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ルーブル美術館の『サモトラケのニケ』が美しすぎた件について

前回の記事ではルーブル美術館でプッサンやクロード・ロランと出会ったお話をした。

そして今回はルーブルの至宝『サモトラケのニケ』についてお話ししていきたいと思う。

この作品は彫刻エリアに入って割とすぐの段階で出会うことになる。しかも『モナ・リザ』などがある絵画エリアに向かう際に確実に通るであろう非常に目立つ場所に展示されているのでまず見逃すことはないはずだ。

恥ずかしながら私はルーブルに来るまでこの作品のことをほとんど知らなかった。前回の記事でも少し述べたが、この彫刻にも、ルーブルそのものに対してもあまり興味を持っていなかったのだ。

だがこの像を前にして私は凍り付いてしまった。

上の写真では細部まで見えにくかったが、この写真にいたってはどうだろう。この彫刻がどれだけ繊細に作られているかが一目瞭然ではないだろうか。

特に腹部の辺りに注目してほしい。ほとんど薄皮一枚と言ってもいい衣が肌を覆っているのが見えるだろうか。ほとんど透けているかのような質感に私は驚愕するしかなかった。衣のひだも優美でしなやか、見るも心地よい。私はもうニケから目が離せなくなった。

さて、この『サモトラケのニケ』は1863年にエーゲ海のサモトラケ島で発見された彫刻で、「ニケ」というのは「女神」を意味する言葉だ。

そしてこのニケはヘレニズム期の紀元前190年頃に制作されたと考えられている。

ヘレニズムはコスモポリタン的な文明で、普遍的な美を追い求めていたという背景がある。古代ギリシャ文明の全盛期はニケよりも300年以上前の話。古代ギリシャ文明は「ギリシャの宗教性」を求めていたのであくまで「普遍的な美」よりも「ギリシャ的、宗教的なもの」をその真髄としていた(もちろん、それでもギリシャ美術のクオリティーはずば抜けている)。

それに対してヘレニズムは地中海世界全体に広がる文明だったため、ひとつの地域や宗教だけでなく様々な人に訴えかけるものが必要となった。だからこそ誰もが美しいと感じる圧倒的な美を追求するようになったのだ。

それにしても美しい・・・

まさに今にも動き出しそうな絶妙な瞬間が切り取られている。前から吹いてくる風、あるいは自らが進んだことで生まれる空気の流れすら感じられないだろうか。そして上半身がやや前傾していることで前方向への推進力も感じられる。加えて両翼が後方に伸びていくことで前後の重心がこれ以外ありえないという絶妙なポイントに置かれている。

つま先から軽やかにとんと船の上に下ろされた右足、そしてすっと伸びた左足のなんと美しいことか。もう言葉が出てこない。ただただ見惚れるしかない。私はこの角度から見るニケが一番好きだ。最も動きが感じられ、最もその優美さが輝いている。

この衣の軽やかさを見てほしい。脚にまとわりつくそのしなやかさを見てほしい。これが石で作られていると信じられるだろうか。彫刻の極み、限界点を超えてしまったものを私は目にしているのではないか。

この彫刻と比べて見るとその違いもはっきりするのではないだろうか。これはニケにたどり着く前の広間にあったものだ。こちらも古代ギリシャの彫刻で紀元前500~30年に作られたであろうと言われている作品。つまりギリシャかヘレニズムかもわからないくらい制作年は謎だ。

正直私はこの作品も好きである。いや、かなり好きである。見事なプロポーションで、衣の美しさも大理石の模様とマッチしていて非常に美しい。身体のひねり具合も絶妙だ。

しかし!ニケと比べてしまったらどうだろうか!

ニケがどれだけ繊細かつ優美に彫られているかが一目瞭然ではないだろうか。そして私は改めて思った。他の彫刻はどれだけ衣服が美しく見えようと、それはやはり石なのである。だがニケは石を超えて本当に衣をまとっているようにしか見えないのだ。もはや石を超越してしまっている。

こちらも同じ広間にあったものなのだが、衣のひだや動きの造形は非常に高い水準のものだと言えると思う。正直、感嘆するしかない。これほどの超絶技巧がすでに古代ギリシャからヘレニズムの段階で多くの作品に刻まれていたということだ。

しかし!ニケと比べてしまったらどうだろうか!

ニケはあえてその超絶技巧を抑制している。この彫刻を生み出した人物はやろうと思えばどこまでもその超絶技巧を誇示することができただろう。しかし彼はそうしなかった。彼はその超絶技巧を最小限に抑え、なおかつそれが最大に生きるその一点を完璧に突いたのだ。全身を波打つひだに打たせなかったのはなぜか、それが技術の見せどころではないか。いや、彼には腹部の薄皮一枚の恐るべき透明感で十分だったのだ。

最小であり最大。超絶技巧をあえて抑制することでそれが最大限に生きる。美術における「抑制」にここまで感じ入ったのはこれが初めてのことだった。私も観ていてハッとした。しばらく息が止まってしまったほどだった。

実際に近くで観てみるとこの素晴らしい彫刻が立体で視覚に入ってくる。写真ではどうしても平面だ。その違いはとてつもなく大きい。現地で観たニケは完璧だった。完璧すぎてため息が出る。この像を観ていると疲れも忘れる。私はこの像の前をしばらく動くことができなかった。

私としては『モナ・リザ』よりもぜひこちらに時間をかけてほしいとすら思っている。前回の記事でも少しお話ししたが『モナ・リザ』は当然のごとく大混雑の極みだ。ちらっと見えたかと思うとすぐに後ろのプレッシャーによって退散を余儀なくされる。じっくり鑑賞などとても期待できない。

しかし、このニケは違う。実は同じくルーブルの顔でありながらもその混雑の質が全く違うのだ。

この写真を見て頂ければわかるように、たしかに人はたくさんいる。

だがそのほとんどは記念撮影を済ますとすぐにその先へ立ち去ってしまう。『モナ・リザ』のような大行列も後ろからのプレッシャーもここには存在しない。

私もそうであったように、ルーブルといえば皆『モナ・リザ』目がけて進んでいく。その通過点にこの像があるのだ。だからこそ皆ここで長い時間をかけることもなくすっと次へと進んでしまうのだ。

つまり、このニケ像はほとんどノーマークなのだ。知っていたとしても、「あ、これか。記念撮影しよう」で終わってしまう。

というわけでこのニケ周辺は人の流れはあったとしても、鑑賞には全く影響がないと言える。事実、私はこの像の前にしばらく居続けたがほとんどストレスなくじっくりとこの彫刻を堪能することができた。

特に私が写真を撮っている位置は階段を少し上がった踊り場になっているので非常に見やすく、なおかつ記念撮影の人たちもここにはほとんど来ない。そしてニケをベストの角度から見られるという素晴らしいポイントだ。

この写真でいうならば右斜め上の空間だ。

これほどのものをそんなストレスフリーで観られるなんてことはほとんどありえない。

例えるなら、東京で開かれた興福寺展の阿修羅像を行列無しのストレスフリーで観れるようなものである。こんなありがたいことはないだろう。

『サモトラケのニケ』は美の極みだ。それをストレスフリーで観れるのだ。いかがだろうか。これを堪能しないという手はありえないように思えてはこないだろうか。

ルーブルへ行かれる方にはぜひこのニケをおすすめしたい。いや、ニケを観に行くためにこそルーブルを訪れてほしい。それほどの価値が間違いなくある。

ぜひその美しさを体感してはいかがだろうか。


今回の記事は以前当ブログで公開した以下の記事を再構成したものになります。

この元記事ではさらにバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロ作のピエタ像についてもお話ししています。

私にとって圧倒的な美とは何なのかということかをこのピエタやニケを通してお話ししています。ぜひ元記事の方もご参照頂ければと思います。

また、ここルーブルを訪れた1年後の2023年秋に私はインドを訪れています。

そしてこの記事でお話しするカジュラーホーの天女像もまさにニケ的なものを感じる素晴らしい彫刻でありました。

インドにおける最高水準の彫刻を堪能したカジュラーホーでの体験でした。ぜひこちらもご参照ください。きっと驚くと思います。

以上、「ルーブル美術館の『サモトラケのニケ』が美しすぎた件について」でした。

※2024年11月15日追記

左衛門佐様より頂いたコメントにて「『欠けているものに美を感じる』のも、人間の素晴らしい知性,感性の為せる技なのかもしれませんね。」という言葉を頂きました。

まさにそうですよね。私もそう思います。そしてこのコメントを頂き、私は昨年訪れたスリランカのある仏像を思い出しました。まさにその仏像も「欠損の美」を感じさせるものでありました。

それがこちらです。

こちらはスリランカ中部に位置するポロンナルワの仏教遺跡ランカティカの仏像です。見ての通り、この仏像にも頭部がなく、腕も欠損しています。

しかしこの仏像の美しさ、迫力たるや!私のスリランカ滞在の中でもこの仏像はベスト中のベストです。この仏像を見た時に連想したのがまさに今回紹介した「サモトラケのニケ」でした。

左衛門佐様のコメントからこの仏像のことを改めて思い返しました。深く感謝申し上げます。ニケを愛する方からのコメントに私も胸が熱くなりました。ありがとうございました。

以下の記事にて欠損の美たるランカティカの仏像についてお話ししていますのでぜひごちらもご参照頂けましたら幸いでございます。


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