映画評論家 山田宏一

山田宏一は世界最高の映画評論家だ。これは客観的な分析や研究による結論ではなく、
僕の偏見にみちみちた好み、個人的な意見だが、同じように思う人も必ずいると確信している。しかし、山田宏一は必ずしも評論家と言われることを喜ばないだろう。
山田宏一はいつも自分のことを映画ファンだと言っているのだから。
読者にその映画を見たいという気持ち、映画館に走らせるような文章が最高の映画評論だとしたら、山田宏一の文章はまさしくそうだ。
「映画の美しさ、すばらしさを、純粋に、単純に、映画の言葉で、映画的に語れぬものか」と山田宏一はいつも自分自身に問いながら映画について書いている。
例えば1994年の中国映画『太陽の少年』については「ワンカットごとに、待ちかねていた手紙を開封するときのように心ときめく。屋根、窓、少女のふくらはぎ、並木道、自転車、プール、青春の光と影、すべてがみずみずしく、まぶしく、美しい」と書く。
また1980年のアメリカの戦争映画『最前線物語』については「この十年に一本あるかないかというほどの素晴らしい映画をぜひ見てもらいたい。作品が一つのジャンルにおさまりきれずに、そこからはみ出て、別の次元の意味やイメージを獲得してしまうというのが傑作の定義だとすれば、この映画はまぎれもなく傑作の名に値する映画であり、戦争映画でありながら、そのジャンルを超えて一つの美しいメルヘンになっている。第一次世界大戦で生き残った一人の老軍曹とその息子ほどの年齢の四人の若者を第二次世界大戦の戦場という場で描いた感動的な異色の戦争映画だ。」
2010年のアメリカ映画『キック・アス』については「なんだ、またもやスーパーマンものか、スパイダーマンものか、バットマンものか、その手のパロディーのまたパロディーかと思って見ているうちに、まるでかつてのフランス映画『シベールの日曜日』のパトリック・ゴッジ(当時12歳)の再来とも思しきおしゃまな美少女、13歳のクロエ・グレース・モレッツが11歳のスーパーヒロインとも言うべき女賊ヒットガールに扮し(これが本当に素晴らしいのだ)、めがね状の覆面をして革ジャンを着こみ、黒マントをひるがえし、手裏剣からガトリング砲まで必殺の武器、銃剣類を装備して登場するや、痛快無比、悪漢どもと死闘をまじえる爆発的なアクションまたアクションと化し、タランティーノなどかたなし、ジョニーー・トーも真っ青といったところ」
有名でない作品について書かれた文章でも読めばきっと見たくなるだろう。実際、僕は山田宏一の文章を読んでたくさんの映画を見てきた。

山田宏一は子供のころ、母親が再婚したのを機に秋田に行き、新しい父親は三人の連れ子がいて、なじめず、学校では「東京っこ」ということでいじめられ、どこにも居場所がない少年時代を送った。そこで彼が唯一見つけた居場所が映画館だった。裏のトイレから忍び込んで映画に浸った。「やたらとゲンコツをくらわす継父を軽蔑」し、その「継父に忍従する母親にも同情できず」、高校を卒業すると家族から逃げるように上京し、東京外国語大学フランス語学科に入学した。
 1963年に山田宏一は映画監督のトリュフォーの「通訳として一週間つきあったのだった。」
「ぼく(山田宏一)はまだ学生で、しかもフランス人とフランス語を話すのはこれがはじめてであり、まったくしどろもどろの通訳ぶり」で「ある時、ひとりのジャーナリスがトリュフォーのインタビューに来た。フランス語に堪能なジャーナリストで、私のへたくそな、ぐずぐずした通訳にがまんがならず、ついにみずからフランス語でトリュフォーに質問し始めた」するとトリュフォーはそのジャーナリストのしゃべるフランス語がひとこともわからないといった態度で、「かたわらで情けない顔をしていたわたしに『あいつは、なにを言ってるんだ?ちゃんと日本語で言ってもらって、君がちゃんと通訳してくれ』とわざと聞こえよがしに言った。それでも、そのジャーナリストがフランス語で得意になってしゃべりかけると、トリュフォーは、いちいち、私に向かって『なにを言おうとしているのかわからないから、君が日本語で聞いてやってくれ』と言うのだった。」
 立場を失って茫然としている通訳の立場を思いやっての行動に山田宏一は感動する。
トリュフォーは母親に愛された記憶のない少年だった。少年院に入れられたり、小学校もまともに卒業せず、失恋して兵役に入隊したものの脱走したり、といった不安定な十代をすごしつつ、子供のころから、むさぼるように映画を見まくり、映画狂が嵩じて映画評論家になり、フランス映画の墓堀り人と仇名されるほど、古いフランス映画をこきおろした。
その逆に娯楽映画の監督として蔑まれていたヒッチコックなどを熱狂的に支持した。
映画監督になってからは少年時代を描いた自伝的なデビュー作「大人は判ってくれない」や敬愛してやまないヒッチコック風のサスペンス・コメディ「日曜日が待ち遠しい」を遺作に21本の長編を撮った。
 トリュフォーがフランスに帰ってからも何度かの手紙にやりとりをしていた二人だったが、翌年、山田宏一はフランスに映画の学校に留学することになるのだが、どうした手違いか新入生名簿に名前がなく留学生の給費の資格がなくなってしまうのだが、留学生会館で粘って一年間だけ給費を確保する。
 これを幸いにアルバイトをしつつ、パリでふらふらと遊んでいた。パリには国営のシネマテークという毎日古今東西の映画を何本も上映するフィルムセンターがあり、山田宏一はそこに通い詰める。
 若き日のトリュフォーもこのシネマテークの常連だった。
 パリで生活し始めた山田宏一はトリュフォーを訪ねると、トリュフォーの映画によく出演している俳優のジャン・ピエール・レオーを紹介される。するとレオーが短編映画祭に行くから、一緒に行かないかと誘い、レオーの入れ知恵で日本のジャーナリストのふりをして映画祭に潜り込む、ここで山田宏一はカイエ・デュ・シネマ誌の同人でのちに映像作家になるフィエスキと友だちになるのだが、そのエピソードが抜群だ。
 フランスのトゥールで行われた短編映画祭の正式出品ではない、いわば落選作を集めた上映会で一本の日本映画が上映される。その映画は観客の野次と罵声に見舞われた。山田宏一は頭がガンガンし、耳鳴りがして、ホテルでふてくされベットに倒れるように眠りこむ。山田宏一は不思議でならなかった。というのもその日本映画は山田宏一が日本の仲間と作った自主映画だったからだ。後になって、一緒に作った友だちが内緒で出品していたことがわかるのだが。目が覚めて、打ちひしがれながらレストランで晩飯をしているところにレオーが来る。
レオーと一緒にいたのがフィエスキで、彼が「日本映画のことですこし情報がほしいのだが、教えてくれるか」という。「知っている限り、もちろん」と山田宏一は答える。
すると彼が言い出したのは短編映画祭で上映された日本映画のことだった。
「君と同じヤマダっていうんだが、そいつのことを知っているか?」
「うん、まあ、知らんでもない」と山田宏一はとぼけて、おそるおそる「あの映画は気に入ったか?」と聞く。
「最高に気にいったね。わるくないよ」
「ほんとうか?野次と口笛だけだったぜ」
「それが、いいしるしさ」とフィエスキが言った。
そこでやっと山田宏一はほっとし、「じつは・・・あれはボクの映画なんだ。ヤマダってのは、つまり、ボクなんだ」と告白する。
 フィエスキとレオーはお互い顔を見合わせ、、それからフィエスキは大声で笑いだし「この卑怯者め」といった。
こうして友だちになるのだが、フィエスキは山田宏一を誰かに紹介するときには必ずこの話をして「こいつは卑怯なヤツで・・・」というのだった。
 パリに戻ってからカイエ・デュ・シネマの編集部にも出入りするようになる。トリュフォーにいきさつを話すと「それは良かった。私の方から紹介しようかとも思ったんだが、なにしろ、野蛮で排他的な連中だから、紹介状なんか書いたらかえって反撥して受け入れようとしないんだ」と言った。
 カイエ・デュ・シネマはトリュフォーが批評家時代に書いていた映画雑誌だった。
 カイエ・デュ・シネマの編集部に初めて電話をした際に山田宏一のフランス語が「ベルギー人」みたいだという話になって、以来「ベルギーのスパイ」とカイエ・デュ・シネマの連中は山田宏一のことをあだ名するようになった。
 そしてカイエ・デュ・シネマは日本人が編集部に飛び込んできたということで念願だった日本映画特集を企画する。1964年~1967年まで山田宏一はカイエ・デュ・シネマ誌に映画批評を書くようになる。この上記のエピソードやパリ時代について「友よ映画よ」という本に詳しく生き生きと描かれている。
 やがて、1967年に山田宏一は失恋して東京に戻ったが、トリュフォーとの関係はトリュフォーが死ぬまで、つまり出逢いから二十一年の間続いた。
 山田宏一がトリュフォーの映画評論を翻訳したり、映画の字幕を担当し、トリュフォー関係の第一人者といえる。
 たとえば、こんなことがあった。
 トリュフォーがなかなか日本での上映の見込みがつかない「緑色の部屋」が山田宏一や何人かの協力で岩波ホールで公開できるようになった際、1979年に来日し、東京を去る際に山田宏一に分厚い封筒の手紙を渡した。
「山田、人間年をとればとるほど、旅に出るのがおっくうになるものです。僕にしても日本に君という友人がいなければ、東京に来なかったでしょう。こんなにすばらしい旅ができたのも君のおかげです。ここに少しばかりですが、フランの用意があります。これは僕ではなく、僕の製作会社が、社の協力者である君に差し上げるのです。つきつめれば、君はわが社のために貢献してくださったのですから。中略 すべての信頼と友情をこめて フランソワ」
 フランソワ・トリュフォーは電話が普及して以降、もっとも手紙を書いた人物のひとりだと思われる。
 そのトリュフォーがもっとも多く手紙を出した相手の一人が山田宏一だろう。
 トリュフォーが山田宏一に宛てた最後の手紙にこう書いてあった。
 「親愛なるヤマダ
明日、私は脳の手術のためにアメリカ病院に入院します(今から考えれば、先月オンフルーフで私を襲った脳内出血が脳動脈瘤の前兆だったのです)。
今は調子が良いけれど、もし悪い方向へ事態が進んだ時のことを考えて、私はあなたに感謝の気持ちと友情を抱いていること、そしてあなたがいつもこれからも私の代理人でありまた翻訳者、友人、分身であつこと、つづめて言えば私の兄弟-日本人の兄弟であることを願っていると言っておきたいのです。」(トリュフォー)
実際には脳動脈瘤ではなく、脳腫瘍だったのだが、「トリュフォーは治ると信じ続けていた。日本の友人山田宏一は1969年に脳動脈瘤破裂のために脳の手術を受けたが生き延びているではないか。それにこの経験をしたことで、遠く離れていても、ふたりはなおいっそう心を通わせるようになった。」(アントワーヌ・ド・ベック、セルジュ・トゥビアナ)
「手術をなさってたくさんのことを感じていらっしゃるのではないかと思います。私の友情であなたが安心されますように。というのも、私も14年前に全く同じ手術をうけましたから。そして私の心身ともに何の影響も残っていないことはあなたも認めてくださるでしょう」と山田宏一は返事をだした。
 一年後、トリュフォーは52歳でこの世を去った。
 その葬儀に参列した場面から「トリュフォー ある映画的人生」は始まる。
 「トリュフォー ある映画的人生」は山田宏一の代表作の一つだがトリュフォーの葬儀から始まり、少年時代から監督としてのデビューまでで本は終わるの。その間に死までの映画監督作品はすべて語られているという見事な構成になっている。この本について「トリュフォーに関する最高の本、将来、世界のトリュフォー研究家が日本語を学び出す姿を想像するだけで愉快ではないか」、「必ずしも映画ファンではない読者にとっても深い感動をよびおこすに違いない」等の評価がされている。まさに必殺の必読書だ。

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