高齢者は、何のために生きているのか
写真にした都立木場公園に『大橋の日差しを歩く冬日和』を感謝しながら。
高齢者は、私のことです。ご容赦下さい。
友人や嘗ての同僚が亡くなる喪失感を抱きつつ、私は74歳の誕生日を直前にして、あと幾ばくかしか残っていない人生について、死生観をもって「何のために生きている」と自分へ問い直しています。
何の「ために」は、目的を指す助詞です。
誰もが、何某かの目的をもっています。
私の場合は、もはや、「時は金なり」ではありません。
私の経験では、年齢と共に価値観は変わります。
今、命の残りの時間が予測できるので、「生きる意味」を伴う目的を最優先として選択し、生きています。
何の「ために」のという目的は、心を持った人類だけに与えられた自由に使える選択権をもって、自分の価値観で決めることのできる特権です。
犬と猫には、食う・寝る・動く「ために」の選択肢しかないのです。その選択の限りで生きて行けるような宿命づけになっています。
人間には、もう一つありがたいことに、心という機能が装備され「生きる意味」が伴った目的を持たなければ生きて行けない宿命になっています。
自分自身の生きる意味に反する生き方をしていると思考脳が停止してしまい、考えない、心のない人になります。
例えば、心の病に罹ることや、無頼者です。
実は、私は、66歳のときに定年・無職を選択して、悠悠自適の生活に入ったのです。
結果は正に考えない人を体験しました。
楽しみだけを人生の目的にしてしまい、生きる意味を必要としない犬猫の生活です。
アリストテレスの指摘する「目的と手段の取り違え」をしていたことに、70歳なって知ることになりました。
なぜ、私は、ここに生きているのかを考えることが出来るようになり、自分の存在が、自然界の摂理による奇跡の出来事として感謝できて、今居ることが、愛おしくなります。
生きるのは、何のためにと考えると、「幸せ」になりたいからです。
では、私の「幸せ」は、どうしたら手にできるのでしょうか。
生きる意味の伴う生活です。
一つは、他人の喜んでくれる姿をみて一緒にいる瞬間に感じ取る感情の波動で伝播してきます。
昔の言葉に働くとは、「傍の人が楽になるように動く」こととありました。
2つ目は、私の何かお気に入りの行為をしたときに、生産性とか、創造性とかを感じたときです。
例えば、ボランティアで障害者と会話して笑顔を頂いた時などです。
66歳のときに、定年・無職を選択して失敗したことも意味づけのあった経験として受け止め、将来に向かって統合し、世のため人のために、自分の強みを生涯にわたり提供することで、幸せを引き寄せしたいと考えています。