【鑑賞メモ】みんな激オコ・コンヴィチュニーの『影のない女』
二期会公演、ペーター・コンヴィチュニー演出による『影のない女』(R・シュトラウス)の初日を観た。上演後、日本でこれだけのブーイングが飛び交ったことはあまり体験したことがない。聞くところによると「金返せ」「拍手するな」という声も飛んだとのこと。みんな激オコである。コンヴィチュニーとしては慣れっこだろうけど。私の眼の前に座っていた中年の御夫婦は、カーテンコールが始まるやいなやオクさんが早々と席を立ち、出口ドアの前でくるりとステージへ振り返ったと思うと、鬼の形相でブーっと言い放ち出ていった。すごい迫力であった。ダンナさんもびっくりしただろう。コンちゃん登場で場内のブーは最高潮に達し、わたしはブラボーで応戦したほどだ。なかなか気持ちが良いものでした。しかし7対3でブーの勝ちといったところ。
コンヴィチュニー演出については、きっとネットを探せば詳しい評や解説があるだろうから触れないが、要するに、第3幕最終場をカットし、第2幕最終場をそこに移動させたのだが、やはり楽譜カットは最もオペラファンの逆鱗に触れるうえに、お話自体も改変してしまってるから、手に負えません。。たしかに幕切れの音楽はシュトラウス節極まった美しさが聴き物だから、みんな聴きたかったよねぇ。日本公演の後はボンの劇場でもやるらしいけど、ドイツでもブーイング祭必至だろう。他にもこの演出家の常套手段である演奏を止めたり、ストレートプレイを挿入したりもありました。
それにしても、なんであんなに怒るのか。たぶん、やはり、音楽を聴きにきている人が圧倒的に多いのだろうか。あるいは「正しさ」を求めている人も多いのだろう。交響曲を聴きに来て、最終楽章コーダのクライマックスがカットされ、スケルツォの最後が挿入されたら、わたしもやっぱり怒るかな。いや、もし仮にオーケストラの演奏会でそこまでやられてしまったら、クラシック音楽という分野、交響曲という様式、作品の構造、作曲家の動機などなど、その演奏会あるいは作品を成立させている諸々の条件や構造に対するクリティカルな挑発的表現として受容する他ない。そういう理解の上で、わたしであったら自分の嗜好性からいって感激するに違いない。実際、普通のオーケストラ演奏会でそんなことは絶対に起きないだろうし、もし仮にそんなことをやろうとする人(指揮者?)がいたら、ハナからそういう意図を持った演奏会としてプログラムは位置づけられるだろう。つまりコンテンポラリーな何某の試みとして企画され、そこを織り込み済みの観客が受容し理解するという作りでないと成立しないはずだ。
オペラの場合、この30年くらいの間で、特に独墺圏の歌劇場を中心に演出家主導のムジークテアターと呼ばれるオペラ上演が席巻している。台本のト書き通りではなく、設定を現代などに置き換えた読み替えが今や主流と言って良い。しかし演劇に目を転じればそれより以前から同様の試みがあったことは言うまでもない。オペラの場合は、伝統的な上演だけではお客を集められなくなっていったことによる延命措置として、そのたぐいの上演が増えていったという見方があるけれど、コンヴィチュニー(だけではないが)は、もっと意識的に、ブレヒト(あるいはフェルゼンシュタイン)の継承者として、観客を覚醒させるための手段として、古今の様式と伝統を纏ったオペラ作品を必然的に読み替えているので、既存の素材、テキストを用いた自分の表現をオペラ演出の体を借りて実践しているに過ぎない。もうそれは誠に潔い。それに、名指揮者を父に持つこの演出家は、音楽的素養にも長けているので、楽譜に手を出しても、彼なりの根拠が音楽的にきちんとあるところが強みだ(今回の上演でも最後に2幕のラストの強靭な音楽を使ったことで、音楽的なインパクトもドラマトゥルギーとしてのそれも、かなり大きいものがあった)。
そういうコンヴィチュニーが演出するということは、そもそも、普通の、ト書き通りの、伝統的な、オペラ上演になるはずもない(二期会もチラシではわざわざ「コンヴィチュニーの影のない女」としてるし)。イヤだったら観に来なきゃよいのに、というのは言いすぎだけれど、コンヴィチュニーとしては、既存の価値観に基づく保守的な観客を覚醒させることに意図があるので、激オコのお客さんがいないと彼の試みは成就しないのだ。
ただ実際は、激オコのお客は激オコのままであり続けるだろうから、コンヴィチュニーのやっていることは、この状況を俯瞰して構造的に可視化させるという、いかにもコンテンポラリーな批評的態度の表明に過ぎず、果たしてそこにどれほどの意味があるのか、という見解もあるに違いない。
さらに、わざわざ、既存の、世界中の歌劇場でレパートリーとなっている作品をイジらないと、演出の意図、メッセージを伝えられないのか、観客を覚醒できないのか?という声もコンヴィチュニーに対する批判として随分とあるのだけれど、でもこれを新作オペラでやってもしょうがないのである。なぜなら、シュトラウスの豊穣な音楽とホフマンスタールの荒唐無稽なファンタジーを欲し、知っているアレを愉しむ安心安全なメンタリティに充たされた観客がコンヴィチュニーには必要なのだから(しかし『影のない女』でなければならないのか、という批判については議論の余地があるかもしれないが)。
まあだから、ガラガラの客席を眺めていると、オペラやクラシック愛好の客層ではなくて、面倒くさい現代演劇とかコンテンポラリーダンスや現代美術を愛好する客層が観に来たらよいのに、とも思ったりしたが、異化や脱構築をヤンヤと喝采する観客ばかりでは、コンヴィチュニーの角を矯めてしまうだろうから、ガラガラの客席くらいがちょうどよいのかもしれない。
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