自分の「流行り嫌い」が嫌い
やあ、旅行から帰ってきたよ。
はい、これ。
おみやげのういろうだよ。
今回は下呂と名古屋に行ってきたんだ。
そのことについては、また今度話すよ。
今日はものに対する評価の話だ。
最近、流行りのものが嫌いになるようになった。
もしそれが好きなものであっても、世間でもてはやされると興味を失ってしまう。
物の価値をしっかりと見極めることができるような人でありたいと思うがゆえに、そんな自分が嫌いになる。
どうしてそう思うのだろうか。
おそらく、一つは嫉妬である。
基本的にはやっているものには多くの人から評価が与えられる。
そして、多くのものが賞賛という形である。
それに嫉妬しているのではないだろうか。
もう一つにはプレーンな感覚でそれを楽しみたいという願望だろう。
もちろん、駄作に時間とお金を使いたくはない。
だが、それをいつか良いと思える日が来るかもしれない。
視点を変えてみることで全く表情が見れるのかもしれないのだ。
それに世間の評価と自分の評価が絶対に一致するとは限らない。
どんなものにも評価はついてまわる。
もし、それらの評価が先入観にもたらす影響が0になるとすれば、
おそらくそこには、ある一定の高評価とそれに打ち消されないほどの確固たる低評価が存在するのだろう。
今回の話は僕の主観の話で、何か根拠があるわけではない。
きっと「君の膵臓をたべたい」も流行りの頃に出会っていれば読んだ感想は変わっていたのだろう。
だらだらとたらればの話をしたところで何も生まれやしないからここらで切り上げよう。
今日はこんな話に付き合ってくれてありがとね。
それじゃあ、また
この店で
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