的な存在で、他のメンバーの意見をまとめる役割を担う。実は強い好奇心を持っており、心霊現象や怪談話にも興味津々だが、いざ怖い状況になると臆病になる。
背景:遥斗に密かに想いを寄せているが、表には出さず、グループの一員として行動を共にする。置いてけ堀の噂には最初は反対だったが、興味が抑えきれずに参加。物語後半では遥斗の頼れるパートナーとして活躍する。
口癖:「ねえ、本当に大丈夫なの…?」
釣り仲間のトラブルメーカー
名前:小野寺 翔太(おのでら しょうた)
年齢:23歳
性別:男性
職業:配送ドライバー(アルバイト)
容姿:176cm、中肉中背で少しやんちゃな印象。派手な金髪にピアスをしており、カジュアルなストリート系ファッションを好む。顔は悪くないが、表情や態度にやや軽薄な面がある。
性格:皮肉屋で軽口を叩く性格だが、本気で怒ることは少ない。実は臆病で、自分の弱さを隠すために強がっている。
背景:釣りグループに後から加入したメンバーで、他のメンバーより距離を置いていることが多い。置いてけ堀の呪いに半信半疑だったが、仲間の失踪や怪異を目の当たりにし、恐怖に支配される。物語中盤で彼のある行動が呪いを加速させる引き金となる。
口癖:「俺、こういうのダメなんだって!」
地元の語り部(池の伝承に詳しい老人)
名前:久保田 義治(くぼた よしはる)
年齢:68歳
性別:男性
職業:地元の小さな駄菓子屋の店主
容姿:白髪混じりの短髪に、くたびれたニット帽をかぶっている。小柄で少し猫背。黒縁メガネをかけ、どこか飄々とした雰囲気。いつも灰色のカーディガンを羽織っている。
性格:静かで落ち着いているが、話し始めると長話になるタイプ。池にまつわる伝承や噂に詳しく、「若い者には関わってほしくない」という思いから何度も警告を発する。
背景:実は、幼い頃に置いてけ堀のそばで釣りをしていた兄を失っている。以来、池の呪いを恐れ、その謎を研究してきた人物。遥斗に呪いの正体を明かす重要な役割を担う。
口癖:「池には近寄るな。あそこは“何か”が住んでる。」
現代版 置いてけ堀 「置いてけ堀の囁き」 ~消えた足跡と水底の声~
「置いてけ堀の囁き」冒頭
あの池のことを初めて聞いたのは、夏が終わりかけたある蒸し暑い夜だった。
いつものように俺たちのグループ、釣り仲間の数人が集まって、近くの河川敷で釣りをしていたときのことだ。
「なあ、遥斗。『置いてけ堀』って知ってるか?」
悠真がニヤニヤしながら言ってきた。
あいつのその顔を見ると、いつも何か企んでいるんじゃないかと思う。
案の定、このときもそんな感じだった。
「置いてけ堀? なんだよそれ。聞いたことねえな。」
竿を引きながら俺がそう答えると、悠真は嬉しそうに目を輝かせた。
「なんだよ、お前でも知らねえのか。あの都市伝説、有名じゃん。まあ、古い話だから知らない奴もいるかもな。」
悠真はそう言うと、わざとらしく間を置きながら語り始めた。
「置いてけ堀ってのはさ、東京の下町にある池なんだ。で、そこでは昔から不思議なことが起きるって言われてて……釣り人が魚を持って帰ろうとすると、池から声がするんだよ。『置いてけ』ってさ。」
「それで?」
俺は適当に相槌を打つ。
悠真はこういう怪談話をするのが好きだ。
けど、どうせ大した話じゃないだろうと思っていた。
「もしその声を無視して魚を持ち帰ろうとすると、そいつにヤバいことが起きるんだってよ。池の中から手が出てきて引きずり込まれるとか、そいつの家に怪異が現れるとか……いろんなバリエーションがあるみたいだけどな。」
「ふーん、ありがちな話だな。それで、その池は今もあるのか?」
俺は興味が湧いたわけじゃなく、ただ会話をつなげるためにそう聞いた。
「あるよ。今も普通に残ってる。名前もそのまま『置いてけ堀』だってさ。地元じゃそこそこ有名らしいぜ。」
「で、それがどうしたんだよ。まさか行ってみようとか言い出すんじゃないだろうな。」俺は苦笑しながら言ったけど、悠真の目はすでに本気だった。
「おう、その通りだよ。行ってみようぜ、遥斗!」
悠真が声を上げた瞬間、周りにいた仲間たちが一斉にこちらを向いた。
その夜から、悠真の「置いてけ堀」探検計画が動き出した。
俺は最初、渋っていた。
釣りは好きだし、こういう冒険じみたことも嫌いじゃないけど、わざわざ危ない噂のある池に行く必要はないと思ったからだ。
だけど、結局俺は参加することにした。
断れなかった理由はいくつかあるけど、一番の理由は悠真だ。あいつとは幼馴染みで、何をするにも一緒だった。
いつも無茶をするあいつを、俺が見張らなきゃいけない。そんな気がしていた。
「遥斗も来るんだな。やっぱお前がいねえと、なんか締まんねえわ。」
悠真は俺が参加を決めたとき、満足そうに笑った。
その顔を見ると、やっぱり放っておけないと思ってしまう。
探検当日
そして、問題の夜がやってきた。
俺たちは悠真の運転する軽自動車に乗り込んで、「置いてけ堀」に向かった。
車内はいつもと同じように賑やかだった。
悠真が助手席で小野寺翔太とふざけ合い、後部座席の相沢美咲がそれをたしなめる。
俺は窓の外を眺めながら、みんなの声を聞いていた。
だけど、車が目的地に近づくにつれて、俺は妙な胸騒ぎを感じ始めた。
窓の外に広がる暗闇。
街灯もまばらな道路を進むうちに、次第に車内の会話も途切れがちになっていく。
「……着いたぞ。」
悠真がそう言ったとき、車の中には妙な緊張感が漂っていた。
俺たちは車を降り、小さな公園の中を進んだ。
その先に池――「置いてけ堀」があるという。
池に着いた瞬間、俺は背筋がぞくっとした。
池は思ったよりも小さかった。
水は黒く淀んでいて、表面にぼんやりと月明かりが反射している。
周囲を囲む木々の影が、まるで池を守る壁のように見えた。
「……これが置いてけ堀か。」
俺は思わず声を漏らした。
「なんか、思ったよりしょぼくね?」
翔太が肩をすくめながら言ったが、その顔は明らかに強がっているのがわかった。
「よし、じゃあ釣り開始だ!」
悠真はテンションを無理に上げようとしたのか、そう言ってさっさと竿を準備し始めた。
俺たちはそれに倣って、それぞれ釣り竿を垂らした。
周囲は静寂に包まれていて、聞こえるのは風で木々が揺れる音と、水面をたたく小さな音だけだった。
不気味な囁き
しばらく釣りを続けていると、悠真が急に声を上げた。
「見ろ、釣れた!」
彼が引き上げたのは、中型の魚だった。
ピチピチと暴れるその姿に、みんなの顔が少しほころんだ。
しかし、そのときだった。
「おいてけ……。」
低く、湿った声が聞こえたのだ。
「……今の、なんだ?」
俺が振り返ると、全員が同じ方向を見ていた。
池の中心。さっきまで静かだった水面が、小さく波立っているように見えた。
「気のせいだろ……たぶん風の音とかさ。」
翔太がそう言ったが、声が明らかに震えていた。
「いや、確かに聞こえたぞ……『おいてけ』って。」
美咲が青ざめた顔で言った。
悠真だけは、まったく動じた様子がなかった。
「何だよ、ビビってんのか? たかが声だろ。聞こえないふりしてればいいんだよ。」
そのとき、俺は悠真の背中がほんの一瞬、震えたのを見逃さなかった。
「聞こえないふりしてればいいんだよ。」
悠真がそう言って笑い飛ばしたとき、俺たちは何となくその場の空気に流されるように釣りを続けることにした。
けど、心のどこかで、全員が薄気味悪さを感じていたのは間違いない。
風が吹き、木々の枝葉が擦れる音が耳を刺激する。
水面は相変わらず黒く淀み、何かが潜んでいるような気配がした。
「……!」
俺の竿が急に強く引かれた。
慌てて竿を握り直し、慎重に引き上げる。
手応えは思ったよりも重い。魚にしては妙に力強い感触だ。
「おい、遥斗、何か釣れたのか?」
悠真が声をかける。
俺は返事をせずに、集中して巻き上げる。
ようやく水面近くまで来たその瞬間、見えた。
……それは魚じゃなかった。
水面から現れたのは、ぼろぼろに朽ちた藁人形だった。
人形の頭には錆びた釘がいくつも打ち込まれ、腕や足が不自然に折れ曲がっている。汚れた縄で縛られていて、水を含んだその姿は異様なほどに重そうだった。
「うわ、なんだこれ……!」
思わず竿を放り出しそうになったが、何とか持ちこたえた。
俺が困惑していると、美咲が背後から声を震わせながら言った。
「それ……なんで池にこんなものが……?」
「おいおい、ホラー映画かよ!」
翔太が無理に笑い飛ばそうとするが、その声は空回りしていた。
「別にこんなの、誰かがイタズラで捨てたんだろ。」
悠真が肩をすくめながら言ったが、その顔には微かに焦りが見えた。
俺は藁人形を釣り糸から外し、地面にそっと置いた。その瞬間だった。
「おいてけ……。」
再び、あの声が聞こえた。
今回ははっきりと。俺だけじゃない、全員が同じ声を聞いたのがわかった。低く湿った声。それは確かに池の方から聞こえた。
「お……おい、悠真……これ、やばいんじゃないか?
」翔太が声を震わせながら言った。
「バカ言うな。ただの気のせいだって!」
悠真は強がるように声を張り上げたが、手に握った釣り竿が微かに震えているのがわかった。
奇妙な足音
俺たちはその後、しばらく釣りを続けるふりをしていた。
けれど全員が無言だった。
竿を垂らしていても、何も釣れない。というか、もう釣りを楽しむ余裕なんて誰にもなかった。
時計を見ると、夜の11時を回っていた。
「そろそろ帰ろうか。」
俺がそう言うと、美咲がすぐにうなずいた。
翔太も何も言わずに荷物をまとめ始める。けれど、悠真だけは池の方をじっと見つめていた。
「悠真?」
俺が呼びかけると、彼はハッとしたように振り返った。
「あ、ああ……そうだな、帰るか。」
荷物をまとめて池を後にした。
静かな夜道を歩く中、俺たちはほとんど会話をしなかった。
ただ、池から離れるにつれて少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
でも、安心したのもつかの間だった。
「カラン……コロン……」
どこからか下駄の音が聞こえてきた。
「え……?」
美咲が小さな声を漏らした。
足音は一定のリズムで近づいてくる。
それも、俺たちの真後ろからだ。
振り返る勇気が出ない。
俺たちは足を速めた。足音もそれに合わせて速くなる。
「おい……これ、ヤバくねぇか?」
翔太が慌てた声を出す。
「黙って歩け。」
俺はそう言って前を向いたまま足を動かし続けた。
冷や汗が背中を伝う。
足音はさらに近づいてくる。
やがて、俺たちのすぐ後ろで止まった。
「……!」
誰も振り向けない。
息を殺して立ち尽くす俺たちの耳に、再び声が聞こえた。
「置いてけ……」
その声はすぐ耳元から聞こえた。
悠真の失踪
俺たちはパニックになって逃げ出した。
誰が先頭かもわからない。
ただ必死に走り続けた。
夜道を駆け抜け、ようやく車のところまでたどり着いたとき、俺たちは全員、無事を確認して安堵の声を漏らした。
「全員いるよな?」俺が振り返ると、顔を青ざめた美咲と、肩で息をする翔太が頷いた。
けど、そこに悠真の姿はなかった。
「悠真……?おい、どこだ!?」
俺は慌てて辺りを見回した。
けれど、彼の姿はどこにもない。
さっきまで一緒にいたはずなのに。
「まさか……。」
美咲が泣きそうな声で言った。
「悠真、あの足音のときに……。」
「そんなはずあるかよ!」
俺は叫んだ。
だけど、どこを探しても悠真の姿は見つからない。
翌日
翌日、俺たちは警察に行った。
悠真の失踪を報告し、池のことも伝えた。
だが、警察は俺たちの話をまともに取り合ってはくれなかった。
「池で遊んでいて溺れた可能性が高い。」
とだけ言われた。
美咲は家に引きこもり、翔太も連絡がつかなくなった。
俺は一人、あの池に戻ることを決めた。
悠真を見捨てたままなんて、どうしても耐えられなかった。
再び置いてけ堀へ
あの池に戻るという考えが、どれだけ愚かで危険なのかは分かっていた。
それでも俺は引き返せなかった。
悠真を探さなければならないという思いが、何よりも強かったからだ。
翌日の夜、俺は一人で置いてけ堀に向かった。
スマホのライトと釣り用のヘッドランプを頼りに、薄暗い道を進む。仲間と来た時とは違う静けさが、肌にまとわりつくようだった。
池に近づくにつれ、妙な感覚が俺を襲った。
湿った空気に混じる生臭い匂いと、耳鳴りのような微かな音。
「……悠真?」
思わず声を出した。
返事はない。ただ、木々のざわめきがどこか嘲笑うように聞こえた。
池に着いたとき、俺は足を止めた。
昼間に見た池の姿と、夜のそれはまるで別物だった。
水面は黒く、光を吸い込むように見える。
まるでそこに底がないような、不気味な広がりを感じた。
俺はライトを照らしながら池の周囲を歩き始めた。
悠真が何か手がかりを残しているかもしれない。
釣り竿や荷物、何でもいいから見つけたかった。
「……。」
視線を泳がせながら歩いていると、足元で何かが小さく音を立てた。
驚いてライトを向けると、そこには泥だらけの釣り竿が転がっていた。
悠真のものだ。間違いない。
「悠真……お前、ここにいるのか?」
釣り竿を拾い上げた瞬間、背後で水音が響いた。
振り返ると、水面が波立ち、小さな漣(さざなみ)が広がっていた。
「置いてけ……」
あの声だ。今度は耳元ではなく、確かに池の中から聞こえた。
「誰だ!?」
思わず叫んだが、応えるものはない。
ただ、漣が徐々に大きくなり、水面全体が揺れ始めた。
そのとき、ライトの光が何かを捉えた。池の中心付近に、人影が浮かび上がっていた。
「悠真……?」
俺は恐る恐る声をかけた。
しかし、その人影は一言も発せず、じっとこちらを見ている。
いや、見ているように感じただけかもしれない。
ライトの明かりをさらに近づけると、その影の顔がはっきりと見えた――目も鼻も口もない「のっぺらぼう」の顔だった。
「……!!!」
俺は声にならない叫びを上げ、その場に尻もちをついた。
のっぺらぼうの顔は、再び水面に沈んでいったが、その場に残った恐怖は消えなかった。
語り部の警告
翌日、俺は地元の駄菓子屋を訪れた。
そこには、以前悠真が「置いてけ堀の噂に詳しい」と言っていた老人――久保田義治がいるはずだった。
店内には古びたお菓子や玩具が所狭しと並んでいた。
奥のレジには、くたびれたニット帽をかぶった小柄な老人が腰かけていた。
「……あんたが、久保田さんか?」
俺がそう尋ねると、老人はゆっくりと顔を上げた。
「そうだが……君は?」
俺は簡単に自己紹介を済ませ、悠真の失踪と置いてけ堀で起きたことを説明した。
話を聞いている間、久保田さんの顔は徐々に険しくなっていった。
「……あの池に行ったのか?」
「行った。でも、悠真がいなくなって……俺は、どうしてもあいつを探したいんだ。置いてけ堀で何が起きているのか、教えてくれ!」
俺の言葉に、久保田さんはしばらく黙り込んだ。
そして、やがて重い口を開いた。
「あの池は……昔から、人を飲み込むと言われている。江戸時代、あの場所では水神を鎮めるための儀式が行われていたんだ。犠牲者の魂を水底に沈めることで、村を守ろうとしていた。だが、その犠牲者たちの恨みが池に宿り、人を引き寄せるようになったんだ。」
「犠牲者の……恨み?」
「そうだ。池で何かを釣ると、彼らの目に留まる。『置いてけ』という声は、彼らが失ったものを取り戻そうとしている証拠だ。魚だけではなく、人の命までもだ。」
俺は言葉を失った。悠真はその犠牲になったのか?
「だが、まだ間に合うかもしれない。」
久保田さんが静かに言った。
「悠真がまだ完全に池に取り込まれていないなら、方法はある。」
「どうすればいい!?」
久保田さんはため息をつき、棚の奥から古い紙片を取り出した。
それは、江戸時代の祈祷師が残したとされる巻物だった。
「この呪文を唱えるんだ。そして、池の中心に捧げ物を投げ入れる。だが、その捧げ物は……」
「……俺の命、ってことか?」
久保田さんは何も言わずに頷いた。
決意の夜
その夜、俺は再び池に向かった。
久保田さんからもらった巻物を手に、覚悟を決めていた。
悠真を取り戻すためなら、自分が犠牲になっても構わないと思っていた。
池に着くと、風が強く吹き始めた。
水面はざわつき、低い囁き声が絶え間なく聞こえる。
「……悠真、待ってろよ。」
俺は池の中心に向かって、巻物に書かれた呪文を読み上げた。
声が震えそうになるのをこらえながら、一字一句、正確に。
呪文を唱え終えると、池の水面が大きく揺れた。
中央から泡立ち、まるで何かが浮かび上がってくるようだった。
そして……
悠真がそこにいた。
悠真の姿
「悠真!!」
俺は叫んだ。池の中心から浮かび上がったその姿は、間違いなく悠真だった。
けれど、どこかおかしい。彼は泥まみれで、濡れた髪が顔に張り付き、服はぼろぼろになっていた。
だけどそれだけじゃない。彼の目には、生気が感じられなかった。
「遥斗……なのか?」
悠真が口を開いた。その声は低く、かすれていたが、確かにあいつの声だった。
「悠真! 今助ける!」
俺は叫びながら池に向かって走ろうとした。
だけど、足が動かなかった。いや、動けない。
見えない何かが、まるで鎖のように俺の足を地面に縛り付けているようだった。
「遥斗……俺を助けてくれ……ここは……やばい……!」
悠真が必死に手を伸ばす。
だがその瞬間、彼の足元から、黒い手がいくつも水面を突き破るように現れた。
泥のようなその手は、悠真の足を掴み、引きずり込もうとしている。
「悠真!!」
俺は叫びながらもがいた。
必死に動こうとしたが、見えない力が俺を押さえつけていた。
「遥斗、助けて……! 置いていかないでくれ……!」
悠真の声がかすれていく。
黒い手はどんどん増え、彼の体を水中へと引きずり込んでいく。
「やめろ!!」
そのとき、俺は久保田さんから渡された巻物の言葉を思い出した。
「犠牲者の魂を鎮めるには、生きている者の命を代価として捧げる覚悟が必要だ。」
俺は震える手で、巻物をぎゅっと握りしめた。
そして、池に向かって最後の呪文を叫んだ。
捧げる覚悟
「これでいいんだろう……! 俺を持っていけ!!」
俺は池に向かってそう叫んだ。
声が闇夜に響き渡り、水面はさらに激しく揺れた。
黒い手は悠真を引き込むのをやめ、俺の方へ向きを変えた。
それらの手が俺の足元から伸び、冷たく、湿った感触が俺の体を包む。
まるで全身を泥で塗りつぶされるような感覚だった。
「遥斗、やめろ!!」
悠真の声が聞こえる。
彼が再び池の中心から俺に向かって手を伸ばしていた。
「俺は……お前を助けるんだよ、悠真……!」
俺は笑おうとしたけど、うまくいかなかった。
黒い手が俺の体を覆い尽くし、池の中へと引きずり込もうとしているのが分かった。
「置いてけ……。」
また、あの声が聞こえた。でも、今度は何故か優しく響いていた。
まるで誰かが悲しみに耐えながら、囁いているような感じだった。
俺は目を閉じた。このまま池の呪いに取り込まれるのだと思った。
だけど、それで悠真が助かるなら――それでいい。
目覚め
目を開けたとき、俺は地面に倒れていた。
夜が明けていて、池は静かにそこにあった。
黒く淀んでいた水面は透き通り、ただの普通の池に戻っていたように見えた。
「遥斗!!」
声が聞こえた。
振り返ると、悠真が駆け寄ってきた。
彼は泥だらけで、全身濡れていたが、生きていた。
確かに、生きていた。
「お前、大丈夫なのか!? 本当に……?」
俺は言葉が出なかった。ただ悠真の無事を確認し、ほっと息をついた。
「遥斗……俺、何があったのか、よく覚えてないんだ。でも、お前が……助けてくれたんだよな?」
「……ああ。」
それ以外、何も言えなかった。
俺が引きずり込まれる直前に何が起きたのか覚えていない。
けれど、悠真がここにいるということだけで十分だった。
池の消滅
その後、俺たちは急いでその場を離れた。
二度と戻らないと心に誓いながら。
数日後、ニュースで「置いてけ堀」の池が突然干上がり、跡形もなく消滅したと報じられた。
地元ではただの自然現象と片付けられたが、俺はそれが「呪いの終焉」を意味しているように思えた。
久保田さんのところに報告に行くと、彼は穏やかな笑みを浮かべてこう言った。
「君が池を浄化したんだよ。犠牲者たちの魂も、これで安らかになったはずだ。」
俺はその言葉を聞いても、自分が本当に何をしたのか分からなかった。
ただ一つ言えるのは、悠真が助かったということだけだった。
後日談
あれから数週間が経った。
悠真は無事に日常を取り戻し、美咲や翔太とも元通りの関係になった。
けれど、俺の中には今もあの池の記憶が深く残っている。
夢の中で、今でも時々あの黒い手が伸びてくるのを感じることがある。
そしてそのとき、囁き声が聞こえる。
「置いてけ……。」
その声が何を意味しているのか、今でも分からない。
ただ、俺はこの出来事を一生忘れないだろう。
完