普通教育、と言う名の"癌"

 普通教育が毒ってのは事実で、これは人間の性質を考えればすぐに導き出せるコトだ。
 言うまでも無い話だが、人間の脳の構造と言うのは完全に同一にはならない。生まれた後の環境に応じて、ある程度機能が絞られていくようにできている。
 協調性に特化する個体も居れば、運動能力に特化する個体も居れば、総合力に特化する個体も居れば、知覚能力に特化する個体も居る。成長する過程で自動的に役割分担が為される訳だ。決して平等に成長しないからこそ、人間には分業という強みが生まれてきた。それぞれが社会という巨大な生物を構築するための器官となる事で、総体としての強さを保つ事が容易になる。 それが人間の持つ数少ない生物的なアドバンテージであり、同時に万物の霊長足ることが出来るようになった要因の一つなわけだ。

 まあそう聞けば分かる通り、社会は"生物"だ。複数の機能を持った個体、即ち"細胞"によって構築される、絶滅と言う名の死を避けるための巨大なアーコロジー。それが人間の持つ自然界における形象、生命体としての本質だ。そうである以上、当然それには"脳"に該当する細胞がある。

 生まれた後の環境――或いは生まれる前の傾向として、"何かを考える"事に特化する細胞がある。

 脳は生命の総体を分析・管理・保全する為の器官だ。その為に必要な機能が備わっているのは当然ながら脳細胞であり、他の細胞に同じ機能がある――なんてことにはなりはしない。そんなことになれば他の細胞がその機能を果たせなくなる。役割が果たされなくなってしまう。

 もうこの時点で、脳細胞に該当する人間ならば気付けるだろう。

 教育は、その"他の細胞"に"脳細胞"と同種の機能を取り付ける行為だ。
 ヒトで言えば皮膚や筋肉の細胞にニューロンを取り付けるようなもの。全身が脳になったと言えば聞こえは良いが、言わばそれは全身が自分の意思で動くようになった、という事だ。まとまりも何も有ったものでは無い。挙句の果てには自分を脳細胞であると勘違いして、本来の脳細胞を管理しようとする細胞まで出てくるだろう。その管理が行き過ぎて"攻撃"になる事だって、あり得ない話ではない。

 これを、生物の世界では"癌"と呼ぶ。

 普通教育とは発癌性の劇毒だ。筋肉から皮膚の一片に至るまで一切の例外なく不完全な脳機能を取り付け、機能不全を引き起こし、本来の脳細胞の能力を死滅させる。幸い人間には集合的無意識――生きて居たいという本能、つまり自衛機構が備わっているから、直ぐに致命的な瓦解を引き起こすということは無いが、それでも毒は毒だ。社会という生物は、癌を抱えて弱っている。

 それは現状を見れば火を見るよりも明らかだ。中途半端に自分を賢いと思い込んだ一般細胞が周囲を攻撃することで、自殺――つまりは壊死する細胞がかなりの件数でみられる。人の死亡率の上位に自死が入っている時点で、それは相応の異常なんだよ。

 さて、ではどうしてそうなってしまったのだろうか?
 と言えば当然"普通教育が悪い"になるのだが、少し待ってほしい。

 社会と言うのは生物だ。当然自衛機構がある。
 そんなバグを引き起こす致命的な毒を、そう簡単に飲むわけがない。ましてや浸透させるはずがない。ましてや自分からそんなものを飲み込む、なんてもっとあり得ない。あり得るとしたら相応の理由があるはずだ。

 正直な話、それに対しては荒唐無稽な答えを返すことしかできない。
 生物が、社会が、自分から毒を飲むわけがないのは事実だからだ。

 教育という概念はそもそも脳の中にしか存在しなかった。それを一般に広めることを脳細胞が許容する筈がない。その証拠に、教育――脳細胞の賦活は、古代の社会では王政――脳の中でしか行われていない。勿論王政も不完全なシステムではあるものの、今の教育のように致命的破壊をもたらす劇毒では無かった。賢君、と言うのが居たように、民衆の中から脳細胞の機能を持った個体を拾い上げた例だって山ほどある。その不完全性は、代を重ねるにつれて是正されていくものだった。

 考えてみよう。民主主義とはなぜ起こったのか?
 それは、民衆に"儒"を広めた者が居たからだ。
 民衆に我欲を与えた者が居たからだ。

 社会を構成する一般細胞に、それ以上の機能を与えようとした者が居たからだ。

 ――――考えたくはない、話だが。

 "人間以外の手が入っている"、としか――――。

 なんて言うと消されてしまいそうなので、この辺で。
 このノートが消えていたら――まぁ察してね。

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