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オウム真理教とお寺と私~浄土真宗僧侶の私がなぜドストエフスキーを学ぶのか
以前当ブログで紹介した記事「回想の世界一周~宗教は人が作ったものなのか、それとも・・・」では「宗教は人間が作ったものではなく、人間の中から生まれてきたのではないか」ということをお話しさせて頂きました。
この記事は「私にとって宗教とは何か」という問題について、改めてまとめてみたものでありました。
さて、その記事をアップしてからある方からこんな質問を頂きました。
「宗教が人から生まれてきたのなら、新興宗教もそうなの?ならオウムのあの事件はどう考えたらいいの?」
そうなのです。これは非常に重要な問題です。
この問いを私に引きつけて言い換えてみると、
「私はオウムと何が違うのか」
という問いかけになります。
これこそ私が苦しみ続けた、いや今も苦しみ続けている問題なのです。
地下鉄サリン事件が起きた1995年、その頃私はまだ5歳でした。
事件が起きた当時のことは詳しくは思い出せませんが、子供ながらになんとなくではありますが大変なことが起きていると心配しながらテレビのニュースを見ていたのを覚えています。
私は三人兄弟の長男で妹が2人います。そのため生まれた時から跡継ぎとして育てられてきました。
私自身も中学入学の頃にはお坊さんになって跡を継ぎたいと考えるようになっていました。父の後姿に憧れを持つようになっていたのです。
ただ、この頃にはまだお坊さんになるということがどういうことなのかわかっていませんでした。そこまで深くは考えていなかったのです。
しかし高校生になる頃には、「自分はいずれお坊さんになって家を継ぐけれども、自分は本当にそれに値する人間なのだろうか」と漠然ながら考えるようになっていきました。
そうです。この頃から私の中に「オウム」の影が巣食うようになっていたのです。
幼い頃にニュースで見た地下鉄サリン事件。
高校生にもなると自分でそれについて調べることもできるようになります。
大人のようにしっかりとした研究とまではいかなくとも、その時なりにオウムとは何か、あの事件で何が起こったのかということが少しずつわかってきました。
麻原彰晃を教祖とするオウム真理教という宗教団体がたくさんの人を洗脳したという事実。
宗教の名の下に無差別に多くの人を殺害し、生存者にも後遺症を負わせた地下鉄サリン事件。
私にはこれらの事実が全く他人事のようには感じられませんでした。
なぜなら私もいずれ僧侶になり、宗教に携わるからです。
オウムは宗教であり、その宗教が人を洗脳し、無差別に人を傷つけました。
仏教も宗教です。
もちろん、オウムのような事件を起こしたりはしていないし、明らかにオウムとお寺は違うように思えます。
ですが、突き詰めて考えれば考えるほど、その違いが段々とわからなくなっていきました。
「人が神仏など目に見えない何かを信じ、それに基づいて行動する」
これが宗教の定義だとすればオウムと自分の違いがわからなくなってしまうのです。あえてその中で違いを見出すのならば、「本質的な違い」というよりオウムと私の「程度の差」ぐらいしか私にはわかりませんでした。
オウムも仏教も宗教という一つの大きな枠組みの中にあります。
そういった意味ではオウムも私も変わりません。
しかしオウムは宗教のシステムの中の「権威主義」や「排他性」を極限まで高め、信者の思考を奪い、麻原彰晃のみが真理であり正義であると信じ込ませました。
そして世の中を救うためには人を殺すことも辞さずというところまでその信仰はエスカレートしていきました。
これは許されざる行為であると私は思います。
しかしです。それでも私は本当にオウムと違うのかと言われたら確信が持てなかったのです。なぜなら人類の歴史上、宗教が原因の争いが数え切れないほど存在していることもこの時には知っていたからです。もはや子供のように何も知らない無邪気な気持ちのままではいられなかったのです。
私は当時からお寺が好きでしたし、仏教を学ぶことに対しても、お寺を継ぐということについても全く嫌悪感は持っていませんでした。むしろ「継がせてください」と思っていたほどです。
これは父の影響が大きかったと思います。そう思わせてくれるようなお坊さんなのです。私には幸運にもそういうお坊さんが身近にいてくれていたのです。
ただ、問題は私自身でした。
私自身が宗教に対して確信を持てずにいました。
「私はオウムと何が違うのか」
「私はお坊さんになってどうなりたいというのだろうか。何をしようとしているのだろうか」
そんなことを高校生の頃には思うようになっていたのです。
そして大学に入学し、様々な授業を受けているうちに宗教学という分野と出会うことになり、仏教だけではなく様々な宗教を学んでいくようになっていきました。
私が宗教学を学び、「宗教とは何か」と考えるようになったのは実は「自分はオウムと何が違うのか」という葛藤から来ていたのです。
そしてそのような葛藤の中にあった大学時代、私はある決定的な出会いをすることになります。
それがドストエフスキーだったのです。
読んで下さっている皆さんは今急に出てきたドストエフスキーにぽかんとされているかもしれませんが、私にとってはこれは必然だったのです。
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その頃、私は20歳の冬を迎えていました。
私は「オウムと私は何が違うのか」という葛藤を抱えながらも、やはり普通の大学生でした。他の学生と同じように大学に行き、講義を受け、バイトに行き、遊びにも行きました。
つまり、その年頃並みに楽しみ、失敗してはあれこれ悩み、また何かに夢中になったりして学生生活を送っていたのです。
大都会、東京。
地元函館から出てきた私は案の定都会の洗礼を受けていました。
思い詰めた哲学者のように「生きるべきか死ぬべきか」「善とは何か」「なぜこの世に悪はあるのか」と眉間にしわを寄せ青白く深刻な顔をして悩みに悩んでいたわけではなかったのです。
しかし、そんな東京生活にふわふわ浮かびながらも、今思えば「いつか自分もはっきりさせなきゃいけない時が来る」、そんな思いは変わらず胸の内にあったように思います(恥ずかしながらたまにしかその姿を現しませんでしたが)。
そんな日々を過ごしながら、ある日私は飲食店でのバイトを終えた帰り道、いつものように馴染みのバーに立ち寄りました。(今では信じられませんが当時はよくお酒を飲んでいたのです。)
お店に入ると、その日はカウンターの奥の方に数人の先客がいました。このお店は奥行きのあるカウンターのみのお店で、10人ほどお客さんがいれば満席になるような作りになっています。
私はいつものようにお酒を頂き、マスターと話しながら時間を過ごしていました。
すると、マスターはふと奥の席のお客さんの方を目線で示しながらこんなことを言いました。
「たしかあのお客さん、君の大学の教授さんだったはずだよ。学部は忘れちゃったけど、文系だって言ってたかなあ。君は文学部でしょ?」
-えぇ、そうです。
「だよね。うん。」マスターは今度はしっかりと奥のお客さんの方に体を向けて「彼もあなたの大学の学生さんなんだって。」と私を紹介してくれました。
「ほお、そうなんだ。私は文学部の助教をしているんだ。君は今何年生?」とその方は私に声をかけてくれました。
その方は40歳くらいの落ち着いた雰囲気の、いかにも教授さんという知的な雰囲気の方でした。
二人でお話ししているうちに、私の実家がお寺でありいずれお寺を継ぐこと、そして3年生からは宗教学のゼミに入ろうとしていることをお話ししました。
「なるほどねえ。君はお坊さんになるんだ。なのに仏教学じゃなくて宗教学なんだね。仏教学にもいい先生たくさんいるよ?何か理由でもあるの?宗教学を選んだのは」
私はかくかくしかじかと、これまでこのブログでお話ししてきたように「宗教とは何か」に興味があるということを先生に話してみました。そして「仏教学はゼミに入らずとも授業で受けられますし、大学院でもみっちりすることになるので今はこの大学でしかできないことをやりたいと思っています」と伝えました。
「そうかー。うん。そういうことなら面白いかもね。違う視点から仏教を考えていく時にそれはきっといつか役に立つよ。頑張りなさい。」
ありがたい励ましの言葉を頂きすっかり元気になった私に、先生はさらにこう言いました。
「それと・・・君は『カラマーゾフの兄弟』を読んだことはあるかい?」
―『カラマーゾフの兄弟』ですか?ドストエフスキーでしたっけ?いえ、読んだことはないです。
「うん、なら絶対に読んだ方がいいよ。君みたいに宗教を学ぶのならなおさらね。特に「大審問官の章」は大事だよ。お坊さんになるのならぜひここをしっかり読んでほしいな。」
先生はこうおっしゃられた後、間もなく一緒に来ていた方達に声を掛けられ、一緒に会計を済ませ、お別れすることになりました。
一人お店に残った私はしばらくぼんやりとこのやりとりを思い返していました。
「ドストエフスキーかぁ・・・なんだか重そうだなぁ・・・」
そして早く読んでみたいという期待とその内容に対する恐れが混じり合ったような複雑な気持ちでこの日は引き上げたのでした。
さて、先生の助言を頂いた私は早速『カラマーゾフの兄弟』を手に入れました。
ドストエフスキーといえばロシアのとにかく難しい文豪というイメージでした。予備知識も何もないまま読み始めましたが、やはり難しい。いや、難しいというか、何だこれは・・・?という感想でした。
前半は先生の言うような宗教的に重要なシーンというのは感じられず、強烈な個性を持つ登場人物達がヒステリックに騒ぎ立てているという印象でした。読み進めるのも苦しい展開です。
『カラマーゾフの兄弟』は文庫で上中下の3巻構成です。
読みにくかった前半を越え、上巻の終盤になるとついにあの「大審問官の章」が現れました。
この章に近づくにつれ、小説の雰囲気が何か変わるように感じられました。もちろんドストエフスキーの筆の魔力によるものでしょうが、これはきっと私自身も小説に入り込み始めているからだったのでしょう。
そしてこの「大審問官の章」が先生のおっしゃられたように、私にとてつもない衝撃を与えることになったのです。
さて、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』といえば、世界史上最高峰の文学作品と言われる傑作であります。
『カラマーゾフの兄弟』はドストエフスキーの晩年に書かれた生涯最後の作品です。彼は生涯変わらず抱き続けてきた「神と人間」という根本問題をこの最後の作品で描いています。
さて、この小説における重大な山場が何度も申し上げている「大審問官の章」であります。
「大審問官の章」は冷徹な知性人である次男のイワンが見習い修道僧である心優しき主人公アリョーシャに語り聞かせたある叙事詩が中心となっています。
その叙事詩の表題こそ、『大審問官』なのであります。
舞台は16世紀のセビリア。異端審問により多くの人が火あぶりにされていた時代です。
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セビリアといえば私も2019年の世界一周の旅で訪れた街です。
セビリアはスペインでも随一の勢力を誇った街であり、カトリック信仰の一大中心地でありました。
この大審問官の叙事詩もまさにこの巨大な大聖堂から始まるのです。
異端審問全盛の16世紀のセビリアに突如現れたイエス・キリスト。人々に気付かれぬようにそっと姿を現したのですが、不思議なことに誰もがその正体を見破ってしまいます。
人々はキリストに殺到し、祝福を求め、彼の後についていきます。
そしてキリストは人々に懇願されるままに盲人の視力を回復したり、死んだ少女を生き返らせたりという奇跡を授けます。
群衆はいよいよ歓喜にむせび、キリストを讃嘆します。
しかしまさにその時、カトリックの異端審問を司る高位聖職者、大審問官がその現場を通りかかったのです。
大審問官は少女が生き返る奇跡を目にしました。
大審問官の顔は暗くなります。その男がキリストであることに彼も気付いたのです。
そして大審問官は護衛にキリストを引っ捕らえるよう命じました。民衆は彼の絶大な権力に恐れおののいていたため、キリストを守ることなくおずおずと護衛たちの前に道を開けていきます。
キリストは抵抗することなく捕えられ牢屋に引き立てられていきます。その様子を眺めながら、民衆は引き立てられていくキリストではなく大審問官にひざまずくのでありました。
こうしてセビリアに突如現れたキリストは牢屋に監禁されることになったのです・・・
そして舞台は牢屋と変わり、ここから大審問官とキリストの一騎打ちが始まります。この一騎打ちこそ「神と人間」「信仰と自由」という問題を極限まで突き詰めた文学史上最高峰のドラマであります。
大審問官はキリストに対し、「お前は今さら何をしに来た。我々の邪魔をしないでくれ。お前の役目は終わったのだ。お前に今さらカトリックを修正する権利はないはずだ」と切り出します。
キリストは答えません。
実はこの叙事詩ではキリストは終始一言も発しません。この一騎打ちは大審問官の独白であることに大きな意義があります。
さて、大審問官は聖書に書かれている悪魔の誘惑を持ち出します。
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悪魔はキリストにこう問いかけました。
「神の子なら、そこらにある石がパンになるように命じたらどうだ」
「神の子ならここから飛び降りたらどうだ。神の子なら天使がお前を支えるから死ぬことはないだろう」
「もしひれ伏して私を拝むなら、全ての国々をお前に与えよう」
しかしキリストはこの3つの誘惑を全て退けます。 「人はパンだけで生きるものではない。」という有名な言葉はここでキリストが語ったものです。
大審問官はこの3つの問いこそ人間の本性を言い当てる最も叡智に満ちたものであると言います。
ここから先、大審問官はこの3つの問いを基にしてキリスト亡き後ローマカトリック教会がいかに発展していったのか、そして自分たちがどのようにして人々を導いているかを語ります。
彼らの秘密とは悪魔の誘惑を退けたキリストの教えをあえて修正し、悪魔に従うことで民衆を支配しているというものでした。
大審問官は言います。「われわれはお前の偉業を修正し、奇跡・・と神秘・・と権力・・の上にそれを築き直した。人々もまた、ふたたび自分たちが羊の群れのように導かれたことになり、あれほどの苦しみをもたらした恐ろしい贈り物がやっと心から取り除かれたのを喜んだのだ」と。
あの3つの問いは奇跡と神秘と権力を表していたのです。人々はそれに隷属することを望みます。しかしキリストはそれを否定し、「自由」を人々に課してしまったのです。
人々にとって「自由であること」は何よりも恐ろしいものであり、一刻も早く手放したいものだと大審問官は断定します。そしてキリストこそ、人々に自由な信仰を与えた張本人であり、結局のところ人を途方に暮れさせてしまったのだとキリストを責めるのです。人々にとって自分で善悪を決めることは重荷であり、圧倒的な神秘と権威にひれ伏すことこそ人間の願望なのだと言うのです。
ここのところはキリスト教の知識や宗教的な背景がわからないとかなり難しい部分です。予備知識がない人が『カラマーゾフの兄弟』に挫折したりつまらないと感じる理由はこの辺にあると思われます。
私自身、これを初めて読んだのは20歳の冬です。宗教の知識も浅い未熟者だった私がその時どこまで読み込めていたのかはわかりません。
しかしこの大審問官の独白は私にとてつもない衝撃を与えることになりました。
ここまで痛烈に宗教を攻撃する言葉を私は初めて目にしたのでした。しかもその言葉を吐いているのがカトリックの高位聖職者たる大審問官であり、こともあろうにその相手はあのイエス・キリストであります。
大審問官は異端者を火あぶりにする責任者です。その彼がキリストを攻撃するのです。なんという逆説でありましょう!
しかしその大審問官も根っからのキリスト批判者ではありませんでした。いや、むしろかつては熱烈なキリスト讃美者でした。キリストのために生き、キリストの説く自由な信仰を熱烈に求め修行していたのです。
ですが最後にはカトリック側についてしまったのです。彼にも抗いようのない苦しみや葛藤があったのです。
この辺の描写にも私は唸らされるわけであります。
当時の私は知ってはいませんでしたが、ドストエフスキー自身はロシア正教を熱心に信仰していました。ドストエフスキーは熱烈に信仰を求めたからこそ、信仰上の問題を極限まで突き詰めて論じていったのです。表面上は激烈なまでに無神論的なこの「大審問官の章」ですが、実はこの章があるからこそ、後の展開が開けてくるのです。
さて、「大審問官の章」についてここまで述べてきましたが、「宗教とは何か」「オウムと私は何が違うのか」と悩んでいた私の上にドストエフスキーの稲妻が落ちたのです。
私は知ってしまいました。もう後戻りすることはできません。
私はこれからこの「大審問官の章」で語られた問題を無視して生きていくことは出来なくなってしまったのです。
これまで漠然と「宗教とは何か」「オウムと私は何が違うのか」と悩んでいた私に明確に道が作られた瞬間だったのです。
私はこの問題を乗り越えていけるのだろうか。
宗教は本当に大審問官が言うようなものなのだろうか。
これが私の宗教に対する学びの第二の原点となったのでした。
これが私とドストエフスキーの出会いです。
そしてこの出会いから9年後、世界一周を終えた私はドストエフスキーと第二の出会いをすることになるのです。
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『カラマーゾフの兄弟』の大審問官の問いは私の中に鮮烈に刻まれることになりました。当時、私は20歳の大学二年生でした。
しかし、やはり私にはまだあまりに重すぎるものだったのかそれからドストエフスキーの作品を読んだのは『罪と罰』くらいで、他の作品までは読もうという気にならなかったのです。
ドストエフスキーは人間の奥底にあるどす黒いものを描きます。
私は読んでいるだけで具合が悪くなっていったのを覚えています。
そしてそれから3年生へと進級し、ゼミの勉強やら大学院入試の準備やらで慌ただしくなり、ますますドストエフスキーと遠ざかることになりました。
大学院に入学するとゼミや修士論文のためまたもやドストエフスキーのことを忘れ、卒業して僧侶として他のお寺に勤めている時も本は出来る限り読んではいたものの、身体は満身創痍でした。そんな時にわざわざ具合の悪くなるドストエフスキーを読もうとはまず思わなかったのです。
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そんな状況が変わり始めたのが2019年の世界一周の旅でした。
2018年12月末で職場を退職し実家に帰り、そこから翌年3月末の出発まで朝から晩までひたすら本にかぶりついていました。
訪れる国の知識を得るために聖書やコーランだけでなくキリスト教史やイスラム教史、人類史、世界文学など出来る限りの準備を尽くしました。
そして旅は始まり、今まで学んできたことと現地で直接見て感じたことが結びついていく感覚を感じ始めていました。
そしてその中でも特にドン・キホーテが私の心に占める割合がどんどん大きくなっていることに気付きました。
出発する前の年に初めて読んだ『ドン・キホーテ』。私はすっかりその魅力に憑りつかれ出発前にもう一度読み直し、さらにkindleに入れて旅のお供にして読んでいました。
ドン・キホーテは理想の実現を目指した遍歴の騎士の物語です。
私は勝手にドン・キホーテを理想化し、私の旅と重ね合わせるようになっていたのです。
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そして何より、ボスニア・ヘルツェゴビナで強盗に遭い、すっかり打ちのめされていた時に私を救ってくれたのがドン・キホーテでした。
どんな苦難に遭っても、どんなに惨めでひどい目に遭っても、彼はへこたれません。
理想を追い求めるなら苦しい目に遭うのは当たり前だ。それでも歯を食いしばって進まなければならないのだ!
いよいよ私の中でドン・キホーテの存在は大きくなっていくのでありました。
そして最後の国、キューバでは私とドン・キホーテを結び付けてくれたチェ・ゲバラの霊廟にお参りすることができました。
私が『ドン・キホーテ』を読むようになったのも、チェ・ゲバラが『ドン・キホーテ』を愛読していて、心の拠り所にしていたということを知ったからでした。チェ・ゲバラほどの人間がそこまで愛しているならばぜひとも自分も読んでみたい。それがきっかけだったのです。
私は帰国してから世界一周記のために資料を集め、執筆に勤しみました。
ひたすら資料を読み込み、ひたすら記事を書き進めていく日々。
私は理想に燃えていたのです。世界一周の旅は終わったかもしれないがここからまたやるべきことが山ほどある!このまま突き進むのだ!と息巻いていたのです。
しかし、7月末のとある日、そんな日々に変化が訪れることになります。
その日私は函館のお寺さんが共同で運営する子供会のサポートスタッフとしてとある大きなお寺の境内におりました。
1泊2日のお寺でのお泊り会。100人以上の子供たちが毎年このイベントを楽しみにやって来ます。
お寺の本堂でお泊りできるなんてそうそう出来る体験ではありません。子供たちは大はしゃぎで遊び回ります。
子供たちと一緒に遊んだり、レクリエーションをしたり、ご飯を食べたり、あっという間に時は過ぎていきました。子供たちのパワーは底なしですね、夜になっても本堂は子供たちの元気な歓声でいっぱいでした。
さて、そんな子供たちのパワーに圧倒され早くもぐったり気味の私でしたが、少し休んでから子供たちの元気な声が響き渡る本堂へとまた足を踏み出していったのです。
子供たちは相変わらず走り回り、風船バレーやドッジボールのようなことをしていたり、かと思いきや丸くなってトランプをしたり、隅の方でこそこそ話をしていたりと、まさしく混沌を極めた世界が広がっていました。
私はそこに混じることもせず、ただぼんやりと本堂の片隅でひっそりと彼らを眺め続けていました。
なぜかはわかりませんが、ただ彼らを見ていたいという気持ちに駆られたのです。
目の前には前や後ろ、右や左と無秩序に動き回る子供たちの一群が、そうかと思えばその背後には座っておしゃべりしているいくつもの円が形成されています。
そして叫び声にも似た歓声が聞こえるかと思えば、ひそひそ声で囁く子たちの姿が目に映ります。
私と反対側の隅にはどの集団にも入ることが出来ずにおどおどしている子の姿もあれば、そんなことも気にせずに寝っ転がっている子供もいました。
目の前に映る光景、耳に入る子供たちの声や物音、そしてそんな混沌に似合わぬお寺独特のお香の匂い。
私はそんな光景に包まれながらぼんやりともの思いにふけってしまいました。
「この子たちは一人一人、色んな個性があって、色んな環境の下で生きているんだ。
まだ少しの時間しかこの子たちと一緒にはいないけど、みんなそれぞれ面白くていい子ばっかりだ。
でも、もしかしたらこうしている内にも誰かをいじめたり、喧嘩したりしちゃう子も出てくるかもしれない。
・・・この混沌を見よ!何が起こったっておかしくないじゃないか!
突然気が変わってむしゃくしゃするかもしれない、逆に突然陽気になって友情が芽生えるかもしれない。
世の中何が起こるかなんて誰にもわからない・・・
この子たち皆が幸せに育ってくれたら何よりだ。
でもそれだってどうなるかわからない。
家庭環境がよくなかったり、学校や社会に出て色んな辛い目にあって、人を傷つけるようなことをしてしまうこともあるかもしれない。
現実は子供たちにあまりにも残酷な仕打ちをすることがあるじゃないか。
こんな混沌の中で私がいくら理想を語ったところで一体何の意味があるのだろう。
ドン・キホーテのように理想を掲げたところで、現実を知らなければただ無残な結果に陥るだけじゃないか!」
論理が飛躍してしまっているのは自分でもわかっていました。子供たちの過酷な未来を勝手に想像している自分にも嫌悪が募ります。
しかし、この時私は理想一辺倒の今のあり方じゃ決定的に何かが足りないと強く感じたのです。
そして自分のおめでたさに愕然としたのです。
しばらく私はただ呆然と彼らを眺めていました。
目の前にある世界は相変わらず無邪気な賑やかさで私を置いてけぼりにします。世界は私に構ってくれるほど暇ではないのです。
「イエーイ!」「待てー!!」「アハハハ!」・・・
・・・でも、それじゃあこれから一体どうしたらいいというんだい?
私は自問します。
目の前の混沌とした世界、そして何が起きるかわからぬという人間の不確かさ・・・
私はふと、自分の中からかすかに何かが浮かび上がってくるのを感じました。
混沌・・・不確かさ・・・人間の現実・・・どす黒いもの・・・
・・・!!
ドストエフスキーだ!!
そうだ!理想の反対!現実のどす黒さを知るならドストエフスキーの他に並ぶ者はない!
私は思い出しました。『カラマーゾフの兄弟』にも散々人間の混沌、どす黒さが描かれていたことを!
今の自分に足りないもの。それは人間のどす黒さを知ることだ。
その混沌、どす黒さを知った上ではじめて理想は理想たり得るんだ。
現実を無視した理想は何の力もない。
だからこそ今、もう一度ドストエフスキーに立ち返る必要がある・・・!
私は子供たちの歓声が響きわたる本堂でひとり、雷に打たれたように固まってしまいました。
これが私とドストエフスキーの第二の出会いです。
この時から今現在に至るまでドストエフスキーの研究を継続して行っています。
彼を学ぶうちにドストエフスキーと浄土真宗の開祖親鸞聖人との驚くべき共通点が明らかになってきました。ますますドストエフスキーを学ぶ意味が大きくなってきています。
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今回の記事は2019年に公開した以下の記事を再構成したものになります。今の私があるのもドストエフスキーとの出会いがあったからこそです。以下の記事だけでなく「親鸞とドストエフスキー」について当ブログでは様々な記事を更新していますので、ぜひのぞいて頂けましたら幸いです。
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