震災が教えてくれたことは「思いやり」と「与えることの大切さ」でした
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ニュースでご存知かと思いますが、北海道で大きな地震がありました。人生初の大きな揺れにたった2日間ですが人々は怯え、そしてコンビニやスーパーに走りました。
僕はお店が飲食店だったため、食料的な心配はあまりなく、「とりあえずお店のものがあれば大丈夫」と思ったり、「食べなくてもすぐには死なない」ことを栄養学などの側面から学んでいたおかげでさほど焦燥感を感じることもなく、ただただライフラインの復旧を待ちました。
今回の震災で感じたことは、いつも僕が考えている、そして仲間に伝えている「信用」「信頼」をもととした「人からの優しさ」のありがたさです。
ま、何が嬉しかったかって職場の後輩、お客様、お客様に至っては本州ご在住の方々からたくさんのメッセージが僕のスマホまで届いたことです。
「大丈夫ですか!?」
「無事ですか!?」
「早くの復興を願っています!!」
などなど、僕の安否に加えて北海道の心配までしてくださって、北海道民であることを何よりの自慢、ステータスにしている僕としてはこれ以上ない男場の数々を頂戴したわけです。
北海道民は震災を筆頭とした「災害」に対して正直疎い、そして危機感もなかったはずです。なぜならいつも目にしている災害は本州で起こっていて、身近に感じている「つもり」でしかなかったからです。
まさか自分の地域で起こるなんて頭の片隅では考えていたかもしれないですが、ほんとに片隅、見えない箇所にしまっているレベルです。
そんなある意味「能天気民」のひとりだった僕に届いたメッセージの数々。
考えさせられることばかりでした。嬉しくて、ただ嬉しくて。それだけです。
そして、こんな気持ちにさせてくれたのはいつも陰ながら支えてくれた方々であって、そんな環境に身を置けていたことを改めて痛感すると共に、「今まで自分の人生を生きてきて間違いではなかった」ような気がしたんですよね。
「俺、誰からも連絡来てないよ」と言っていた先輩。誰も心配してくれていないわけはないのですが、こういったメッセージという「形」で見える心遣いをいただけるかどうかというのは知り合ってきた、繋がってきた人たちとの「信用」「信頼」関係が影響している気がします。
不安な時、辛い時、苦しい時、泣きたい時。何が救ってくれるのかって、それはお金でも食べ物でも飲み物でもないんですよ。「人」なんですよ。
その証拠に、人が集まりそうな各所には多くの人がいました。充電が出来たり、帰る場所がない旅行者の方も多くいたとはいえ、きっとひとり暗闇で懐中電灯やスマホの灯りで過ごすことに「怖さ」や「寂しさ」を感じていたからこそなのではないかなってその光景を見ながら思いました。
現在、ある程度落ち着いた状況にまで落ち着いた札幌市内。過去の震災のプロセスでは今夜にまた大きな揺れがきてもおかしくないと言われています。
楽観的な僕はさほど心労しているわけではないですが、この心理状態の一端を担ってくれているのはメッセージをくれた方々の「思いやり」という栄養がいまカラダを巡っているからな気がします。
日々誰かに何かを「与える」ことって大切です。それはたとえ偽善であったとしても、「与えない」よりは数億倍良い。何が悲しいかって、日頃同じようなことを考えながら生きているつもりだったのに、結局はこういった形で自分はまだまだ「与えられている」側だなと知ってしまったことです。
もっとギブして、ギブして、ギブして・・・。
「信用」ある人間へとその道筋を作っていけたらなと感じた、そんな2日間。
ご連絡いただけた方へ感謝の意を表します。
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