大きなものにふれることは、心を伸ばすこと
先日、とある映画を観ていて「大きなものを感じたくて海に来た」というセリフがあった。「なんかわかる~」とその時は思ったけど、海とか山とか自然にふれたくなるのはどういう時だろう。
僕は「スマホで何でもできる」という風潮が嫌いだ。
手のひらサイズのスマホで世界中の様子にアクセスできて、だれにでもすぐに連絡ができる。このことを「何でもできる」と思うのは盛大な勘違いでなかろうか。
この考えは少し間違えると「人間が何でも手のひらからコントロールできる」という考えにつながりかねない。
だから人はもっと謙虚でなければダメだと思う。
僕が思うに、大きなものとの繋がりも求める人には、良心がもたらす「謙虚でありたい」というある種の自浄作用が働いているのだと思う。自然に生かされているなにか本能のよう感覚が「ちょっと調子に乗りすぎてないか?」と訴えかけるのだ。
そうすると、海や山など壮大な自然、或いは寺社仏閣の空間。博物館などで歴史ある作品にふれることを求める。それらの物理的な大きさや、歴史などの途方も無い時間の雄大さにふれることで、自分の存在が良い意味でいかにちっぽけなものかを再度、認識できる。
2つの時間
この「大きなものにふれる」、「謙虚になる」という事をもう少し深堀りした素敵な記事に巡り会えた。
全日本仏教会の機関紙『全仏』にて浄土真宗本願寺派の釈徹宗先生の講演内容が掲載されていたのである。
その中で、「生活が便利になるということは時間が短縮できること」「ではその余った時間を私たちは有意義に使えているのか?」「本来、時間が余るべきなのに、昔の人と比べて現代人のほうが忙しいのはなぜか?」と釈先生が問題提起をされていた。それを踏まえて以下、抜粋します。
現代人はなにかとカイロスが縮む場面が多い。SNSやら即レスを求められるコミュニケーションなどはその代表だ。時代や文明が変われど、それらに翻弄されず豊かに生きるコツは、「定期的に大きな物にふれることで、肥大しがちな人間のエゴを縮小させ、それは自分の心を引き伸ばすことにつながり、その結果、ゆったりと謙虚に過ごすこと」なのかもしれない。
法華経には「柔和質直者 則皆見我身 在此而説法」
「柔和質直(にゅうわしちじき)なる者は、すなわち、我が身ここにあって、法を説くと見る」と説かれている。
これは、「心がやさしく柔軟で、素直な人は、私(仏)がこの世にいて、常に教えを説いている姿を、はっきり見て、感じることができる」という意味だ。
柔らかくしなやかな心。縮こまることのない心。その心の状態であれば仏さまにふれ、そのお姿を拝することができる。逆に、心が縮こまっている状態はどんどん仏さまと遠ざかる。
心を引き伸ばすには、お寺は最適な場所だと思う。
それでは今回はこのへんで。