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ザイアクカンとイカリ

どうして、たのしむことや、自分に優しくすることにザイアクカンを感じてしまうんだろう。

ほんとうは、すきなことだけして生きたいし、すきな服を着たいし、じぶんを傷つけて働きたくない。

だれのものでもない人生。
人生に、〇〇しなきゃいけない、なんてこと、ないのに。

自分を縛ってしまったり、抑圧してしまう。

それは不自然なことだ。

ほんとうは、ただ、自然と共に、そこにあるだけ。

ケーキの箱に棲みついたにんぎょうたち。


この間、高円寺でインタビューを受けた。
最近嬉しかったこと、悲しかったこと、怒りを感じたこと。。

なかでも怒りを感じたことは、重要な気がする。

人に対して怒ることはめったにないけど、「自分らしく生きられないこと」「"みんな幸せ"が難しい社会」には、憤りを感じる。

社会がどういうふうになったらもっとよくなると思うか、きかれて

「みんな自分に優しくなったらいいと思う。自分を犠牲にしてみんなのために、という人が多い(そういうのが美しいとされる)けど、自分に優しくなることで他人にも優しくなれると思う」

と答えていた。

自分に優しくするってどういうことだろう?って考えるけど、それは自分を甘やかすってこととはちょっと違くて、なんというか、適切に自分をケアするってことなんだと思う。

自分が感じた嫌なことや、痛みを(他人からみたらどんなに小さなことだったとしても)受け止めて、労わってあげる。

暴飲暴食とか、爆買いとか、そういうストレスの発散じゃなくて。。(したとしても責めない)
丁寧に作られたごはんを食べたり、好きなボディクリームを塗ったり、着心地のいい服を着たり。。

なるべく、自分を雑に扱わない。
大切に扱っていいし、扱われていいんだって思う。(ムズカシイけど)

じぶんでにんぎょうをつくることや、そのにんぎょうで発信することを許すことは、じぶんでありながら他者みたいな存在をケアすることでもあって、それはわたしへのまなざしとなり、他者へのまなざしとなり、世界へのまなざしとなる。

じぶんが思うようにしか、世界をみることはできないんだもの。

それだったら、じぶんと仲良くなることで世界と仲良くなるしかないじゃん。

そしてわたしの中には、複数の他者。。。人、動物、無生物。。。いろんなものが一緒に棲んでいる。。

やっぱself careからの愛、だいじっ。

アートセラピーのワークショップでつくったにんぎょう。他の参加者さんたちとの記念写真。


世界の中の用意された椅子に座ると
急に私がいなくなる
私は大声をあげる
すると言葉だけが生き残る
                      神が天に嘘の絵具をぶちまけた
天の色を真似ようとすると
絵も人も死んでしまう
樹だけが天に向かってたくましい
                      私は祭の中で証ししようとする
私が歌い続けていると
幸せが私の背丈を計りにくる
                      私は時間の本を読む
すべてが書いてあるので何も書いていない
私は昨日を質問攻めにする

谷川俊太郎『六十二のソネット』(創元社・一九五三年)31(世界の中の中の用意された椅子に座ると)


P.S. 規則正しい生活すぎると、壊したくなることもある。。それもたのしもう。


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