怪異譚 幽霊に醸(かも)される家
あらすじ
一人暮らしの佐藤 結衣(さとう ゆい)が、亡き両親の家でひっそりと日常を送っていたが、ある日から奇妙な現象が起こり始める。
仏壇に供えたご飯が翌朝には青白いカビに覆われ、その他の食品も同様に一夜で腐敗する。
寒い3月にもかかわらず、家中の物が急激に腐り始め、湿度の異常さが感じられる。
しかし、忙しさにかまけて原因を調べる余裕もなかった佐藤 結衣は、愛猫ミミが体調を崩すまでその現象を深刻に捉えなかった。
さらに家の掃除を始めると、冷蔵庫の食材、炊飯器のご飯、日常生活に必要なものまでもが腐り、まるで何かに侵されているかのような感覚に囚われる。
そして、掃除を終えて新鮮な食材を買いに外出しようとした際、隣の庭に倒れている愛猫ミミが、白いカビに覆われた姿で発見される。
彼の周囲には何か不吉な力が確かに蠢いていたのだ。
混乱と恐怖に震える中、久しく連絡を取っていなかった霊能力を持つ親戚のおばが電話をかけてきた。
彼女は「幽霊や憑き物がその家の物に宿ることがある」と告げるが、佐藤 結衣(さとう ゆい)に起こる異常はそれだけでは説明できないと警告する。
そして、仏壇に対して家族の供養をし、家の「陰気」を祓うことを勧める。
彼はおばの助言に従い、仏壇の前で家族への祈りとお経を捧げ始める。
すると、家の空気が次第に澄み、腐敗していた物も次第に元の姿を取り戻し始めるが、その一方で家の中からただならぬ怨霊の存在が浮かび上がる。
怨霊の正体とは何なのか?なぜ佐藤 結衣(さとう ゆい)とその家族に取り憑いたのか?やがて、家族の深い因縁と不幸な事件の記憶が明らかになり、佐藤 結衣はその暗い過去と向き合い、怨霊の怒りを鎮めなければならない使命に立たされる。
登場人物
主人公:佐藤 結衣(さとう ゆい)
年齢:20代後半
容姿:細身で背が高め、黒髪のロングヘアを後ろで一つにまとめている。肌は色白で、少しやつれた表情が印象的。普段はシンプルなカジュアルファッションを好むが、どこか物静かで控えめな雰囲気。
性格:内向的で落ち着きがあり、物事を冷静に見つめる。周囲には自分の感情をあまり表に出さず、耐え忍ぶように日々を過ごしているが、家族への深い愛情とともに心の中には複雑な思いを抱えている。
口癖:「おかしいな、なんか変だよね」「…まぁ、しょうがないか」
好きなもの:コーヒーと映画鑑賞が日課。特に静かな夜にゆったりとした時間を過ごすことが好きで、何度も読み返すお気に入りの詩集がある。
嫌いなもの:急な予定変更や、騒がしい場所。細かい日常の乱れがストレスになるタイプ。
愛猫:ミミ
年齢:7歳
容姿:真っ白な毛並みを持つ小柄な猫。青い目が特徴で、主人公にとても懐いている。
性格:臆病だが好奇心旺盛で、涼が仏壇の前にいるとそばに寄ってくる。家族同然に大切にされており、主人公の孤独を癒す存在。
好きなもの:日向ぼっこや、涼がくれるおやつ。特に鰹節がお気に入り。
嫌いなもの:掃除機の音や知らない人の気配。すぐに隠れる。
霊能力を持つ親戚のおば:小川 初枝(おがわ はつえ)
年齢:60代前半
容姿:白髪が混じったボブカットで、少し背が低く、小柄。柔らかな笑顔が印象的だが、目の奥に鋭い光が宿っている。和装が好きで、たまに和服を着ている。
性格:冷静で温和だが、必要なことははっきり言う。霊的な感覚に敏感で、人間の心の闇も見抜くことができる。
口癖:「やれやれ、世の中には不思議なこともあるもんだよ」「人は見えないものに引き寄せられることがあるんだよ」
好きなもの:古い伝統や霊的な儀式、庭いじり。庭の手入れをしている時間が一番落ち着くと感じている。
嫌いなもの:現代の便利すぎる機械や人工的なもの。特に、スマホやPCの画面が苦手。
怨霊の正体:山崎 真奈美(やまざき まなみ)
年齢:享年40代前半
容姿:生前は美しい女性で、長い黒髪が特徴的だった。亡霊となった今ではその髪は乱れ、薄暗い影のように朽ちた姿で現れる。白い着物に青白い肌を持ち、目には強い恨みと憎しみが宿っている。
性格:怨霊と化しているため、冷酷で嫉妬深い。生前の悔しさと悲しみを抱え、現世への未練と憎悪でこの家に取り憑いている。
好きなもの(生前):家族の団欒や、穏やかな暮らしを大切にしていた。特に子どもたちの笑顔を愛していた。
嫌いなもの:生前から裏切りや孤独、そして自分を見放した人々。
愛猫:ミミ
年齢:7歳
容姿:真っ白な毛並みを持つ小柄な猫。青い目が特徴で、主人公にとても懐いている。
性格:臆病だが好奇心旺盛で、涼が仏壇の前にいるとそばに寄ってくる。家族同然に大切にされており、主人公の孤独を癒す存在。
好きなもの:日向ぼっこや、涼がくれるおやつ。特に鰹節がお気に入り。
嫌いなもの:掃除機の音や知らない人の気配。すぐに隠れる。
霊能力を持つ親戚のおば:小川 初枝(おがわ はつえ)
年齢:60代前半
容姿:白髪が混じったボブカットで、少し背が低く、小柄。柔らかな笑顔が印象的だが、目の奥に鋭い光が宿っている。和装が好きで、たまに和服を着ている。
性格:冷静で温和だが、必要なことははっきり言う。霊的な感覚に敏感で、人間の心の闇も見抜くことができる。
口癖:「やれやれ、世の中には不思議なこともあるもんだよ」「人は見えないものに引き寄せられることがあるんだよ」
好きなもの:古い伝統や霊的な儀式、庭いじり。庭の手入れをしている時間が一番落ち着くと感じている。
嫌いなもの:現代の便利すぎる機械や人工的なもの。特に、スマホやPCの画面が苦手。
怨霊の正体:山崎 真奈美(やまざき まなみ)
年齢:享年40代前半
容姿:生前は美しい女性で、長い黒髪が特徴的だった。亡霊となった今ではその髪は乱れ、薄暗い影のように朽ちた姿で現れる。白い着物に青白い肌を持ち、目には強い恨みと憎しみが宿っている。
性格:怨霊と化しているため、冷酷で嫉妬深い。生前の悔しさと悲しみを抱え、現世への未練と憎悪でこの家に取り憑いている。
好きなもの(生前):家族の団欒や、穏やかな暮らしを大切にしていた。特に子どもたちの笑顔を愛していた。
嫌いなもの:生前から裏切りや孤独、そして自分を見放した人々。
怪異譚 幽霊に醸(かも)される家
気づけば私は、一人きりの朝を迎えていた。
古い家のあちこちに埃が積もり、長い時間をかけて蝕まれてきたかのように、どこか影が濃い。仏壇の前で目を開けた私は、胸の奥から押し寄せてくる違和感に眉をひそめた。
昨日、母に手を合わせて供えたはずのご飯が、今朝見るとまるで別のものになっていたからだ。
まるで生き物のようにご飯の表面を覆う青白いカビ、異様に湿っぽい空気。
これは単なる経年劣化だろうか? そう自分に問いかけても、頭の片隅で何かが「違う」と告げている。
不安を抱えながらも、出勤の準備をするしかなかった。
両親が相次いで亡くなり、私は独り身。
最近はそのことを考えると無性に寂しくて、仏壇に向かって愚痴をこぼすことも増えてきた。
「やっぱり二人ともいなくなると、こうも家が沈むものかね…。」
そう呟いてから、ふと自分でも空しさを感じる。
けれど、何も言わず、誰も返事をくれない仏壇の前で、寂しさが募る。
なぜか最近、この家の雰囲気がどんどん重くなっているような気がする。
壁の奥で何かが息をひそめ、こちらを見ているような奇妙な感覚。
猫のミミだけが心の支えだった。けれど、今朝も仏壇に供えた食べ物がすっかり腐っていたのを見た私は、気を引き締めた。
あれをミミが誤って食べてしまえば、体を壊しかねない。そこで、腐ってしまった供え物は毎朝取り替えることに決めた。
「ミミ、大丈夫だよね…。」私の小さな声に、どこからともなく返事がない。
キッチンで皿を洗いながら、昨日まで無事だったはずの果物が、すっかり茶色に変色しているのを見つけたとき、私は不安に襲われた。
何かがおかしい。
その日も仕事を終え、薄暗い夜道を歩いて家に戻ると、玄関を開けた瞬間に異様な匂いが鼻をついた。
かすかに漂う腐敗臭に、思わず顔をしかめた。
靴を脱いで家の中へ踏み入るたびに匂いが強くなっていくのがわかる。
カビ臭さ、湿った土のような匂い、そして腐ったような甘さ。
かつての我が家の香りはどこにもなく、まるで自分が住んでいる場所ではないかのようだった。
「またカビか…。」
まず、仏壇の方を確認しに行く。
案の定、今朝取り替えたばかりのご飯も、隣に置いた果物も、どれもが不気味な色に変わり果てている。
まるで家そのものが何かを浸食し、腐らせているかのような気がして、背筋が寒くなる。
それでも、何とかしなければと私は考え、湿気を減らすために窓を開け放ち、少しでも空気を入れ替えようと試みた。
冷たい風が吹き込むと、気持ちが少し軽くなるような気がする。
「ミミ、おいで。換気するときは気をつけないとね…。」
と呟くが、ミミの姿が見えない。
普段なら、こうして窓を開けるだけで、どこからともなく小さな鈴の音を響かせながら駆け寄ってくるはずのミミ。
しかし、その夜は何度呼んでも返事がない。
急に嫌な予感がして、家の中を探し回る。寝室にも、キッチンにも、いつもお気に入りの窓際にもいない。
焦りを感じながら、リビングの隅にある小さなキャットベッドを覗き込んだ。
そこで、私は信じられない光景を目の当たりにする。
ミミが、白いカビに覆われていた。
静かに横たわる小さな体は、まるで息をしていないかのように冷たい。
顔も体も、うっすらとした青白い菌糸に覆われ、毛並みが消え失せ、ただ無残な形で横たわっている。
信じられない気持ちでミミに手を伸ばすと、ほんの少し触れただけで、白い粉が指先に付着し、体がぐしゃりと崩れ落ちた。
「ミミ…。」
涙が込み上げてきた。
何が起こっているのか、どうしてこんなことになっているのか、何もわからない。
だが、ただ一つ言えるのは、何か恐ろしい存在が私の生活を侵食し、腐らせているということだけだった。
それから数日、私はまともに眠れない日々を過ごした。
ミミの死がどうしても受け入れられず、仕事の合間にもその光景が目に浮かび、胸が痛んだ。
それでも、この家から逃げ出すわけにもいかない。
両親が残してくれた家、思い出が詰まった場所を放り出すことなど、私にはできなかった。
そんなある日、仕事中に母方のいとこである親戚のおばさんから電話がかかってきた。
彼女は少し変わった人で、霊感が強いと言われているが、私はあまり信じていなかった。
しかし、この時ばかりは、助けを求めたい気持ちが大きくなり、相談に乗ってもらうことにした。
「幽霊や憑き物が、食べ物や家に憑くことがあるのよ。」
と、おばさんは電話越しに静かに話し始めた。
「あなたの家にある仏壇、それを何かが介して腐らせている可能性があるわ。」
その言葉に私はゾッとした。
何かに取り憑かれている?家が腐敗しているのは、単に湿度の問題や古さのせいではないというのだろうか?それを確かめるには、おばさんの助けを借りて、家の陰気を払う儀式を試すしかないという。
おばさんの助言を受けて、その夜、私は家に戻るとすぐに準備を始めた。
仏壇の前に座り、古びた数珠を手にしながらお経を唱えるように言われた。言葉は暗記していないため、スマホで検索し、ネットで見つけた簡単な経文を読み上げた。
最初は何も起こらない。
ただ、ひんやりとした家の空気が、私の声に合わせて微かに振動しているような気がしただけだ。
お経の言葉が続くほどに、少しずつ、家全体にこもっていた不気味な圧迫感が薄れていくように感じられた。
それでも、ふとした瞬間、背後に何かの視線を感じることがあった。
振り返ると誰もいない。
それでも、その視線は消えず、じっと私を見つめているようだった。
「…お願いです。どうかこの家を、安らかに
してください。」
私は仏壇に向かって深く頭を下げた。
両親が亡くなり、私が一人きりになったこの家が、静かな安らぎを取り戻すことを切に願っていた。
やがて、しばらく経って、家の中にわずかな変化が現れた。仏壇に供えた果物が、その日は腐らずに翌朝を迎えたのだ。
私はそれを確認し、ほっと胸を撫で下ろした。
これでやっと、ミミや私の平穏な日々が戻ってくる…そう信じたかった。
だが、それも束の間だった。
数日後の夜、帰宅した私を待ち受けていたのは、これまでとは比べものにならないほどの異様な光景だった。
仏壇の周りが、緑や黒のカビに覆われている。
カビは壁から天井にまで広がり、まるで生き物のようにうねりながら伸びているかのように見えた。
「どうして…。」
呆然と立ち尽くし、私は震える手でスマホを取り出し、おばさんに再び電話をかけた。
電話の向こうでおばさんは深刻な口調で言った。
「それはただの家の陰気じゃないわ。きっと、あなたの家には何か強い恨みの念がこもっている。仏壇だけでなく、家全体を浄化しないといけない。」
その時、何かが脳裏をよぎった。
両親が亡くなる少し前から、どこかこの家の空気が重苦しくなっていたこと。
そして、両親の死後、家の中にいると妙な疲労感に襲われることが多くなったこと。その違和感の正体が、今になってわかった気がした。
「でも、どうすれば…。」
おばさんはさらに詳しく方法を教えてくれた。
家全体に塩を撒き、ろうそくの火を灯しながら、家の隅々にまでお経を唱えるというものだった。
その夜、私は教えられた通りに準備を整え、家中を歩き回りながらお経を唱え続けた。
塩を手に握りしめ、口元で震える声を必死に押し殺していた。
玄関、廊下、リビング、キッチン、そして寝室。
カビの臭いが鼻を突くたびに、喉がきしむように痛んだが、恐怖に負けないようにと自分に言い聞かせた。
仏壇の前に戻ってきたとき、最後の言葉を唱え終えると、突然、部屋がひんやりとした静寂に包まれた。
風が止み、家全体が静まり返った瞬間、何かが終わったような感覚があった。
これでやっと、この家が安らかになるのだろうか。
ミミの姿も目に浮かんだが、すぐに消えた。深い安堵とともに、そのまま仏壇の前で眠りに落ちた。
翌朝、目を覚ますと、家の空気が清々しいほどに澄んでいるように感じた。嫌な匂いもなく、いつもの家がそこにあった。
「やっと終わったんだ…。」
安堵の息をつき、私は仏壇にそっと手を合わせた。
だが、心の奥底には何か得体の知れない不安が残っていた。
おばさんの言葉が頭の中で響いていたからだ。
「それはただの陰気じゃない、強い恨みの念が…。」という言葉が
もしかすると、これは一時的なものに過ぎないのかもしれない。
この家に刻まれた何かが、まだ完全に消え去ったわけではないのかもしれない。
そんな考えが胸に浮かび、私は目を閉じたまま、再び祈りを捧げ続けた。
あれから数日、家の空気は落ち着きを取り戻したように見えた。
腐敗する食べ物もカビも、少しずつ影を潜め、私はようやく普通の生活に戻りつつあった。
ミミのことを思い出すと胸が痛むが、きっとどこかで見守ってくれていると信じて、仏壇に手を合わせるのが日課になっていた。
ある日、仕事が早めに終わり、私は何か無性に母の好物だったリンゴを仏壇に供えたくなった。
スーパーで鮮やかな赤いリンゴを手に入れ、それを持ち帰ると、私は包丁で丁寧に切り分け、仏壇に供えた。
その夜、寝ようとした瞬間、遠くからかすかな足音が聞こえてきた。
最初は家の軋みだと思ったが、その音は規則的で、誰かがゆっくりと近づいてくるように聞こえる。
「…誰?」
声を出しても返事はなく、音はやがて仏壇の方で止まった。
胸が締め付けられるような不安がこみ上げてくる。
仏壇の周りが静まり返り、何もないのに空気が張り詰めているような感じがした。
たまらず私は立ち上がり、リビングに向かった。
そこには、置いたばかりのリンゴが皿の上で静かに腐り始めていた。
見たこともない青白いカビが表面を覆い、ぽつりと暗い液がしたたり落ちている。
「嘘でしょ…。」
たった数時間で腐ってしまうなんてありえない。
それでも、恐怖が脳裏を支配し、私はその場から動けなくなった。
すると、不意に耳元で母の声が聞こえた気がした。
「早くここから出なさい…。」
私はハッとして辺りを見回したが、誰もいない。
今の声が母のものだと確信し、急いで荷物をまとめ、外に飛び出した。
夜風に冷たい汗が背中を伝う。
近所の明かりが少しずつ遠ざかっていく中、私はようやく心臓の鼓動が落ち着くのを感じた。
どうしてこんなにもこの家に囚われ続けているのか…そんな疑念が次々と頭に浮かんできた。
もう一度おばさんに相談することにしよう。そう思い、スマホで番号を探して電話をかけた。
「もしもし、おばさん、また変なことがあって…。」
状況を説明する私の話を、おばさんは静かに聞いてくれていた。
そして、彼女は深刻な声で言った。
「それは、もう家を去らないといけないかもしれないわね…その家には、ずっと根強く残る強い執念がある。たぶん、あなたの両親に関係しているのかもしれない。」
「両親に…?」
ふいに思い出したのは、父と母があの家で過ごしていた最後の数年のこと。
私が仕事で忙しくなり始め、実家に戻れなくなった頃、母はしきりに「何かが家にいる気がする」と言っていたことがあった。
だが、そんなことを信じなかった私は、まともに話を聞かなかった。それが今になって、こんな形で返ってきたのだろうか。
翌日、意を決して私は家の奥にある古い物置を調べることにした。
物置には、父と母が残した古い手紙や写真、そして幼い頃の私が大切にしていた人形がしまわれていた。
埃を払い、懐かしい思い出に触れると、ふいに涙が込み上げてくる。
両親がいない今、この家だけが彼らの痕跡を残している気がしていた。
しかし、その中に一枚だけ、不気味な写真が混ざっていた。
私が幼い頃、家族で撮った一枚の写真の中に、誰もいないはずの場所にぼんやりと人影が写り込んでいる。
それは仏壇のある場所に立つ、見知らぬ何者かの姿だった。
背筋が凍る。
もしかすると、これが私の両親を苦しめた元凶なのかもしれない。家に巣食う存在、それが全ての原因だとしたら…
おばさんが言ったことを思い出した。
「家を去るべきかもしれない」という言葉が、頭の中で木霊する。
それでも、私はこの家を捨てられないという思いが心の中で渦巻いていた。
両親の思い出が詰まった場所を、簡単に手放すことなんてできない。ならば、その存在と決着をつけるしかない。
私は仏壇の前に再び座り、心を込めて祈りを捧げた。
「お願いです。この家が再び平穏を取り戻せますように。どうか…。」
静寂が訪れ、祈りの最中、家全体が微かに震え始めた。
まるで家が息をしているかのように。
その瞬間、私の背後から冷たい風が吹き抜けた。
何かが私の後ろに立っている。恐怖が全身を覆う中、私は振り返ることができなかった。
「ここから出ていけ…。」
耳元で聞こえたのは、両親とも似つかない、冷たい声だった。
その瞬間、私は悲鳴を上げ、家を飛び出した。
恐怖とともに、これまで抑えてきた感情が爆発するように涙がこぼれた。
その後、私はおばさんの勧めもあり、しばらく別の場所で暮らすことにした。
家を手放す決心はまだついていないが、少なくとも、今は距離を置くことが必要だと思えたからだ。
両親の思い出が詰まった場所を再び訪れる日が来るかどうか、それはまだわからない。
新しいアパートでの生活は、最初の数日は心地よかった。
狭い部屋だが、必要最低限のものが揃っていて、なにより不気味な空気に悩まされることもない。
安堵のため息をつきながら、ようやく平穏を取り戻せると信じていた。
しかし、夜が深まると、ふとした瞬間に胸が重くなる。
頭の中に「戻れ」というかすかな声が響くように感じられたのだ。
幻聴だと思い込もうとするが、日を追うごとにその声は確かに強くなっていく。
そんなある日、仕事を終えてアパートに戻ると、玄関の足元に一枚の紙切れが落ちていた。
手に取り、開いてみるとそこには「腐蝕の家に帰れ」とただ一言が書かれている。
「…誰のいたずら?」
背筋が冷たくなる。
誰かが私の家に入り込んで、このメッセージを置いていったというのか?それとも、あの家が本当に私を引き戻そうとしているのか。
結局、その夜は眠れなかった。
仏壇に置いた父と母の写真が頭から離れず、私は何かに引っ張られるようにして一晩中起きていた。
もしかしたら、あの家でまだやり残していることがあるのではないかという考えが、脳裏を離れなかったのだ。
翌日、再びおばさんに連絡を取った。
彼女は私の話をじっと聞き、しばらく沈黙した後、静かに言った。
「その家には、あなたの両親が残した何かが隠されているのかもしれない。
行くなら、覚悟を持って行くことよ。」
おばさんの言葉に背中を押され、私は再びあの家へ向かう決心をした。
帰宅するときの道は異様に暗く、見慣れた景色がすべてよそよそしく感じられた。
家の前に立つと、以前と変わらない古い佇まいが私を迎え入れていた。玄関を開けると、重い空気が押し寄せる。
腐敗した匂いも、ぬるついた冷たさも、そのまま残っていた。
仏壇の前で手を合わせ、私は心の中で両親に問いかけた。
「どうして私にこの家を残したの?何がここにあるの…?」
そのとき、奥の物置部屋からかすかな音が聞こえた。
まるで何かが私を呼んでいるような、鈍い音。私は恐怖を押し殺して音の方へ進んだ。
物置部屋は暗く、埃が舞い上がる中、奥に置かれた古い箱が目に入った。
その箱は、父が大切にしていたものだったと思い出した。中には何が入っているのか、私は知るよしもなかったが、手を伸ばし、その重い蓋をゆっくりと開けた。
箱の中には、古びた日記帳と、何枚かの写真が入っていた。
写真には私が小さい頃の家族の姿が写っているが、どれも不鮮明で、顔がぼやけて見える。
そして日記帳を開くと、そこには父の字でこう書かれていた。
「家の中に何かがいる。」
その言葉を見た瞬間、寒気が背中を駆け上がり、手が震えた。
父は、この家で何か異常なものを感じていたのだ。
しかし、どうしてそれを私に話さなかったのか。そして、その「何か」とは一体…。
ページをめくると、日記は急に母の筆跡に変わっていた。
母もまた、家で奇妙な現象に悩まされていたらしい。
彼女の記述には、無意識に仏壇の前で立ち尽くすことや、耳元で囁かれる声について書かれていた。そして最後のページにはこう記されていた。
「この家から逃げられるのは、血の繋がった者だけ。」
その言葉を目にした瞬間、重い音とともに物置部屋の扉が閉まった。闇に閉ざされた空間の中、私は確かに何かの気配を感じた。
仏壇で私を見下ろしている、あの見えない何かの視線が、私を逃がさないように捉えているように思えた。
恐怖で息が詰まりそうだったが、私は両親が家に遺した日記を握りしめ、目を閉じて祈った。
私がこの家に戻った意味を教えてほしいと。
やがて、闇の中で微かな光が差し込み、私は再び玄関の方向に向かって歩き出した。
その光を目にしたとき、何かが変わったように感じた。
物置部屋の扉が静かに開き、目の前に暗く湿った廊下が広がっていた。
家の中に漂っていた嫌な匂いが少しだけ和らいだような気がする。
私は迷うことなく、その廊下を進んだ。
心臓が激しく鼓動しているのを感じる。
家全体が、まるで私を導いているかのような、無言の圧力をかけてきている。
まるで、私が求める答えを知っているかのような感じがした。
仏壇の前に辿り着くと、あの時と同じように、家の空気が少し変わったような気がした。
私の頭の中にふっと、父と母の顔が浮かぶ。
彼らはこの家で何を感じ、何を見ていたのか。
あの日記に書かれた「血の繋がった者だけ」という言葉が、今さらながらに重く心に響いた。
その時、突然、仏壇の前に何かが現れた。
目を開けると、そこには母の姿が立っていた。
しかし、母の姿は見たことのある優しいものではなく、まるで霊のように青白く、目は虚ろで、まるで私を試すかのような冷たい視線を投げかけていた。
「お母さん…?」
声が震える。私はその場に立ち尽くし、動けなかった。
母が微笑んでいるように見えたが、その笑顔の中には不安と恐怖が交錯していた。
「あなたは…。」
母の口が動き、まるで私に何かを伝えようとしている。
しかし、声は出なかった。
その代わり、私の頭に直接、言葉が響いてきた。
「家を出てはいけない。ここには、私たちの代償がある。」
その言葉が私の心に深く刻まれた瞬間、私は思わず足を踏み出した。
しかし、体が動かない。まるで家全体が私を拘束しているかのような圧力を感じ、立ちすくんでしまう。
母の姿は徐々に消え、代わりに何かがその場に現れるのを感じた。
目を開けると、そこに立っていたのは見覚えのある存在――祖母だった。
「あなたも、わかるだろう?」
祖母は、穏やかな目で私を見つめながら、言葉を続けた。
「この家に残されたものは、私たちのものだけではない。この家には、もっと古い何かが眠っている。あなたが戻ったことで、またその何かが目を覚ましたのだ。」
祖母の声が静かに響き渡り、私の心の中に何かが走った。
祖母はかつて、家の歴史について語っていたことを思い出した。
家に眠る古い何か。私の家族がここで守り続けてきた秘密。
祖母はそれを知っていた。
「でも、どうして私に…?」
私は問いかけた。祖母は一瞬黙り込み、静かに答えた。
「あなたは、私たちの血を引く者だ。その血が、この家に呼ばれた。」
その言葉が私の中で繰り返される。
やがて、私は思い出した。
この家に伝わる暗い歴史、そしてその代償として家族が背負い続けてきた呪縛。私が家に戻った理由は、単に偶然ではなかった。
私の血は、この家と深く繋がっている。
突然、耳元に風のような音が聞こえ、振り向くと、目の前に立つ祖母の姿はすでに消えていた。
その代わりに、家の中がさらに重く、何かが迫ってくる気配を感じた。
仏壇の前にひときわ強い力が渦巻いているのが感じられ、私は恐怖を感じた。
その瞬間、部屋の隅にある古びた鏡が、まるで何かを映し出すかのように反射した。
鏡の中に見えるのは、私ではなく、まるで別の誰か――それも見知らぬ顔が、私をじっと見つめている。
その顔に見覚えがない。ただただ虚ろで、目だけが異常に輝いていた。
それはまるで、何世代にもわたる家の呪縛を受け入れ、息づいているような不気味な存在だった。
その時、私は完全に理解した。
この家が私に呼びかけていた理由も、そして私が何をしなければならないのかも。
私の血が、この家の運命を繋げている。
そして、それを断ち切るには、私自身が何かを選ばなければならない――この家に何が宿っているのか、それを直視する覚悟を持たなければならない。
「さあ、選べ。」
その声は、私の頭の中から響いた。
「さあ、選べ。」
その声は、耳元ではなく、頭の奥から響いた。
深い、重い音。どこからともなく、私を試すような問いが繰り返される。
視界が歪み、目の前の仏壇がゆっくりと揺れた。
何もかもが不安定で、現実と幻の境界が曖昧になったような気がする。
私はその声に圧倒されながらも、なんとか冷静さを保とうとした。
家全体がまるで生きているかのように、私をじっと見守っている。
壁の隙間からは、かすかなざわめきが漏れ聞こえてきて、床の隅には湿気が滲み、霧のように漂っている。
そして、ふと気づく。先ほど、鏡に映った見知らぬ顔。それは誰だったのか。家の歴史を知る祖母が言った「家に眠る古い何か」
それが何を指すのか、私はもう理解していた。
それは、私の祖先がこの家で犯した罪の償いであり、無念の魂が囚われている証だった。
私は息を呑む。
鏡に映った顔が、今度は少しずつ近づいてきたような気がする。
目の前に現れることはないが、確かに、その存在が私を見つめている。無言で、ただひたすらに。
「選べ…。」
再び、あの声。
今度は私の背後から響いてきた。
息を飲み込む。
背後には何かが立っている。
冷たい気配を感じるが、振り返ることができない。
なぜなら、その気配があまりにも強烈で、振り返った瞬間に何が待っているのか、予感がしていたからだ。
その時、思い出した。家の呪縛を解くためには、私が過去と向き合わなければならないことを。
突然、仏壇の前に散らばった古びた日記が目に入った。
私の父が書き残したものだ。
死の直前まで彼は家のことを書き綴っていた。
しかし、父が何を知っていて、何を恐れていたのか、それを私は知らないままだった。
私は、力を振り絞ってその日記を手に取る。
ページをめくると、そこにはかつて家族が犯した罪と、その代償が記されていた。
何世代にもわたる、取り返しのつかない選択。
家に流れる呪いの起源。
そして、今、この家に宿る何かが私を呼び寄せていること。
「私は…どうすれば?」
思わず声に出して問うと、またあの不気味な声が返ってきた。
「選べ。家を守るか、家を壊すか。お前の血が、その運命を決める。」
その言葉が私を締め付ける。
私は深く息を吸い込み、心を決めた。
家を守ることができれば、私は祖先たちの負の連鎖を断ち切ることができるだろうか?
それとも、この家を壊すことで、呪いを解くことができるのか?
私が選んだのは、後者だった。
心の中でその決断を固めた瞬間、部屋の空気が変わった。
すべてが暗くなり、仏壇の中から深い、重い力が放たれた。
床の隙間から、冷たい霧が湧き出し、空気が一層湿気を帯びていく。まるで家が私の決断に反応しているようだ。
その時、遠くから聞こえてきたのは、私の名前を呼ぶ声だった。
「結衣。」
それは、母の声だった。
だが、その声はどこか不安定で、まるで亡霊のようだった。
「結衣…。」
その声に導かれるように、私は足を踏み出した。
仏壇の前に近づき、再びその中を覗き込む。
その瞬間、仏壇の中から現れたのは、私の母ではなく、父の姿だった。
けれど、その顔は見覚えのあるものではなく、
何かを背負ったような、苦しみを感じさせる表情だった。
「お前は…どうして…?」
父の目が虚ろに私を見つめ、言葉を続けた。
「家を壊すのか、守るのか。選べ…。」
その瞬間、家全体が震えるように揺れ、壁がひび割れて崩れ始めた。
冷たい空気が私の肌を刺し、目の前が暗くなり、全てが混乱の中で崩壊していく。
私は、最後の瞬間まで決して後悔しないと誓った。
壁が崩れる音、床が軋む音、そしてどこからともなく響いてくる低い呻き声が交じり合って、家全体が生き物のように私を圧倒してきた。
目の前が歪み、ぼやけ、ついには全ての色が暗くなった。
その瞬間、足元が抜けるように感じて、私は床に膝をついた。
心臓が胸を激しく打ち、息が荒くなる。
家全体が自分の意思を持っているかのように、私を拒絶しようとしているのか、私が選んだ破壊という道を許さないかのように。
「選べ…。」
再び、あの声が響く。
今度は私の頭の中から、深く、重く、直接的に。私の意識を揺さぶるその言葉が、私の全身を支配してきた。
どうしてこんなにも苦しいのか、どうしてこんなにも私の選択を引き裂こうとするのか、理解できない。
「家を壊すのか、守るのか。」
家が泣いているように、耳を劈くような音が響く。
私は目を閉じ、必死に深呼吸を繰り返す。そ
の中で、やっと気づいた。
この家の呪いは、私だけではなく、この家に住む全ての者の過去の重さが積み重なってきたものだ。
私一人の決断で、こんなにもこの家が歪んでしまうのか。
いや、そうではない。
私は自分に言い聞かせるように呟く。
「これは私の家じゃない。私の命じゃない。」
私が家を壊さなければならない理由が見えてきた。
その呪いを終わらせるには、過去の罪を清算し、この家の所有権を引き裂かなければならない。それが、私が選んだ破壊という道。
私は立ち上がり、迷うことなく仏壇の扉を開けた。
中からは薄暗い光が漏れ、煙が立ち上っていた。
手が震えながらも、私はお経を唱えることなく、そっとその中に手を伸ばした。
触れた瞬間、体中に強い電撃が走るような感覚が広がった。
仏壇の中から、何かが私に引き寄せられてくる。
背後で、何かが動く気配を感じる。
それは、私が心の中で恐れていたもの。あの無念の霊たちの姿が、仏壇から這い出し、私を取り囲む。
「結衣…。」
私の名前を呼ぶその声は、もはや母でも父でもなかった。
誰か、何か、得体の知れない存在が私に近づいてきて、耳元でささやく。
「家を守れ。お前が守らなければ、この家は崩壊する。」
その声に引き寄せられるように、私は足を一歩踏み出し、今度は仏壇をそのまま引き裂いた。
中から、目を覆いたくなるような黒い煙が噴き出し、部屋全体に広がった。
煙の中で、家が叫ぶような音が聞こえ、私の耳が痛くなる。
そして、そこに現れたのは、見覚えのある存在だった。
祖父の姿。それは、私が幼い頃、死んだはずの祖父だった。
けれど、その顔には明らかに人間ではない何かが宿っていた。
祖父は私に微笑みかけ、そして言った。
「お前が選ぶのだ。」
その言葉が、私の体を揺さぶる。
祖父の目が、暗い深淵のように私を見つめ、私の中に何かを引き込んでいく。
その時、私は悟った。
祖父もまた、家の呪縛から逃れられなかったことを。
そして、その呪いが私に引き継がれたことを。
私は力を振り絞り、祖父に向かって叫んだ。
「私は、この家を壊す!」
その瞬間、家の中が爆発したように揺れ、壁が崩れ、天井が落ちてきた。
すべての音が激しく反響し、床が割れ、家全体が崩壊していく。私の足元から、冷たい霧が立ち上り、家の中から無数の影が浮かび上がってきた。
すべてが滅びていくのを感じながら、私はその力に抗い続けた。
そして、気づいた時には、私は家の中に一人きりだった。
外は静寂に包まれ、家の残骸の中に、私は立っていた。
恐怖と安堵が交錯し、胸が締め付けられるような感覚が続いた。
家はもはや無かった。
かつてあった家の形跡すらも消えていた。
私はその場に膝をつき、呆然と立ち尽くした。
心の中で、何度も繰り返す。
「私は壊したんだ。これで終わったんだ。」
けれど、空気が静まり返ったその瞬間、私はふと感じた。
私の中に、まだ残っている何かがある。
家の呪いは、確かに終わった。
しかし、それを終わらせた代償が、私の中に何かを引き寄せていた。
そのことを、私はまだ理解していなかった。
静けさの中で、私は立ち上がり、周囲を見渡した。
壊れた家の中には、無数の瓦礫と黒い煙が漂っている。
かつて家族が住んでいた部屋も、今ではただの廃墟と化していた。
だが、何かが違う。
ここには、まだ何かが残っているような気がした。
私は足元を確かめるように歩きながら、ふと目を凝らした。
その中に埋もれていたのは、かつて私が母と一緒に使っていた小さな時計だった。
壊れたガラスの中に、かろうじて時を刻んでいた針が微かに動いている。
その不気味さに、私の心臓が一瞬早鐘のように鳴った。
「なんで…。」
声が漏れた。
私はその時計を拾い上げ、震える手でじっと見つめた。
かつて、この時計は家族の絆を象徴するものだった。
だが、今それは、呪いの象徴のように私の手の中で冷たく輝いている。
背後から、またあの低い声が聞こえた。
「終わったわけではない。」
私は振り返り、目を見開いた。
周囲に誰もいない。
しかし、確かに、その声は私のすぐ近くで響いた。
「あなたが家を壊しても、呪いは消えない。」
その声は、今度ははっきりとした形となって現れた。
私は恐る恐る振り向くと、そこには薄暗い影が立っていた。
顔がはっきりと見えないその影は、まるで霧のように立ち上がり、私の前に現れた。
「誰…?」
私は声を震わせて尋ねた。
その影は、答える代わりに静かに歩み寄ってきた。
目が合った瞬間、私はその目に引き込まれるような感覚を覚えた。
目の前の影は、まるで私の過去をすべて知っているかのように、静かに微笑んだ。
「お前の罪を背負っている者だ。」
その言葉に、私は頭の中が真っ白になった。
罪? 私は何も悪いことをしていない。
私はただ、この家を壊して、解放しようとしただけだ。それがどうして罪になる?
「お前がこの家を壊した理由を、忘れるな。」
その影の言葉が、私の胸に重く響いた。
私は無意識にその時計を握りしめ、震える手でその影を追おうとした。
しかし、目の前の影は一瞬で消え、代わりに不気味な冷気だけが残った。
その冷気の中で、私は何かを感じ取った。
「壊さなければならなかった…。」
声が、再び響く。その声は、今度は私の内側から聞こえてきたように感じた。
私の心の奥底から、あの家の呪いが私を呼び寄せている。
「まだ、終わっていない。」
その言葉が私を強く突き動かし、私はもう一度、家の残骸に足を踏み入れることに決めた。
だが、今度はただの壊れた家ではない。
私はその中で、さらに深い秘密を掘り起こす必要があった。家の呪いが解けたわけではない。
それを感じるたびに、私は足元が不安定になる。
私は暗闇の中を歩き続けた。
その先に、誰も触れることができなかった、長い間封じ込められたものがあることを知っていた。
家は生きている。
呪いが、ここに住む者を取り込んで、永遠に続けるために。だが、今度は私がその呪いを断ち切る番だ。
そして、私はその場所に辿り着いた。
それは、家の一番奥の部屋。
かつて、私がまだ幼かった頃に遊んだ部屋。
今では無惨に崩れ落ちているその部屋に、私は静かに足を踏み入れた。
そこには、まだ色鮮やかな家族の写真が飾られていた。
しかし、それらはすべて目を見開いて、まるで私を睨みつけるかのように感じた。
私はその中に、誰かが潜んでいることを知っていた。
そして、家の奥から現れたその存在が、私に最後の問いを投げかける。
「お前は、家を壊した後、どうするつもりだ?」
その問いに、私は答えられなかった。
何も分からない。
ただ、家を壊すことが最善だと思っていた。
それだけだった。
しかし、今、その結果が何を意味するのかを、私は全く理解していなかった。
家の呪いが、私の内側からじわじわと広がっていく感覚。
もしかしたら、私はもうすでにこの家の一部になってしまっているのかもしれない…。
そして、呪いの中で生きていく覚悟を決めた瞬間、私は再びその家の中に飲み込まれた。
終わりではなく、これは新たな始まりに過ぎなかった。
暗闇の中で、私は立ち尽くした。
耳鳴りがひどく、心臓が早鐘のように激しく打つ。
目の前に広がる光景は、現実なのか、幻なのか、もうわからなかった。
あの声が、私の内側から響いていたのだろうか。
それとも、この家の呪いが私を完全に取り込んでしまったのか。
私は、無意識のうちに手を伸ばして、部屋の壁に触れた。
冷たい壁、ひんやりとした空気。
だが、その冷たさは普通のものではなかった。
手を離すと、壁から何かがついてきたような感覚があった。
振り返ると、薄暗い中で黒い影がうごめいているのがわかる。
「誰だ?」
私は声を絞り出したが、返事はなかった。
ただ、足音が近づいてくる音が響き、やがて影が形を成す。
その姿は、まるで過去の誰かが具現化したようなものだった。
その影がゆっくりと近づいてきて、私はその顔を見た瞬間に息を呑んだ。それは、間違いなく私の母の顔だった。
「母さん…?」
私は震える声で呼びかけた。
だが、母の顔は微動だにせず、ただ無表情のまま私を見つめ続けていた。
その目は、空虚で、何も感じていないように見えた。
それが、ただの幻覚だとしても、私にはそれが本物の母に見えて仕方がなかった。
「お前は…。」
母の口が動いた。
その声は、かつての温かい母の声とはまったく違っていた。
冷たく、無機質で、まるで私を試すような響きだった。
「お前は、この家を壊して何を求めている?」
その言葉が胸に突き刺さった。
私は答えることができなかった。
壊すことが最善だと思った、解放だと思った。
しかし、母が問いかけるその目に、何か別の意味があるような気がした。
「解放…?」
私は自分に問いかけた。
もし、この家を壊すことで本当に解放されるなら、私は何のためにここに戻ってきたのだろう? それはただの逃げだろうか? それとも、私は本当にこの家と向き合わなければならないのか?
その問いが、私の頭の中で渦巻いていた。
母の姿は、ただ私を見つめるばかり。
だが、その目に込められた答えは、私には到底理解できなかった。
突然、目の前の影が動き出した。その動きに私は反応できず、立ち尽くすばかりだった。
影は一瞬で私の目の前にまで迫り、その冷たい手が私の腕を掴んだ。
「お前は、終わらせることができない。」
その声が、私の頭の中で響き渡った。
体が硬直し、動けなくなる。母の顔が近づき、その口元が歪んでいくのが見えた。
まるで不気味な笑顔を浮かべているようだった。
その笑顔は、私に向けられたものではなく、ただ呪いのように空間を支配していた。
その瞬間、私は強い衝撃を感じた。
目の前の暗闇がぐらぐらと揺れ、次第にその場から引き離されるような感覚が広がった。
私はその場から消えるように動き出し、ただただ出口を求めて走り出した。
足元がふらつき、心臓が息を呑むように鼓動を響かせる。
目の前に、ようやく開かれた扉が見えた。
私はその扉に向かって必死に駆け寄り、ドアノブを握った。
しかし、扉が開いた瞬間、目の前には見慣れた部屋が広がっていた。
まるで何事もなかったかのように、家の中の様子が戻っていた。
その瞬間、私は理解した。これは逃げ場ではない。
私が家の呪いから逃げることは、永遠にできない。
家は私を試し続け、私が家を壊すたびに、逆にその呪いが私に食い込んでいくのだ。
「お前は…。」
再び、母の声が聞こえた。
今度は、私の背後から
。振り向いた私は、暗闇の中でただ母の影を見つめるだけだった。
「お前は、この家を壊しても壊しても…消えない。」
その言葉が、私の心を打った。
私はもう逃げられない。
この家と、私は一体になったのだ。
そして、私の内側で響く呪いの声が、徐々に大きくなっていった。
家の一部として、私は永遠にここに囚われるのだろう。
最初はそれが恐ろしいものだと感じたが、今ではもう、どこか冷静に受け入れている自分がいた。
私は呪われた家の中で、永遠に歩き続けるだろう。
そして、私が何を求めていたのか、何を逃れようとしていたのかを、永遠に考え続けることになるだろう。
これが私の新しい現実だ。
そして、私はその現実の中で、静かに息を潜めていた。
完