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平凡で平坦な母との記録

母との記録を少しずつ書き溜めていきたい。

母はだいぶ歳をとってしまっていて、
でも私のために頑張って生きてな、と言うと、少し黙ってから、そうやな、と返してくれる。
本当は母の人生の順番どおりきっちり描きたかったのだけど、そんなことする時間の余裕がないな、と思った。
もう思いつくまま、書いていきたい。

母、今年の冬に、86歳になった。
1937年日中戦争が始まった年に生まれた。丹波の田舎に育ったので、戦争を実感したことはあまりないと言う。

それでも、母が3歳のとき、母の父親、私の祖父が腸チフスで亡くなった。
母は6人兄弟の末っ子で、祖父にとても可愛がられていた。
祖父は婿養子に来ていた人で、祖母の家は代々近所の田畑の地主だったが、祖父はあまり働かず経営も取り立ても下手くそで、甘い人だったので、たちまち家計が傾き始めた。
そんな祖父でも、亡くなってしまえば生活は更に厳しくなった。

祖母は女学校を出たお嬢様だったので、ずっと学校の先生をしてなんとかやりくりして、6人の子供たちを育てた。
戦争中も、持っていた田畑、着物、果ては高級な金物類を売って、しのいでいた。
当時一般家庭にある金属類を全部お国が没収したようで、金物はないかと家に押し入られた時も、女手一つで子供たちを守っている身ゆえ、ありませんとは恐ろしくて言えず、
家中の金属類を全て差し出したと聞いている。
どんなに恐ろしかっただろうか。
その心細さは、平和な時代に生まれたなんとか稼いでいる夫がいる私なんかには、想像できない。

村の清掃作業など男が駆り出される行事にも、文句ひとつ言わずに祖母はでかけて行ったと母は言う。

母と祖母の写真

戦争の頃の辛い話や、夫が亡くなった時の喪失感やら、いろいろ話すことはあったはずなのに、一切愚痴を言わない無口な祖母だった。
どんな愚痴を言っても、
お天道様がみとってや、の一言だったそうだ。

一度、私が小学生の頃、祖母が近くの池に、スイカを冷やしにいくのに、ついていった。
家の石積みの階段をおりて、田んぼの畔を歩いて、草の臭いをムンムン嗅ぎながらかき分けて池まで歩いて行った。
祖母はビニール紐で上手に縛ったスイカをそのまま池にそっと浸し、その紐の端を大きめの石に引っ掛けた。
私も祖母も、ただただ池に浸されたスイカを見つめていた。
帰りその小川の横を歩いて家に着くまで、お互いに何も話をしなかった。

ああ、ほんとに祖母は無口な人だった。

私が小4の時に、祖母へ送ったしおり
母がずっと保管してました

しおりの表
しおりの裏

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