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現代版 禍(わざわい) 禍母(かも)の都市

あらすじ
ある地方都市で、謎の疫病が急速に広がり始め、町は徐々に閉鎖されていく。感染源の特定を急ぐ中、科学者や医師たちは、感染者の一部が奇妙な悪夢を見ていることに気付く。そこには「禍母(かも)」と呼ばれる不気味な獣の姿があり、それは呪われた姿で針を咀嚼し、病や不幸を周囲にまき散らしているという。
その都市に住むフリージャーナリストの主人公は、夢の中で見た獣の存在が現実の疫病に関係しているのではないかと疑い、独自に調査を始める。調査の中で、主人公は感染拡大の中心に古い市場跡があることを突き止める。そこには、昔から「禍を売る商人」の伝説があり、その正体は災禍を引き寄せる存在だと言われていた。
主人公は真相を探るために市場跡へと向かうが、そこで「禍母」の実体化した姿を目撃する。この禍母は、かつて国を滅ぼしたとされる伝説の「禍」を再現するかのように、周囲に不幸をもたらし続け、焼き尽くそうとしていた。果たして主人公は、この禍から逃れ、都市全体を救うことができるのか…。

主人公と登場人物のプロフィール

主人公

  • 名前:高橋 聡美(たかはし さとみ)

  • 年齢:32歳

  • 職業:フリージャーナリスト

  • 容姿:黒髪でショートボブ、やや目の鋭い印象。カジュアルな服装を好むが、動きやすい靴やジャケットをいつも身に着けている。

  • 性格:真実を追い求める探究心が強く、無謀な一面もある。冷静に見えて内心は不安や恐怖を抱えつつも、直感を信じて突き進むタイプ。

  • 背景:新聞社を辞めてフリーに転向。疫病の調査を依頼されるが、深いところに潜む「禍」の存在を次第に知ることとなる。

  • 特徴:幼い頃から、他人が見えないものが時折見える体質。これまで隠してきたが、次第に禍母の存在をより鮮明に感じるようになる。

登場人物

  1. 和泉 隆二(いずみ りゅうじ)

    • 年齢:45歳

    • 職業:感染症研究所の医師

    • 容姿:小柄で痩せ型。長年の疲労からか、くすんだ顔色と深い目のクマが特徴。

    • 性格:頑固で冷静だが、一度関心を持ったことには強い執着を見せる。人に厳しく、感染者に対しても冷徹な態度を取るが、実は強い責任感に突き動かされている。

    • 役割:疫病の原因を追究する聡美の協力者。疫病の「禍母」説を最初は否定するが、やがて不可解な現象に巻き込まれて考えを改める。

  2. 謎の商人

    • 年齢・性別:不明(見た目は年配の男性)

    • 容姿:黒い服に身を包み、古びた市場の一角に佇む謎めいた商人。顔は陰に隠れ、口元しか見えない。

    • 性格:物静かで、問われない限り語らないが、深い知識と得体の知れない威圧感がある。実際には天の神の化身であり、禍母を街に送り込む役割を担う。

    • 役割:禍母の元凶として登場し、災いをもたらす象徴的な存在。聡美の疑問に不気味な言葉を投げかけ、彼女の恐怖を煽る。

現代版 禍(わざわい) 禍母(かも)の都市



疫病が広がり始めたのは、いつからだっただろう。
街は徐々に、その元気を失い、陰鬱な空気に包まれていった。
最初はただの風邪が流行っていると思っていた。
だが、いつしか感染は広がり、見えない何かが街の人々を締め付けていくように思えた。

「高橋さん、今夜の調査も続けるのか?」
同僚の和泉が、心配そうに私の顔を覗き込む。

彼の目には疲れが見えているが、同じように私も、鏡を見れば自分が疲弊していることに気づくだろう。

「ええ、ここで止めるわけにはいかないから。」
そう言いながら、私は心の中で言い訳をしている自分に気づいていた。

たとえどれだけの人が倒れようと、疫病の根本原因を見つけられなければ、私の調査は無意味なものとなる。



夜の街は、昼間とはまた違った不気味さがあった。
感染拡大が続き、人々は家に閉じこもり、静まり返っている。
ほんの数か月前までは、賑やかだった商店街も今は灯りが消え、まるで息をひそめているかのようだ。

歩きながら、私はふと目に止まった古びた市場の入口に立ち寄る。
この市場は何十年も前から営業しておらず、廃墟同然だ。だが、この場所に足を踏み入れるたびに、私は何かに呼ばれているような感覚に襲われる。

「禍母(かも)の伝承がこの街にあるなんて…。」
ここに来て、あの伝説を思い出してしまう。

かつて「禍母」と呼ばれる怪物が、この街に不幸をもたらしたという話だ。大昔、王が「災いを見たい」と言い出し、家臣たちに災いを求めさせたという。
その結果、連れ帰られた禍母は街の人々に災いを撒き散らし、最終的には街そのものを滅ぼしてしまったという話。

「ただの作り話じゃないのか…?」
自分に言い聞かせてみるが、気持ちの奥底では、単なる迷信だと片付けられない何かがあるのだ。

この疫病といい、街全体に漂う不吉な空気といい、どこか現実離れしている。

背後に立っていた和泉が、私の不安な表情に気付いたのか、ぽんと肩を叩いてくる。
「高橋さん、大丈夫か? 疲れているなら、今夜は休んでもいいんだぞ。」

「ううん、大丈夫。ありがとう。でも、やっぱりこの市場には何かある気がするの。」
そう言って私は振り返り、廃れた市場の奥へと目をやる。
闇の中からじっとこちらを見ている気配がするようで、足元に冷たい風が忍び寄ってくる。
禍母がここに眠っているのではないか――そんな考えが頭をかすめる。


市場の奥に足を踏み入れると、空気がさらに重く淀んでいるのがわかった。何十年も放置されているこの場所には、埃と黴の匂いが充満し、息を吸うだけでその不快さが肺の奥に張り付くようだ。
けれども、どうしても引き返すことができなかった。

一歩、また一歩と進んでいくと、不意に何かが足元で崩れる音がした。
見下ろすと、朽ちた木片の中に、小さな針が無数に散らばっている。
ゾッとしたが、体が勝手に動き、私はその針を一つ拾い上げてしまっていた。

「なんでこんな場所に…。」

一見、古びた市場の廃墟としか見えないこの場所に、どうして針が散らばっているのだろうか。
まるで、あの禍母の伝承に出てくる「針を食べる怪物」の話を暗示しているようで、背筋が冷たくなる。

その時、奥から微かに音がした。
耳を澄ませば、かすかに「ザザ…ザザ…」という、何かを引きずるような音が遠くから聞こえてくる。

心臓が嫌な鼓動を刻み始め、喉の奥が乾いた。
「和泉…?」
振り返っても、和泉の姿は見当たらない。
彼がいたのは確かにさっきまでだったのに、気づけば、暗い市場に私一人が取り残されていた。
足元の針が何かの合図のように響き、その不気味な音が少しずつ近づいてきているように感じる。

「落ち着いて…ただの風の音か、動物か何かよ…。」
自分にそう言い聞かせようとするが、背後から感じる視線が強まるばかりで、冷や汗が背を伝う。

逃げ出したい衝動に駆られつつも、なぜか足が動かない。
まるで何かに囚われたかのように、その場から一歩も動けなくなっていた。

その時、私は再び、禍母の伝承を思い出した。
市場で売られていた「禍の生物」は、一度視線を合わせた者を逃さないと言われている。
視線を交わしてしまえば、もう逃れることはできない。

「誰か…いるの?。」
思わず呟いた私の声が、空虚な市場の闇に吸い込まれていった。
返事が返ってくるはずもなく、ただ「ザザ…ザザ…」という音だけが近づいてくる。

不意に、私は気配を感じた。見えない何かが私の目の前にいる。

恐怖で喉が凍りつき、言葉が出なくなった瞬間、暗闇の中から現れた影が、私をじっと見つめていた。


暗闇の中に浮かび上がった影は、まるでこの場所の一部のように、微動だにせず佇んでいた。
大きく、威圧的で、周囲の空気すら吸い込んでしまうかのような存在感がある。

その輪郭はぼやけているが、間違いなく私を見つめていると感じた。
「…誰?」
声がかすれて出てしまった。
影は答えない。代わりに、かすかな音がする。

「カリ…カリ…」と、何かを噛むような音が耳に届く。
それは人間の行動ではあり得ないもので、私は一瞬にして、伝承の「禍母」という言葉を思い出してしまった。

――禍母は、針を食べる怪物。
足元に散らばっていた針が、一層重く感じられ、私は無意識に後ずさった。

だが、その影がそれを許すかのように、音もなく一歩こちらに迫ってきた。

その動きに、身体が凍りつく。
「逃げなきゃ…。」
心の奥で叫んだが、なぜか体が動かない。
影がじりじりと近づき、顔がだんだんと見えてくる。
目が合ってしまえば、伝承の通り逃れられなくなるかもしれない――そんな不安が私を捕らえていた。

すると、不意に後ろから肩を掴まれた。
「高橋さん! どうした?」
和泉の声だった。
彼の手が私の肩を揺さぶり、ようやく我に返った。
息を飲み、振り返ってみると、そこには心配そうな表情を浮かべた和泉が立っている。

「…和泉…、あの…。」

背後を振り返ると、さっきまで感じていた影はもう消え去っていた。
そこには何もなく、ただ薄暗い市場の通路が広がっているだけだ。
私が見たものは、ただの幻覚だったのだろうか。
それとも、和泉が現れたことで影が消えたのか?

「大丈夫か? 顔色が悪いぞ。何かあったのか?」

「…ううん、何でもない。ただ、ちょっと見間違えたのかもしれない。」

そう答えながらも、私は未だに心臓が早鐘を打つのを感じていた。
和泉の登場で現実に戻されたものの、確かに「何か」を見たという感覚は消えない。

「ここは一旦引き上げよう。今日はもう調査は終わりにして、少し休むべきだ。」
和泉の言葉に、私は小さく頷くしかなかった。

市場から離れながらも、あの影の記憶が頭から離れない。
禍母は、本当にただの伝承に過ぎないのだろうか? 疫病が広がり続ける中、私は答えを探さずにはいられなかった。


その夜、帰宅したものの、心のざわめきが収まらなかった。
あの市場で見た「影」は、あまりに生々しく、ただの幻だと片付けることができない。
何度も頭の中で繰り返し考えていると、禍母の伝承が脳裏に浮かび上がり、心がますます重くなる。

――禍母が災禍をもたらす。

その言葉の意味が、今になって冷たく響く。
もしあれが本当に「禍母」だとしたら、この街に広がる疫病との関係はどうなのだろう?考えれば考えるほど、私の中で疑念が膨らんでいった。

一度深呼吸をしてから、私はパソコンに向かい、禍母についての情報をネットで検索してみることにした。
古い伝承に過ぎないはずだから、詳細な情報は見つからないだろうと思っていたが、意外にも幾つかのサイトで話題にされている。

「禍母は災いを生み出す存在であり、古代では疫病や飢饉の原因とされていた…。」
幾つかの記事を読むと、禍母が現れるとその地域には疫病が広がり、都市が荒廃すると書かれていた。
記事の一つには、疫病が発生するたびに禍母の噂が流れ、人々がその恐怖に怯えたとある。

ぞっとした。まるでこの街の現状と重なって見える。

そして、とある掲示板の書き込みが目に留まった。

「最近、禍母の姿を見たという噂を聞いた。あの市場の廃墟で、夜な夜な禍母の気配が感じられるらしい。針を持っていくと、禍母の影が現れる…。」
その書き込みを見て、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。
まさか、私が市場で見た影は本当に禍母だったのだろうか?

次の日、私は再び市場へ向かう決心を固めていた。
禍母の正体を暴かなければ、疫病の原因やこの街の行く末もわからない。
和泉にそのことを話すと、彼は不安そうな表情を浮かべたが、私の意志の強さを見て、最終的には同行することを決めてくれた。


市場の入り口に到着すると、昨日と同じく不気味な静寂が広がっている。
今日の私は、あの時とは違う。
ポケットには一つの針を忍ばせている。もし噂が本当であれば、禍母の存在が現れるはずだ。

「ここに戻ってくるのは、やっぱり嫌な気分だな…。」
和泉が小さく呟く。
だが、私もその気持ちは同じだ。市場の奥へと歩を進めるにつれ、昨日の影の記憶が鮮明に蘇る。
張り詰めた空気の中で、私たちは無言のまま奥へと進んでいった。

暗がりに包まれた一角で、私は静かにポケットから針を取り出した。
そして、足元に落とすと、その小さな音が妙に大きく響いた。
一瞬、息を飲む。

市場の奥で、何かが動いた気配がした。
影がゆっくりとこちらに向かって近づいてくる。
それは昨日見たものと同じ、いや、もっとはっきりとした姿で、禍母そのもののように感じられた。

「…あれが…禍母なのか?」
和泉が呟く声が震えている。

目の前に迫る影は、間違いなく禍母だった。

針をエサにして、街に災厄をもたらす存在――それが今、私たちの前に現れている。


禍母の影がさらに近づいてきた瞬間、冷たい汗が背中を伝うのが分かった。和泉も私の隣で震えているのが伝わる。
目の前の影は禍々しい気配を放ち、その中に閉じ込められた無数の怨念のようなものがひしめいているようだった。
もはやこれはただの幻覚や噂ではない。現実に禍母がこの街に蘇り、疫病や災厄を呼び寄せているのだ。

「どうする…このままここにいたら…。」
和泉の声はかすれていたが、私もどうすればいいのかわからない。

ただ、これ以上無為にこの禍母に災厄を呼び続けさせるわけにはいかなかった。何か方法を見つけないといけない、そんな焦りが私の中に芽生えていた。

「和泉、火だ…! 火を使えば禍母は退けられるかもしれない。」
そう言って、私は慌てて持っていたライターを取り出し、手元の紙くずに火をつけた。すると、禍母の影が一瞬、怯むように揺らめく。

「…効いているのか?」
和泉が息を呑むのがわかった。

だが、次の瞬間、禍母はすぐに再びその姿を濃くし、私たちを睨むように目を輝かせた。
それだけで、私たちの足元の空気が凍りつくような恐怖に包まれる。

「火ではダメなのか…。」
私は絶望的な気持ちでその場に立ち尽くした。
何か他にできることはないのか――その時、脳裏にふと、掲示板で見た言葉がよみがえった。「天の神の化身だった。」という、禍母の由来だ。
もしかして、禍母は人々の意識の中にある悪意や恐れ、絶望を糧としているのかもしれない。

「和泉、こいつを倒すには…私たちが恐怖や絶望に囚われないことが鍵なのかも。」
私は震える手を抑えながらそう言った。

もし、禍母が災厄を呼ぶ象徴だとすれば、その存在を許さず、私たちが恐れることでその力を与えてしまうのだとしたら――私たちがその恐怖を乗り越えなければ、この禍母は消えないかもしれない。

「…怖くない、怖くない…。」
自分に言い聞かせるように、私は何度もそうつぶやいた。

そして、意を決して、禍母に一歩近づいた。
禍母の赤い目がじっと私を見つめ返しているが、私は震えを抑え、その目をまっすぐに見返した。

「お前に、この街をこれ以上破壊させはしない。私たちは、お前に屈しない。」
その瞬間、禍母の影が揺らぎ、赤い目の輝きが次第に弱まっていくのが見えた。
和泉も恐怖を振り払うように、私の隣で立ち続けている。

「消えろ…私たちはもうお前を恐れない。」
禍母はやがてその形を失い、影のように溶けて消え始めた。

街の中に漂っていた陰鬱な気配も、少しずつ薄れていくのを感じた。


私たちは禍母の存在を否定し、恐れを乗り越えたことで、ようやく災厄の象徴である禍母を追い払うことができた。
しかし、今回の体験は決して忘れることができないだろう。

禍母が実在するのか、それとも人々の恐怖が生み出した幻影だったのか――その答えはわからないままだったが、私たちには一つの教訓が残された。

「恐怖と絶望が力を持つのは、それを心に受け入れるときだけだ。」

和泉と共に市場を後にし、私は深く息を吸った。

再びこの街が平穏を取り戻すことを願いながら、私は足を踏み出した。


禍母を退けたことで、少しだけ安堵の息をつけたかと思った。
しかし、街を歩くと、どこか重苦しい空気が漂っているのを感じる。
それは、あの市場を後にしてからずっと消え去ることなく、私たちを包み込んでいるようだった。

「なんだか、街の空気が変わった気がする…。」

和泉が呟く。私もその感覚を共有していた。
禍母を倒したはずなのに、街のどこかに不穏なものが残っている。
目に見えるもの、触れるものには変化がないが、どこかでその存在がまだ生きているような感覚が消えなかった。

「もしかして、私たちが思っている以上に禍母は強力な存在だったのかもしれない…。」
私の言葉に和泉は頷いたが、その表情にはまだ疑念が色濃く浮かんでいた。

何かが違う――私たちが感じている不安は、単なる気のせいではない気がする。

その夜、私の部屋でパソコンを開いていると、突然、画面に映し出された文字が目に飛び込んできた。

「禍母の復活。再び街を襲う。」
息が止まるような衝撃を受けた。
記事の日付は、昨日の日付だった。
私たちが禍母を退けた後にも関わらず、再びその存在が復活し、街に災厄をもたらすという内容だった。

「こんなこと、あり得ない…!」
私の心臓は鼓動を速め、手が震えて止まらない。
禍母を倒したはずなのに、どうして?
急いで記事の詳細を確認すると、その内容はさらに不安を煽るものだった。

どうやら、禍母を退けたことは一時的な効果に過ぎず、禍母の力は街全体にすでに染み渡り、消えることはないという警告が続いていた。
禍母の存在は、物理的な力だけでなく、街に根付いた恐怖そのものに関係しているらしい。
恐怖が街に広がり、禍母の影響を強化しているというのだ。

「和泉…。」
私は、心底、恐怖を感じていた。

この街に残る禍母の影響は、ただの恐怖では終わらない。
人々が恐れを抱けば抱くほど、その恐怖が実体化して、再び禍母を呼び寄せるというのだ。
そのことを和泉に話すと、彼はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。

「だったら、私たちがその恐怖を克服しない限り、この街は永遠に禍母に支配されることになるんだな…。」
その言葉に、私は全身に寒気を感じた。
和泉の言う通りだった。

恐怖が根強く残る限り、禍母の影響は消えることなく、街を蝕み続けるだろう。
私たちは、もう一度、禍母と向き合わなければならないのだ。

その日から、私は再び街の隅々を調べることに決めた。
禍母を本当に倒すためには、この街に広がる恐怖の源を断ち切らなければならない。人々が恐れ続ければ、それが禍母を呼び寄せることになるからだ

夜が更ける頃、私と和泉は再びあの市場に足を運ぶ決心をした。

今回は、ただ禍母を退けるのではなく、その根源を完全に断つために。
恐怖の源がどこにあるのか、それを見つけ出さなければならなかった。


再び市場に足を踏み入れた。昼間とは異なり、街の雰囲気はより一層、冷たいものを感じさせた。
午後の陽が差し込んでいるにもかかわらず、陰鬱な空気が漂い、町の通りには人影がほとんど見当たらない。

「やっぱり、ここは…おかしい。」
和泉が呟く。彼の声には、今まで以上の緊張感が込められている。
私も同じように感じていた。禍母の影響が街全体に広がっているのだとすれば、今はもう一歩も引き返せない。

「急ごう、和泉。」
私は和泉に軽く手を引いて、急いで市場の中心に向かって歩き出した。

あの異様な商人が禍母を売り出していた場所へ。
おそらく、禍母を呼び寄せた元凶である商人がまだそこにいるはずだ。
その商人が何者かを突き止めることが、禍母を完全に消し去るための鍵になると確信していた。

市場の中央に着くと、そこには何も変わらずあの古びた屋台が立っていた。

しかし、今となってはその屋台も恐ろしさを感じさせる。商人が座っていることはないが、周囲にはどこか不穏な気配が漂っている。

「何もない…。」

和泉がそう言ったとき、私はふと、屋台の下に目を凝らした。
そこに何かが置かれているのに気づいた。

それは見慣れた、古びた針の束だった。まるで、禍母を育てるために使われたもののように。
「これは…」
和泉が声を震わせながら、私にそれを見せてきた。
針の束は、まるで今でも禍母に食べさせるためのもののように、かすかに動いているかのように見える。

私たちの前に置かれていたそれは、ただの物ではなく、禍母の力を引き寄せる触媒になっているように感じられた。
そのとき、突然、背後から低い声が響いた。

「針に反応したか…。」
振り向くと、そこにはあの商人が立っていた。
彼の姿は以前と変わらず、薄暗い影に包まれていたが、その目だけは今も冷徹な光を放っている。

「お前が…禍母を売った商人か?」
私はその声を震わせて言った。
商人の表情には何も変化はなかったが、無言で頷いた。

「そうだ。だが、私はただの道具だ。禍母は私が売ったものではない、もっと深い存在からやって来た。私の役目は、あの恐怖を形にするための手助けに過ぎない。」

商人は冷たく言った。彼の言葉が、私の胸に冷たいものを突き刺した。

「深い存在…?」
和泉が声を上げる。
その言葉が示すものが、ただの商人の言い訳ではないことは明らかだった。

禍母は、単に人々の恐怖から生まれたわけではない。
それは、もっと古い力によって引き寄せられ、街に災厄をもたらしていたのだ。

「そう、禍母の力は古代のものだ。この都市に潜むものは、すでにこの場所に根を下ろしている。禍母はその引力を持っているに過ぎない。」
商人の目が、今度は私に注がれた。
その視線はまるで私を試すようなものだった。

「だが、もう一つの選択肢もある。お前が禍母の力を手に入れ、この街を支配するのだ。」
その言葉に、私は息を呑んだ。
商人の意図は明らかだった。
私に、禍母の力を与え、この街を支配しろと言っているのだ。だが、私はその誘惑には屈しない。

「私がその力を…?」
私は冷静に反論した。心の中で、禍母に支配されることは絶対に拒絶しなければならないという強い意志が湧き上がってきた。

「そんなもの、絶対に受け入れない。」
私の声は決して震えていなかった。
商人は一瞬、笑みを浮かべたが、それが意味するものは、恐ろしいほどに重くのしかかってきた。

「残念だ。だが、お前が拒絶するということは、この街を救うことを選ばなかったということだ。禍母の力はもう戻らない。だから、今度はお前がその力を無くすための役目を果たすことになる。」

商人がそう言い残し、私たちの前から姿を消した。

その瞬間、辺りが急に暗くなり、まるで世界がひっくり返ったかのように、空気が不安定になった。

「和泉、早く行こう!」
私は手を握り、和泉を引き寄せると、その場を急いで離れた。

商人の言った通り、禍母の力はこの街に完全に根付いている。

私たちが思っている以上に、恐怖は街全体を包み込んでいる。


商人の言葉が脳裏に響き続けている。
彼が言った通り、私たちが禍母の力を無くさなければ、この街全体が滅びるのは時間の問題だ。もはや後戻りはできない。

和泉が私の横で深く息を吐いた。
「ここまで来たら、もう引き返せないな。」
その声に、私も何も言わず頷いた。

私たちが通る通りも、先ほどの市場と同じように、人々の姿が消えていた。もはや恐怖に支配されて、どこへも逃げることができない街となってしまったのだ。

「でも、どうやって禍母を倒すんだ?」
和泉が言う通り、禍母の力は私たちの想像を超えて強力だ。
あの商人の言葉からも、禍母を倒す方法がただ一つであることは分かっている。
だが、どうすればそれを実行できるのか、私たちには全く手がかりがなかった。

その時、ふと、昔教えてもらった仏教の経典の一節が思い出された。
『旧雑譬喩経』に記されている禍母の伝説。
あれを読んだとき、私は無意識に何かを感じ取っていた。

禍母が育った理由、その力の源。それを無くすための方法も、きっと書かれていたはずだ。

「和泉、今から私たちは一度、寺に行こう。」
私は和泉に言った。
寺の住職から聞いた禍母に関する話が、今の状況にぴったり当てはまるのではないかと感じたのだ。

「寺だって? でも、どうしてそこが…。」

「今はそれしかないと思う。あの商人が言っていた通り、禍母の力の源は別の存在にある。寺にある資料に、何か手がかりがあるかもしれない。」

和泉は少し戸惑ったような表情を浮かべたが、私の強い意志を感じ取ったのだろう。
何も言わずに、私と一緒に歩き始めた。

街の外れにある寺へ向かう途中、空はさらに不気味に曇り、風が強くなっていった。まるで禍母の力が強まっているかのようだ。
足早に寺へ向かう私たちの耳には、遠くから聞こえる不気味な咆哮が届く。その音は禍母がその力を振るうたびに響く音だと、私は直感的に感じ取った。

寺に到着した。古びた木の扉が軋む音を立てて開くと、ひんやりとした空気が迎えてくれた。
中には、住職がじっと座っているだけでなく、何か不安そうに私たちを見つめる目があった。

「お前たち…来るべき時が来たのか。」
住職の言葉に、私たちは驚きと共に思わず顔を見合わせた。

「住職、あなたは…?」
和泉が声をかけたが、住職は黙ってうなずくと、私たちを中へ招き入れた。

「禍母の力を止めるために来たのであれば、もはや隠すことはできん。」
住職はゆっくりと立ち上がり、寺の奥から古びた巻物を取り出して、私たちに差し出した。

「これが、お前たちが求めている答えだ。」
私は巻物を広げた。
そこには禍母の伝説だけでなく、その力を打ち破るための方法が書かれていた。
やはり、私が予感していた通り、禍母の力を消し去るためには、ある儀式を行わなければならない。
だが、その儀式は非常に危険で、成功するかどうかは分からないという。

「儀式は、この街の中央にある、禍母が生まれた場所で行わなければならない。」
住職は続けた。
「その場所は今、禍母の力によって汚染され、死者の霊が集まっている。儀式を行うには、恐ろしい試練を乗り越えなければならない。」

私は深呼吸をして言った。

「試練だろうが、何だろうが、やるしかない。」

和泉が頷く。私たちにはもう、選択肢はなかった。


翌晩、私たちは街の中心へ向かった。
儀式を行う場所、禍母が生まれたその場所に。
街は、あの商人が言っていた通り、すでに禍母の力によって完全に支配されていた。
街の全てが、禍母の力に飲み込まれている。

その場所に到着した瞬間、私たちは異常な感覚に包まれた。
地面が震え、空気が重く感じる。
まるで、禍母が私たちを迎え入れる準備をしているかのようだった。
「ここだ…。」
和泉が静かに言った。

その言葉と同時に、遠くからまたあの咆哮が響いた。禍母が私たちを見つけたのだ。

「覚悟を決めて…行こう。」
私が一歩前に出た。

これが最後の戦いだ。

この儀式で禍母を完全に消し去らなければ、街は永遠に禍に支配されるだろう。


空が赤く染まり、地面が揺れ続ける中、私たちは儀式の場所に足を踏み入れた。

禍母が生まれたとされるその場所は、今や無数の霊がうろつき、腐敗した空気が漂っていた。
恐怖が私を包み込み、呼吸が苦しくなる。
だが、私は振り返らなかった。後ろには和泉が静かに続いている。

「これが、儀式の場所か…。」
和泉の声が震えていた。
しかし、私もその声に返すことなく、巻物に書かれている儀式の手順を一つ一つ確認した。
儀式は、禍母の力を弱めるために、特定の呪文を唱え、神聖な水を禍母が生まれた場所の中心に注ぎ、そこに封じ込められた「災禍の精霊」を解放する必要がある。

「準備はできているか?」
私は和泉に問いかける。
その瞬間、突如として、闇の中から禍母の巨大な影が現れた。
猪のような姿が、獰猛にこちらに向かって突進してくる。
体は鉄のように硬く、その目はまるで炎のように燃えている。

「来たな…。」
和泉の声に冷徹さが宿っていた。

私はその言葉に背筋を伸ばし、儀式を開始する。

「待っていて、和泉。これを終わらせる。」

呪文を口に出すと、すぐに神聖な水を禍母の中央に向けて注ぐ。

すると、目に見えない力が、瞬時に空気を変えた。大地が轟音を立てて揺れ、霊たちが狂ったように呻き声を上げる。

「これが、禍母を倒すための…試練。」
和泉は目を光らせながら、禍母に近づく準備を整えていた。
私は集中し、さらに呪文を続ける。
その間にも、禍母は地面を蹴って私たちを圧倒しようとしている。
彼女の力は、確実に私たちの想像を超えている。

「止めろ、禍母!」
私は叫びながら呪文を強め、神聖な水が禍母の足元に到達した瞬間、恐ろしい声が響き渡った。
その声は、禍母そのものであり、私の心に直接響くような感覚だった。

「お前たちの力は無駄だ…私は永遠にこの世界に災禍を撒き散らし続ける。」

禍母がそう叫ぶと同時に、地面から無数の鋭い針が飛び出し、私たちを攻撃し始めた。
私は避けることなく、ただひたすら呪文を続ける。

だが、その針は私たちを圧倒し、数本が和泉の体をかすめて深く刺さった。
「和泉!」
私は声を上げ、呪文を続けながら、彼の元へ駆け寄ろうとした。
しかし、和泉は力強く立ち上がり、自分の傷を気にすることなく、禍母に向けて突進してきた。

「お前だけに、私たちを倒させはしない!」

和泉は、禍母の目の前で立ち止まり、手にした刀を構えた。
だが、禍母は一瞬でその体を膨らませ、猛突進してきた。
その勢いに、和泉はあっけなく地面に叩きつけられる。

「和泉!」

私は声を上げて叫ぶが、その瞬間、和泉の顔には必死の表情が浮かんでいた。
彼は痛みに耐えながらも、手にした刀を再びしっかりと握りしめた

「まだ終わっていない! 俺たちは絶対に…!」

その言葉が、禍母を攻撃するための最後の力を与える。
和泉が刀を振るうと、まるで時間が止まったかのように感じられる。
だが、その刃が禍母に届く前に、禍母の体は不気味に震え、最後の一撃を放つ直前に、禍母はその力を放った。

その瞬間、私の心に閃いたものがあった。
呪文を完成させると、禍母の力が一気に消えた。
まるで世界の全ての災禍が一瞬で消え去るような感覚が広がった。

「…これで、終わったのか?」
私は息を呑みながら、倒れた禍母の姿を見つめた。

禍母の体は、次第に煙となり、空気の中に消えていく。

和泉も、その場で息をつきながら、私の方を見てうなずいた。

「ああ、これで終わった。」

儀式が無事に完了したことにより、禍母の力は消え去り、街の空気は清浄さを取り戻した。
しかし、私たちが見たものは、決して忘れることができない。
禍母が生まれた場所の静けさが、今も耳に残っている。

私たちは、禍母の力を完全に消し去ることができた。
しかし、それは永遠の終わりではない。

禍の力は、またいつか、別の形でこの世に現れるかもしれないからだ。

だが、少なくとも今は、私たちが守り抜いたこの街を、未来に残すことができた。


エピローグ


私たちは街を去り、また新たな地へと向かうことになった。
禍母との戦いは、私たちに深い傷を残し、同時に強さも与えてくれた。
だが、この街の人々には、きっと新たな希望の光が差し込んでいることだろう。

私は和泉と並んで歩きながら、静かに空を見上げた。
空はもはや暗雲に覆われていない。
晴れ渡った空が、未来への道を照らしているように感じられた。

そして、私の心の中で誓った。

「禍母の力は消えた。でも、もしまたこの世に災禍が訪れるなら、私は戦い続ける。」

私はその思いを胸に、足を踏み出した。


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