ゲームが原作の魅力を教えてくれる
ゼンマイのないチョロQはチョロQか
わが家は夕食どきによくゲームの配信動画を見るのだけど、ある日『チョロQ』の動画を見ていた妻に「これチョロQじゃなくない?」と言われてハッとした。たしかによくよく考えてみると、「手でゼンマイを後ろに引っ張って走る」のがおもちゃのチョロQだ。対してこのゲームはアクセルボタンを押すことで車が走る。つまり初見の人にとっては全くチョロQではない。ゲームは原作のどこを再現すべきなのか? そんなことが気になり始めた瞬間だった。
原作ものを多数映画化している映像監督の大根仁さん曰く、原作再現のコツは「心臓を取りに行く」ことにあるという。原作をそのまま映像化するんじゃなくて、表現が全然別物になっていても、魂のようなコアの部分を引き継ぐべきだと。
例えば最新作の『地面師たち』では、監督自身、原作小説を読んだときについ一気読みしてしまったので、その感覚を再現することにまずこだわったらしい。その結果、複数の場所での交渉が同時に交錯するスピード感ある演出や、60分や90分ちょうどで終わらない自由度の高い尺設定といった独自のアイデアが生まれてきたのだろう。
この大根監督の見立てを補助線にすると、おおよその人が考えるであろうチョロQの「心臓」は、やっぱり「後ろに引いて、手を離すと走り出す”ゼンマイ式の動力”」にある。真っ直ぐ走ってくれなかったことや、個体によって超えられないスピード差があったこともチョロQならではのアナログな体験として記憶している。
原作や、現実。すでにユーザーが元ネタを知っているものの場合、ゲームは何を再現すれば良いのか。うまい原作再現とは何なのだろうか。
ようやくゲーム化されたドラゴンボール
コラムニストのブルボン小林氏はかつて「ドラゴンボールは未だゲーム化されていない」と語っていた。(『ゲームホニャララ』エンターブレイン、p185~187)。理由はたいてい格闘ゲームになってしまうからで、いちばんゲーム化してほしいのは「筋斗雲に乗って、大空を自由に飛び回る」こと。殴る・倒すは原作の魅力のほんの一部分だから、むしろ雄大な冒険譚の部分を再現してほしい、という主張だ。
2020年に発売されたゲームソフト『ドラゴンボールZ KAKAROT』は、この指摘を乗り越え、原作を限りなく再現できた作品だと思う。筋斗雲にも乗れるし、巨大魚も釣れるし、ドラゴンレーダーも見られる。ダッシュをした時に一瞬姿が消えるとか、砂煙が上がるとか、地面に穴が開くとか。そういうディテールの部分でもすごくドラゴンボールしている。僕らが悟空たちZ戦士になれた時に感じる感覚ってこういうことだと思うのだ。
ゲームの根幹となるバトルの部分でもすごくドラゴンボールしているなーと感じたのが、成長するとダメージ数値の桁が2000000みたいなものすごい桁になっていくこと。思うにドラゴンボールの面白さの本質って、相手と「圧倒しあう」ことにある。ベジータがキュイを圧倒し、そのベジータがフリーザに圧倒され、復活したピッコロがフリーザを圧倒するも、最終形態になったフリーザに圧倒される。けれど最後に、超サイヤ人となった悟空が最終形態フリーザをも圧倒する……。
ドラゴンボールの世界に、実は互角の勝負はない。ストーリーを進めるにつれて激しくなるダメージ数値のインフレっぷりは、ドラゴンボールの成長は成長ではなく覚醒であることに気づかせてくれる。
『超サイヤ伝説』は原作並みに「怖かった」
では過去のドラゴンボールゲームは原作を再現できていなかったのかというと、スーパーファミコン時代のRPG『ドラゴンボールZ 超サイヤ伝説』も、原作がもつ「恐怖」の再現では負けていなかったと僕は思う。
リアルタイム世代の方ならわかると思うが、ドラゴンボールの原作は敵がちゃんと「怖い」。モブキャラのみならずヤムチャやクリリンといった主要キャラまでが割とあっさり殺されるし、大事な局面でたいてい頼りの悟空は不在。『超サイヤ伝説』はそんな地球人たちの絶望する感覚までを再現したゲームだ。
もちろん時代は理不尽ゲームの全盛期。単純に敵が強いゲームやエンカウント率が高すぎるゲームならたくさんあった。サイヤ伝説がすごいのは、その理不尽な強さが数値や演出で徹底的に可視化されているところ。味方の戦闘力10万に対して敵ボスが200万で、途中合流する覚醒した味方100万を待たなければ勝てない、なんて戦いがザラにある。
ボスは全員攻撃を仕掛けてくるし、喰らうと地面に激突するし、追撃は怖いし、ベジータはやる気を出さない。体力がゼロになったらパッと点滅して「消えて」しまう演出は、ダイの大冒険12巻の背表紙で微笑むキルバーンと並んで子供ゴコロにトラウマだった。
じゃあそんなに原作再現にこだわっているならベジータ戦でクリリンは死なないのか? というと、普通に死ぬ。死んで悟飯がナメック星を一人旅することになる。「それって原作再現じゃないじゃん!」とツッコミたくなるかもしれないが、『超サイヤ伝説』が再現しているのは原作の「いつ死んでもおかしくないほどの恐怖」だから、これが正しいのである。
再現を続ければ平成はあたらしい
『KAKAROT』や『超サイヤ伝説』のようなゲームをプレイすることは、逆説的に原作の面白さに気づくきっかけにもなる。良い原作再現とは、心臓=本質をぐっと掴めた作品であること。そしてそれゆえ、今まで気づいていなかった原作の魅力にまで気づかせてくれる作品のことだと思う。
そう考えると、登場から30年経っても未だゲーム化されていない作品ってまだまだある。例えばスーパーファミコン用ソフト『スラムダンク 四強激突』は絶好調システムの発動とスタミナ配分をひたすら考える三井寿再現ゲームだったし、『幽☆遊☆白書』はスーファミ1作目こそ戦闘の駆け引きを再現しようとした意欲作であったが、2作目はストⅡブームに影響された格闘ゲームに終わっていた。
ストーリーや設定というよりも、原作を体験した側に残った「読後感」を再現すると良いのかもしれない。ドラゴンボールでいうところの、覚醒して圧倒する快感。死んでしまうかもしれない恐怖。スラムダンクでいえば、ずっと仲が悪かったライバルと「最後の最後だけハイタッチできるカタルシス」とか、反復練習まで楽しいと思えてくるほどの「初心者が上達するよろこび」とか。
こんなふうに何年も前に終わってしまった作品について「もしもゲーム化するなら?」という視点で想像を巡らせるのは楽しい。自分は今年で42歳になるのだけど、少しずつ新しいものについていけなくなってきた実感がある。でも『KAKAROT』や(プラモ狂四郎をゲーム化したような)『ガンダムブレイカー』みたいに、昔ドキドキした作品が時を超えてようやくカタチになることだってあるわけで。解釈を変えて遊び続ければ、平成のコンテンツだってまだまだ新鮮に楽しめると思ってしまうのだ。
インターネットが発達し、過去のアーカイブに自由にアクセスできるようになった現代。古いものを参照して未来が生まれていくことも、その逆に、かつて夢中になったものの魅力に今さら気づけることもある。原作再現を続ける限り、平成は今でもずっと新しいのである。