ドストエフスキー夫妻最初の滞在地ベルリンへ
ドストエフスキー夫妻は4月14日、ペテルブルクを出発しヨーロッパへと向かった。
そのルートはベルリン、ドレスデン、バーデン・バーデン、バーゼル、ジュネーブ、ミラノ、フィレンツェ、ボローニャ、ベネツィア、プラハ、ドレスデンというものだ(※経由地は除いた)。
出発当初は3カ月ほどの予定だった彼らの旅はなんと4年にも及んだ。彼らは帰ろうにも帰れなくなってしまい、ヨーロッパを放浪せねばならなくなったのである。その顛末はこれからじっくりと見ていくことにして、まずは最初の滞在地ベルリンに到着したアンナ夫人の言葉を聞いていこう。
ちなみに、ここからアンナ夫人はドストエフスキーのことをフェージャと呼ぶようになっている。フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーが彼の正式な名だ。その愛称としてフェージャと彼女は呼んでいる。ちなみにアンナ夫人のことをドストエフスキーはよくアーニャと読んでいる。この旅が始まるにあたり2人の関係性がぐっと親密になったことがうかがえるのではないだろうか。
私はここを読んで正直安心した。アンナ夫人の子供っぽい一面がこの初々しいけんかのシーンで垣間見える。前回の記事「(8)いよいよ旅の始まりへ~ドストエフスキー夫妻はなぜヨーロッパへ旅立たねばならなかったのか」で紹介したアンナ夫人はあまりにもしっかりしすぎていたが、やはり彼女もまだ21歳。こういう一面もあるのである。
結果的にこの初々しい喧嘩もこの後すぐに仲直りをしてめでたしめでたしとなるのだが、この後あんなに深く結びついた2人も最初から何もかもうまくいっていたわけではないのである。
こちらがベルリンの大通りウンター・デン・リンデンから見たブランデンブルク門。アンナ夫人は雨に濡れながらこの辺りまで歩いてきたのだろうか。
ブランデンブルク門を背にウンター・デン・リンデンを歩く。見ての通り中央に公園のような遊歩道がありその両側には車道が走っている。
こちらはツルゲーネフやマルクス、キルケゴール、バクーニンら錚々たる人物が通ったベルリン・フンボルト大学だ。
しかも恐ろしいことに彼らは皆ほとんど同じタイミングでこの大学にいたのである。ちなみにマルクスとツルゲーネフは同い年。キルケゴールとバクーニンは同じ教室で学んでいて、そこにエンゲルスももぐりで参加していた。歴史に名を残す巨大な人物を一挙に輩出したこの大学には驚くしかない。
興味のある方はぜひ以下の記事「(9)エンゲルス、兵役志願を利用しベルリン大学へ~ヘーゲル研究とバクーニン、キルケゴールとの出会い」をご参照頂きたい。この大学の凄まじさを感じて頂けると思う。
さて、ドストエフスキー夫妻はベルリンに2日ほど滞在し、ほどなく次の街へ出発した。彼らが目指したのはこの街の南に位置する古都ドレスデンだった。そこは古くからヨーロッパ中の旅行者が集う保養地として有名で、ロシア人も多くここに来ていたのである。
4年間の海外放浪中で最も長い時間を過ごしたのもこのドレスデンだ。
次の記事ではそんなドレスデンにおけるドストエフスキー夫妻ゆかりの地のを見ていくことにしよう。
今回の記事は以前当ブログで公開した以下の記事を再構成したものになります。
この元記事ではより詳しく2人のベルリン滞在についてお話ししています。興味のある方はぜひこちらもご参照ください。
以上、「ドストエフスキー夫妻最初の滞在地ベルリンへ」でした。
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