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道場

Hallo, Guten Tag!


道場へ行ってきました。

今回お邪魔したのは、剣道の道場です。

とはいえ、私がよく知る馴染みの道場は、生産設備や治具、表示板などが置かれた工場の中。
技能を磨くための訓練や研修のために使われる、製造現場にごく近いエリアに設置されたトレーニング場所のことを、トヨタ生産マネジメントシステム(リーンシステムとも)を取り入れている欧州の企業が道場と呼んでいることがあります。

そんな馴染みの道場とは多少勝手は違いましたが、製造現場における技能を磨くための道場にも、武芸の稽古に励むための道場にも共通点があります。
それはモットーとなるものが掲げられていて、ベテランの持つ、言語化・数値化の困難な高度な技を感覚に落とし込んで身につける場、という側面です。もちろん工場のそれには、可視化された様々な仕掛けが用意してあります。

今回はそんな、
「そもそも言葉で伝わるようなものではございません」
を伝える道場のような現場における通訳について書こうと思います。

あんた、そこに仕事はあるんかい( ̄▽ ̄;)?


禅問答

さて、やってきたのは歴史あるお寺の中にある道場。

開け放たれた道場の窓から、稽古する子供達の声が境内に響いてきます。
その声に混じって場内全体に響く師範の短く鋭い声。

中に入ると壁には「気剣体の一致」の文字。
道場に漂う気合いに多少気後れするも、軽く自己紹介など済ませ、早速稽古をつけてもらいます。まずは、竹刀や防具などの名称、そして初心者向けに正座や立ち方の所作、竹刀の持ち方などの基本動作の指導が始まりました。

そして稽古が進むうち、師範との会話で何度か、禅問答をしているような場面がありました。

話が噛み合わない、ちぐはぐになる、何か納得したような、しないような。。
参加者の質問に答える師範の言葉にも大事な気づきが隠されているのだと思うのですが、ちょっとした禅問答、通訳としては悩ましいところです。
論理的であること、因果関係がはっきりしていること、科学的であること、この思考に慣れている欧米の人達との間で、のらりくらりした、また、はぐらかされたようなやりとりは、若い頃は特に、通訳、ちゃんと訳してる?なんて思われたりして💦
このような場合に双方に立ちはだかる壁、動かざるは山の如しです。

当時の私の通訳現場は非常に特殊でニッチなもので、伝える情報といえば物事に対する考え方や態度であることが多かったのですが、相手にその概念がないため、場合によっては新しいドイツ語を創り出して伝えていました。
禅問答の「ちぐはぐ無限ループ」は、体験を伴わないところに言葉で理解しようとする限りにおいて抜けられず、そこに道場という装置は有効です。

そんな通訳現場で、相手が言葉ヅラだけ理解しているとき。
年齢とともに面の皮も厚くなってきたのか、「ちぐはぐ上等」と構えていられるのも、ある意味「言葉」の限界を時間に委ねることができるようになったからかもしれません。

禅の世界にある「不立文字」という言葉は、体験によって真理に近づけるということを示していると言いますが、言葉による真理への到達の限界を表しているものともいえます。
異なる文化において、理解される文脈も変わってくる現場でいかに伝えるか、というところはまさに通訳の腕の見せ所なのかもしれません。しかし、言語たらしめたるところ、ある意味その限界にこそあると考えるようになってからは、以前よりも言葉と仲良くなれた気がします。

そして、そんなプロセスを経て相手に伝わったものは、うまく表現できませんが、頭で理解するような感じではない何か、と感じています。

さて、くだんの道場では。
竹刀の構え方や収め方を教わりながら、「私は左利きなのですが」という人が。

師範は一言、「大丈夫です。」
左利きだからといって特に所作の順序などが変わる、などということはありませんでした。

そして一通りの動きをおさらいした後、「気剣体の一致」がなければ試合での一本も認められないというお話がありました。
「気剣体の一致」とは?
勝敗を分かつ一本の条件、「気剣体の一致」。
具体的にどのように明文化されているのでしょう。

第12条
有効打は、充実した気勢、適切な姿勢を持って、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、残心あるものとする。

『剣道試合・審判規則』全日本剣道連盟

竹刀の打突部や打突部位は、物理的な場所のことですので理解しやすいと思いますが、勝敗を左右する気勢・姿勢・残心の有効性が、例えば、定められた客観的な物理的範囲に、矢やボールを打ち込む、あるいは高さや飛距離、時間を数値で競うようなものとは異なるものであることがわかります。

先ほどの右利き、左利きの話にも通じますが、ここに「型」というアプローチを考えることができると思います。
欧米のビジネスパーソンから、日本の高品質な製造業における考え方などについて書かれた「KATA」という本が熱心に読まれていた/ いるのも偶然ではありません。

左利きなら、逆にした方が理にかなっているのでは?
勝敗を分ける決め手の基準は数値化可能な客觀的なものでであるべきなのでは?

から脱却する思考。

長々書いてきましたが、
「そもそも言葉で伝わるようなものではございません」
の通訳現場で有効な一本は、

「Tun Sie es mal! (やってみ!)」

の一言です(笑)。

今日も最後まで読んでくださりありがとうございました。




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