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砂漠の民

  序文   Souvenirs des pilotes


 発動機が動く、操縦桿を引くとパワーが増しているのが分かる。私は、何から逃れようとしているのか、麗しくも冷酷な魔女の放つライオンの牙から命乞いの飛躍をする。それに我を例え、自らの命をあずけるこの鉄塊を迫り来る山肌に向けている。飛行機乗りの蛮勇とでも言うのか、人間とは、熟々愚かな賢者だ。
我々の絶滅後に鳴る残響はもう、私の中では決まっている。"我々は、火を焚く動物以外の何物でもない"。もし、始まりと継続そして終わり以外の性質がこの宇宙にあったら。我々の運命は、どうなっていたのだろう。神は、人々に発見と発明、時に神経症的な戯れを促す妄想として存在し得たのだろうか。今日までの運命を辿った我々からすれば労して益のない問であろう。しかし我々は、時には智慧をめぐらさねばならない。その解した結果が、甘美であろうと、なかろうと。
この山の標高は高い。しかしながら我々は、この山のようなものがどこかで途切れてしまっている事をどこかで了解し、恐れているという変わった性質を持っている。それは、我々の中の誰かが、その中の美しさを表現する術をもっているからであろう。術を持ち合わせていなくても良い。見つける事が出来れば。あのごつごつとした山肌に心奪われ内なる動揺のみの自らをあの魔女がじっとみている。
風が立つ。今こそ生きねばならぬ……。
   
        本文

 鯨の集団自殺はなぞめいている 高い知能をもっているはずの鯨の群れがとつぜん狂ったように岸をめがけて泳ぎだし浅瀬にのり上げ 座礁してしまうのだ。
もともと肺で呼吸する地上の動物だったから何かのきっかけで先祖がえりの想像力で水による窒息死に恐怖心を感じ岸に 殺倒するのかもしれない。
人間だって鯨のような死に方をしないという保証はどこにもない。

 ~安部公房 「死に急ぐ鯨たち」より~

 もし我々が、先祖がえりの想像力で堕落するとしたら。生きているとは何なのか、後進めいた現代に於いては、小賢だと捉えられがちなこの問に、しっかりと智慧を働かせた試しはあったのか。鯨にしても人間にしても、先祖がえりなどされては、どうも折り合いがつかない。我々には、常に現在しか無いのだ。過去は、死者の世界と同じである。決して動じることはない。歴史は、繰り返すなどというものは、取るに足らない。
What will your verse be?
この精神は、いまを生きる上で、人間が到達したかけがえのない境地であると思われる。そこでは、絶え間なく精神の風が吹いているのだ。

 飛行機の歴史は、死者累々の歴史とも言える。1903年のライト兄弟の初飛行から11年、第一次大戦で飛行機は、殺戮の道具と化す。終戦後、郵便飛行が開始されるやいなや、殉職者が続出。
それでも飛びたいと思う者達がいた。一貫してとりあげる著書「人間の土地」の著者、サン=テグジュペリもそのひとりである。キャップ・ジュビー飛行場での生活、彼は瞑想に耽ったりすることしか出来なかったであろう。そして、ギヨメやジュペリ等の死は、ひとつの世界の終結のように思われる。
 
人間の土地との出会いは、風の谷のナウシカがきっかけである。宮崎駿さん二十歳の時、何故人々は過酷な土地でそれでも生きるのか、後1969~70年までに連載していた漫画、砂漠の民にその時のショックが投影されている。
 夏の夜空は、子供達に果敢に富んだ内面的世界を創り上げる。サン=テグジュペリは、サハラという土地で、普通の人間ならまず火を焚き、寒さを癒すだろう。現実のオアシスを見つけようとあたふたするだろう。人間の土地を読んでいると、彼の圧倒的内面世界があらわれてくる。砂漠とは何か、ジュペリは、内部にあらわれるものと言った。ヨーロッパ人にとって地中海がかけがえのない内面的世界の畢竟を拵えたということは、見ての通りである。夜空を見上げるという行為は、概念的な範疇に留まらず人間いかに或るかを、人を問わずその心にあらわすのである。それは現代が忘れた花であろう。物数を極めて、工夫を尽くして後、花の失せぬ所をば、知るべし。
突如、風姿花伝のそんな一説が思い浮かぶ。小林秀雄が当麻で達した美の在り方とその鋭い文明批評。不安定な表情よりも何だ今のは、というばかげた表情をしている人のほうが、よっぽど、人として健康だと思う。
      
 
風が立つ!今こそ生きねばならぬ
絶えることなき風は広々と吹きわたり 我が本を開き また 閉じもする。
波は岩で突然に砕かれ 激しく粉のように舞う!
飛べ きみよ、あらゆる頁に目を眩ませて!
乱せ、波よ! 楽しげに躍る水で砕け
三角帆の啄むところこの穏やかな屋根を。    
 引用      海辺の墓地 
        ポール・ヴァレリー
 かつて小林秀雄などが盛んに参考にした詩人ポール・ヴァレリー。この海辺の墓地は、セットでの瞑想の様子である。
無常という事は、この海辺の墓地のようである。無私を得る道は、不滅の魂をすくう為の道でもある。愛された魂は、不滅であるが、それは水のようにすくい難いものなのだ。ヴァレリーは、冒頭でピンダロスを引用している。生きている者に必要なのは、先祖がえりの想像力などでは無い。立った風を、立った風のままそのことから自らの内に、想起させ変わることではなかったか。
 鯨たちの残響が、聞こえる。
現代はどうした…。
それはソナーではない。
生きているものが、気付いた風の調べを、自らの内面世界を詠む聲だ。

 
 

        
 
 
 
 
 
 

 

 

 

 


 

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