『名もなき77億のあた詩たちへ』
⑭(最終話) 名もなきすべてのあた詩たちへ
その上野駅に漂う何かのアンサンブル・ノイズは最初は小さな音だったので、あたしは「しー」と周囲に沈黙を促し、自分も「シー」→「sea」→「C」……と少しずつ調子(トーン)のニュアンスを変えながら自分の今までをまるで浄化をするように発音し、黙す/目守(もくす)ことに決め、積極的にそのノイズに耳をすませたのでございます。
そのアンサンブル・ノイズに集中していると、そのノイズはどうやら息吹のラジオ放送なご様子です。
「あ、ラジオかぁ」
と思って辺りを見回すと、乗客は全員「みかん棟梁」率いる「みかん大工」集団に変わり申しておりました。
「み、みかんのおっさん達ばっかじゃーーーん」
と、あたしが流石にみかんのおっさん、しかも大工さんたちしか乗っていない山手線という状況が掴(つか)めなくなってしまって、わわわ、慌ててそう申したらば、
「だんまれ。だんまっでランジオ聴げや、ボゲー!」
と、「みかん棟梁」がかっぺ丸出しの訛り(なまり)ですごむので、うざっ、皺皺(しわしわ)みかんおっさんのくせにリボンなんかつけてる田舎っぺで変態のくせに、かっぺのくせに、かっぺ! かっぺ! かっぺぽぱっ!
ってこの期に及んで未だやまないやんでるあたしのネガティーブ性が胃の辺りから立ち昇ってきて、ややや止めよう……あたし凡庸メンヘルじゃん? そのうえ、卑屈らしいし、燃えないゴミ以下でふ、こんなあたしのくせにごめん地球、ごめん人類、ごめん日本全土とか勝手に性格の悪さを隠し晒しりんして非生産的に無駄に拗らせて反省して浅はかエーテル/果実(みかん)の匂いを「みかん棟梁」たちと一緒に醸し出し、「かっぺ」は全面的そいでこんな地方差別まで……ここで差別主義者の地獄の黙示を刻み込んだらば、もはやに全力で心の中で撤回申し上げたのでございます。
そして「みかん棟梁に」促された通り素直にアイムソーリとばかりに少しばかり巻き戻りラジオに聞き入り始めました。
黙るの記号、「シー」→「sea」→「C」→というシーがシーン、シュッに「対/クプール」と上野駅を再び出発したこの固有のデコトラ青空山手線の「地/フォン」の拮抗性/クロマチックによってどんどん、変調してゆき、その「しー」の音たちは……しー シー シュッ。シーシュッ、しー、と、詩なのだかなにかを女の子が朗読しているような山手線に配信されてきたレディオから流れてくる小さな声……
レディオ配信の中で女の子は徐(おもむろ)に囁(ささや)きます。幼児の吐息も聞こえます。
しー、詩イー、シィー……
――シュッ。
吸入器で、呼吸の素をたっ君の肺に入れます。
――ヒュー、ヒュー、ヒュー、ぜえ、ぜえ、ヒュー、ヒュー
たっ君は、喘息の発作が出ると、相変わらず、息ができなくなってしまいます。
――ヒュー、ヒュー、はあ、はあ、ヒュー、ぜえ、ぜえ、ヒュー、ヒュー、はあ、はあ
春の初めと梅雨と台風の季節は、キアツの関係で発作が出やすいって足立先生が言っていました。奈々香は、その季節が無くなっちゃえばいいのにと思います。死ぬほど暑い夏と、(あ、いや、死んだらだめだけどー、)ビンビンに寒い真冬。一日ごとに、交互に夏と冬がやってくる世界をわたしは想像しています。この想像は、現実にならないものでしょうか? お稲荷さんや初詣に行くたびに、たっ君の喘息がよくなりますように、毎日が、夏と冬になりますように、その世界がやってきますようにと決まってお祈りを奈々香はしてきました。奈々香は欲張りだから、誰か分からない誰かに、二つもお願いしてきました。だって、たっ君はまだたったの六歳なのです。
「うん、了解したよ、娘っ子。その願い、聞き受けたよ。僕たちに任せて」
不思議な生き物、みかんの妖精、みかんkittyたちは、たっ君に気づかれないように、声を合わせて力強く言ってくれました。
――ヒュー、ヒュー、ぜえ、ぜえ、はあ、はあ
救急車を呼んでしまうと、ご近所にはゴメイワクを、お父さんには恥をかかせてしまうということで、呼ぶことはできないことになっています。今みたいに、お父さんが海外や地方支社にお仕事で行っている時に、たっ君が大きい発作を起こしてしまったら、かりん酒を飲ませて、お薬を飲ませて、吸入をさせます。で、ハウスキーパーの吉永さんというおばさんとわたしが、なるべくおうちでたっ君を見守って様子をみます。でも、吉永さんは、夜八時までのケイヤクなので、八時からはたっ君と二人きりになります。どうしても……になったら、無線タクシーを、社宅マンションの裏手の門にわたしが電話で呼んで、たっ君をかかえて運んで救急病院へ行くのです。そうお父さんに言われています。わたし達には、もうお母さんなんていないから、そうします。
――ヒュー、ヒュー、ぜえ、ぜえ、はあ、はあ、はあはあはあ、ヒューーー、フヒューー
今夜は、たっ君のベッドに奈々香も一緒に寝て、たっ君のふわふわなお肌にくるまった、まぁるい、小さなからだを、横から抱きしめます。ゆるめに、ゆるめに、です。
背中、さすってあげながら、たっ君をふんわり抱っこすると、たっ君は、ヒューヒューってしながら、うすく目を開いて、おねえちゃんの奈々香を見て少し笑います。宇宙で一番かわいくて、かわいそうです。
弟は、力なく、お姉ちゃんの背中につかまります。頼りにして、つかまります。
不肖の奈々香はもう十二歳なのに、息ができないたっ君に寄り添っていると、涙がぽろ、ぽろって出てきてしまいます。これはまだ弱いあかしです。たっ君を安心させてあげないといけないのに。アンシンカンで包んであげないといけないのに。なんにも、なんにも、してあげられません。どうして、わたしはこんなに何もしてあげられないのでしょうか? 自分で、自分にどんよりと失望します。
「お姉ちゃんが包むから、おねえちゃんの中に入ればいいんだよ、たっ君」
――ヒュー、ヒュー、はあ、はああ、ぜえ、ヒュー
わたしは、餃子みたいな形になって、たっ君を自分のおなかの中に包みます。
――ヒューゥー、ヒューゥー、はあ、はあというたっ君の中からの音が、わたしのおなかに響いて、わたしの中に入ってきます。わたしの呼吸、半分、たっ君の肺に入ればいいのに。そう思いながら、わたしは餃子の皮になります。たっ君が淋しいって思わないようになるべく上等な餃子の皮になります。
「大丈夫だよ。明日から、この国には、夏と冬しかやってこなくなるんだから。冬と春の結界は無くして、この冬が終わったら、冬と夏を結んでしまうよ。僕たちにとって特別な友達の奈々香嬢がそう願ったからね。たっ君の喘息はきっとよくなるよ。夏になったら、僕たちのあとは、夏みかんkittyや甘夏kittyが引き継ぐからね」
みかんの中に、ぎゅっぎゅぎゅっとkittyちゃんが詰まっている妖精たちが、ふわふわとたっ君のお部屋を飛びながらそうわたしに話しかけてきました。光を放ちながら飛んでいるのです。みなさんは、この子たちに逢ったことがありますか? ふわふわ、ふわふわ。かわいいです。顔はkittyちゃんでまわりはみかん。ウインクしたり、すねてみたりします。赤いリボンはぽこっと顔の横についているのです。緑のみかんkitty、オレンジのみかんkitty、黄色のみかんkitty。みんな、わたしのお友達です。わたし、妖精が見える人で、本当によかったと思っています。
わたしはみかんkittyたちに見守られながら、たっ君を夜の間中抱っこし続けます。小さい子を抱っこしながらねんねすると、小さい子の熱を大きい人が奪ってしまうから、ほんとはダメだよってたっ君のかかりつけのお医者様の足立先生に言われました。
「でも、アンシンカンが一番大切だから、お父さんが居ないとき、二人で過ごさないとならないときは、たすくちゃんを抱っこしてあげるといいよ」
「はい」
こんなふうに足立先生とお話した記憶があります。
わたしはもうだいぶ大きいのですけれど、もっと本当に大きくなるまでは、たっ君を抱っこしてあげていてもいいんじゃないかなと思います。
「うん。おっちゃん達も、そう思うよ、娘っ子」
ん? 聞き覚えのある声。声の主を探そうと、妖精たちを見上げたら、みかんkittyの中に、よりによって、一人だけ人間のおじさんの顔の妖精がいて、奈々香にみかんの手を振っています。
ふりふりふりふり。
おじさんなんて……、と思って、わたしは、こっそりがっかりしてしまいました。だって、おじさんは、かわいくないです。だけど、なんとなく気になって、みかんおじさんkittyの顔をよおく見ると、前にお父さんがフィリピンに出張に行っていてたっ君と二人きりだった台風の日に、たっ君が大きい発作を起こしてしまい、病院に連れて行ったあのとき、病院まで乗せてくれたタクシーの運転手さんの顔でした。
「子っ供だけでぇ、こんなしんどいことさせるなんてなあ」
と東北のなまりのある厚ぼったい声で、とっても心配してくれたあのおじさんです。わたしのお父さんも東北生まれなのに、おじさんとは、全然違っていて、おじさんは日本人じゃないみたいで、なんだか、とっても不思議で、あのとき、わたしは、バックミラーに写るおじさんのおでこのしわしわを、苦しんでるたっ君を抱っこしながらしばらく見つめていました。窓に打ちつける強い雨風で、タクシーの外の世界はからっぽになって、病院に着くまでの間、わたしたちは地球で三人ぽっちだったこともついでに思い出しました。
たっ君、あのタクシーのおじさん、妖精さんだったんだね、意外だね、って、たっ君が明日発作が治まって、元気になったら、教えてあげようと思います。
妖精おじさんは、今、たっ君の部屋の上空を他のみかんkittyたちとゆっくり飛んでいます。あのしわしわおでこで、たっ君を心配しながら、わたしたちを見下ろして、たっ君のために、季節に魔法をかけてくれてるのかもしれません。もし、今年の冬が終わって、春が来なくて、夏がやってきてしまったら、それはたっ君のためにおじさんみかんkittyがやってくれたことなのです。だから、今のうちに、みなさんに、姉として、一応お断りしておこうと思います。冬が終わった後に異常気象がやってきても、どうか、みなさん、怒らないでくださいね。
桜を見れないのは少し残念かもしれませんが、咲かないのですから、今年の桜は散らなくてよいのだとそう思ってあげてください。そして、優しいおじさんkittyの妖精に逢うことがあったら、ぜひ、ハローkitty、あなたはおじさんでもかわいいかもしれない、サンキュー、とわたしたち姉弟の代わりに言ってあげてほしいとみなさんにお願いします。
たっ君のお部屋より、海東奈々香でした。
-ここで、レディオ通信であたしに語りかけてきたかつての女の子だったその声と、【今】を見ることができなかった弟の吐息は消えてゆきました。
ちょうど弟のたすくがよく通った病院が近くにあった有楽町駅、あたしにとってはLes Misérables/哀史果ての極みの場所でしかない全然楽しくないヴェクトル流れまくりすてぃなのに有楽って名の今日も通過した駅が網膜にイマージュとしてだけ涙腺を辿り、ああ、ってあたしは光臨したおぼろげのカガヤキ/パビョットマンにぴっかぁ照らされて、遅まきながらポロポロと零れるように忘れたらいけないのに忘れていたことをたくさんたくさん想い出して、
「ハローkitty棟梁! おっさんだけども、あなたは可愛いです! ずっとずっと可愛いです。十二才のあた詩からも二十九歳のあたしからも夜露詩苦!!!! センキュー!!」
と、男装のまま、「みかん棟梁」に涙にまみれて絶叫し、心から心からありがとう、あの時ありがとう、ずっとずっとありがとう、でも季節の変わり目も四季も2020年代になったってあるし、桜だって咲いてはちゃんと散ってくじゃねぇかですかよう「みかん棟梁」、ってまぁそれはいいか、でもでも、あとね、十二歳のあたし、ごめんね、二十九歳のあたしの成れの果てがこんなんでごめんね、上手に何も演じてこれなかったね本当にごめんね、それとね、なによりね、たっ君、守ってあげれなくて救ってあげれなくて五感と記憶の中ですらちゃんと抱きしめ続けられなくてごめんね、お姉ちゃん役立たずで本当にごめんね、何もしてあげられなかったねお姉ちゃんなのにごめんねたっ君ごめんねたっ君って身体と神経の体節部分/大切な大雪にちり積もった箇所に感情立体が混乱した探索形状で構築されてゆき、しゃぼん玉によってぶっ壊れた山手線の屋根や昭和の映画の混乱でデコトラになった箇所の修理が、「みかん棟梁」率いる「みかん大工」たちによって瞬時に終了、山手線はちゃんと元通り、してして、かつて少女だった頃のあた詩の心の支えだった妖精の「みかんの棟梁」たち一派はこの元通りになった通常の山手線車両内からは気がついたらば消失しており、あた詩たちは成功者でも名前すら無くったってどこかがぶっ壊れたって屍(しかばね)になったってどんなことがあっても毎日くらくらしながらでも東京を走り続けなくてはならないしくるりん走ってなんぼのこの山手線と同しくぐるぐる。
ぐるぐる山手線が一周して儚く強くまた最初の駅の原宿駅に到着したらば、あた詩は山手線を降り立ち、名も泣きあた詩たちと一緒に全ての認知感覚を音符/ノートに代えて、投射中枢の興奮をカツカツの上限値までメーターをふりきらせ走り出し、喘息で走れなかったたっ君とも一緒に全力で、全力で、全力で原宿駅のホームを駆け抜けて、線路へと、ストンと、華麗に飛び降りて、偶像の少女やかりそめの男装の麗人のままでなんかいられないのは分かっているし、上手にこの人生演じられなかったけれど、だからせめて今だけは華麗に疾走して、おそらく名も無きあた詩たちが入ったらいけない天子様だけがご使用できるという『宮廷ホーム』へと登りつめるために、ただそれだけのためにあた詩たちは線路を走って走って、『宮廷ホーム』に行きたい理由はわからないしどうでもよくて、けどもどうでもよくなくて、今を正直に天子様もあた詩たちも泣いて生きているって、せめてたっ君と自分と玉ちゃんと名も無き七十七億のあた詩たちのためにあた詩は走りたかった。
幻でも心悸(しんき)が跳ねらとび、表層の奇麗事ばかり夢見ていてもいつの間にか止められない渦に入っていってしまったから、あた詩は弔うしこれからも這ってでも生きて書かなければいけない、だから走って、せめてこの舞台ぐらいは飾らなければならないから、あた詩は戦争が終わっても始まる前もタブーで一人きりで佇むこの不明瞭な『宮廷ホーム』に一歩のぼり、二歩のぼり、三歩踏み出し、そして、今まであた詩を見てくれたすべての人、まだ出会っていないすべての人、不条理のまま生きれなかったあた詩たち、七十七億のために踊りだした。
点へ、AIRへ、空へ、どこかへ向けて、あた詩はあた詩たちのために精一杯踊ります。
見守ってくれてありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありが
とう、ありがとう。
(了)