『翻訳できない世界の言葉』ホントのところ
Hallo, Guten Tag!
『翻訳できない世界の言葉』。
この本、レビューもとても良くて、挿絵もすごく可愛いので読んだことのある方もたくさんいると思います。読んだことのない人でも挿絵やタイトルを見れば、一度は目にしたことがある、という人も多いのでは。
もう何年も前になりますが、私も手に取って読んだことがあります。
今回はその本に載っていたある単語を思い出したことをきっかけにそこで紹介された言葉について書きます。
砂漠の民の「手のひら一杯分」
知らない言語の背景にある、独自文化や自然からしか湧いてこないようなさまざまな言葉が散りばめられていて、そんな見知らぬ土地で暮らす人々を想像しながら読める楽しい本でした。
そこで、この本に収められていたアラビア語のغرفة(グルファ)という単語を思い出しました。そこでは「手のひら一杯の水」という意味で紹介されていて、水が貴重な砂漠の土地ならではの表現と思わせる説明があった気がします。
しかし。
あれほど叙情的に読者に紹介された砂漠の民の「手のひら一杯の水」。
実際には
水に限らず、ひとすくい分ならغرفة(グルファ)。
そしてもっぱら「部屋」の意味でしか使われない。
あれ?
غرفة(グルファ)という言葉を知って、砂漠に住む人々の生活に思いを馳せた読者は少なくないはずですが(私も)、もう少し詳しく見ていくともっと面白いことが見えてきます。
『翻訳できない世界の言葉』は、見開き1ページで他の地域にない概念を簡易的に紹介する、読み物としてはとても楽しい本ですが、興味のある人は、その単語を実際に調べてみて自分なりのイメージを追加して持ってみるのもいいかもしれません。
・・ドイツ語も見てみましょうか(ついでか)。
森の国の民の「静寂」
この本にはドイツ語もいくつか紹介されています。
"Waldeinsamkeit"
もその一つ。
長い単語には定評のあるドイツ語の複合名詞です。以前にその長さが実は日本語も負けてなかった件について書きました。
この単語も以下の2つから成っています。
r Wald=森
e Einsamkeit=孤独
『翻訳できない世界のことば』の本の中で、この単語がどの様に紹介されていたか正確には分からないのですが、この本に出てくる他のドイツ語の言葉に比べて少し違う感覚のある単語です。
その他のドイツ語とは、Kabel Salat(ケーブルサラダ:電気コードがごちゃごちゃしてる様), Drachenfutter(ドラゴンの餌:怒っている奥さんへの贈り物), Warmduscher(ぬるいお湯のシャワーを浴びる人:意気地無し)など。
どれもユニークですが、割と身近な言い回しで日常的によく耳にするものです。
その中で、この"Waldeinsam"だけが異彩を放っています(笑)。
意味は、その字面からも想像できると思いますが森の静寂とか、そこで感じる人里離れたひっそりとした感じです。
なぜこの言葉だけが他の言葉と一味違うと感じられるのか。
それは、こんなところに表れています。
例えば、何気ない日常生活のおしゃべりの中で、
「森の静寂に浸ってる」と言うときに、
Ich genieße die Ruhe im Wald.
と言うことはあっても
Ich genieße die Waldeinsamkeit.
と言う人はいないし、
「森の静けさって落ち着くよね」と言うときに、
Die Stille des Waldes ist so beruhigend.
と言うことはあっても
Die Waldeinsamkeit ist so beruhigend.
と言う人を知らないし、
「森の中っていつもめっちゃリラックスできる」と言うときに、
Im Wald fühle ich mich immer so entspannt.
と言うことはあっても
In der Waldeinsamkeit fühle ich mich immer so entspannt.
と言う人に出会ったら、ここでそんな言葉をチョイスした話者に、「・・してその心は?」と問わざるを得ないので、伝えたい内容よりも気になっちゃう。
つまり、Waldeinsamkeitは口語っぽくないのです。
Waldeinsamkeitという言葉は、日常的には他の言葉で言い換えられていることがほとんどで、耳にすることもほぼ無い、文学的な響きのある言葉だからです。
故にちょっと格調高い感じがするので、一般的に口語で使う場面も頻繁にないのだと思います。
みんな頻繁に森を散歩するし、森のハイキングについて永遠に語るのに、この言葉を使わないでいられるなんて(・ω・)ノ。
このWaldeinsamkeitという言葉、もう少し掘り下げると、1880年代に詩人のJoseph Viktor von Scheffelによって書かれた12篇の詩からなる詩集のタイトルでもあり、文学的な題材として描かれています。
この詩集の日本語訳があれば、併せて読んでみたいなと思っています。
Waldeinsamkeitの詩集が出た1880年代の森は今のドイツに見る森とは姿もさることながら、森との精神的なつながりが全く違っています。
森の存在と切り離せないグリム童話も、この詩集の出る半世紀以上も前に出されています。さらに魔女狩りの時代の森、ましてやキリスト教以前より深く繋がる森への精神性を想像するのは容易ではありません。
そんな森の情景を記憶しているかもしれないWaldeinsamkeitという言葉は、誰もが経験のある都会から離れた憩いのひとときを気軽に楽しむ際に感じる森林の静寂よりもっと深い、樹木信仰や畏れ、そんなものを含意している言葉なのではと思います。
本で(多分)紹介されているような、ナルホドさすが森の国ドイツの言葉だね、からもう一歩。
その言葉に森への独自の精神性、畏怖、信仰、文明の及ばない圧倒的アウェイ感なんかをちょい足しして味わえたら楽しいな、と思います。
Waldeinsamkeit、文学的ロマン主義的な響きに加えて、ネイティブ話者の中に今は薄れた森への畏れの記憶が残ってて気軽に口にできない説。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。