秘境で珍獣を追っていた私が雑草に夢中になったワケ
なんと、気づいたら32年間も、NHKの自然科学番組を作り続けていました。
平成生まれの人には信じられないでしょうが、スマホやネットどころかパソコンもなく、取材に行くときには電車の時刻表や地図の必要なページをコピーして持って行った時代からです。
絶海の孤島でサメの群れを追い、カザフスタンの草原でサイガという珍獣を探して奔走し、西アフリカ・シエラレオネのジャングルで世界で推定2000頭しかいない野生のコビトカバの撮影に挑んだ私が、最後に作った番組は、街の中の「雑草」や「野菜」が主人公。
なぜそこに目を向けるようになったのか?
どこかの誰かの何かのヒントになることもあるといいなあと思って、書いてみることにします。
自然番組にあこがれてNHKへ!
なーんてことはない
私がNHKに入局したのは1991年(NHKは会社ではなく放送局なので、「入社」ではなく「入局」という)。ワンレン・ボディコンの女性が羽付き扇を振り回して踊る映像がバブルの象徴として流れていたころ。
最初に配属されたのは、滋賀県の大津放送局。入局後の配属の希望で、「第一希望 沖縄局」「第二希望 札幌局」と書いたら、その真ん中にされてしまった。そういう意味じゃなかったんだけどな。
とはいえ、この大津放送局に配属されたことが自然番組ディレクターへの最大の分かれ道だったわけだから、配属を決めた当時の人事局の誰かに感謝。
そもそも、NHKのディレクターになるなんて、夢にも思わなかった。
出身は福島県郡山市。
子どものころから動物が好きで、小学校の帰りにカラタチの木についているアゲハチョウの幼虫を取ってきて母に気持ち悪がられたり。カマキリの卵を虫かごに入れて2階の部屋に置いておいたら、ある日ふ化した大量の赤ちゃんカマキリが行進して階段を降りてきたり。そんなことばかりしていた。
大学では、理学部で昆虫の変態ホルモンを研究。さらに医学部の大学院修士課程に進み、細胞生物学の研究をした。研究室でも研究そのものよりも、動物を育てることに夢中になってしまった。カイコでもマウスでも、餌を食べるところや子育てをする様を何時間でも飽きずに観察していた。
修士課程を卒業するにあたって、博士課程に進むか就職するかの選択に迫られた。博士課程まで進んだら、その後で就職するのはなかなか難しい。たぶん一生大学の研究室生活。就職するにしても医薬品などの研究室に入るのが王道だった。
決め手は、特になかった。
なんとなく。
一生研究室で過ごすのはイヤかも。
どうせなら全然違う仕事もいいかも。
化粧やスーツやパンプスとは無縁だったので、そういう格好をしなくてよくて、勤務時間も9時~17時とかきっちり決まってないところ。
そんないい加減な理由で、選んだというよりふと思い浮かんだのがマスコミだった。
32年の始まりは勘違いから
入ったら、めちゃくちゃおもしろかった。
NHKの地域放送局のディレクターは、色々な番組を担当する。1番最初はニュースの1分~2分のVTR(「企画」という)や季節を伝える「中継」。そこから徐々に長い番組を任されていく。10分~30分の旅番組。「おかあさんといっしょ」のスタジオ。高校野球大会の地区大会の中継。「きょうの料理」の地方の料理を伝えるコーナー。「ゆく年くる年」。
あたりまえだけど、どれも初めての経験。毎日が楽しくてしかたなかった。
そんな1年目の終わり。ディレクター全員(といっても、当時の大津局のディレクターはたった5人)が1人1本、来年に向けて特集番組の企画を提案することになった。
いきなり特集の企画なんて、とても無理。と思っていたら、2年上の先輩が、おまえこれやったらどうだ、とネタをくれた。それが自然番組へ向かう2つめの大きな分岐点だった。
その今森さんの1年を追ったドキュメンタリーを提案することになった。
ここで起きた大きな勘違いが運命を分けた。
提案するにあたって、今森さんにこれこれこういう番組を作るために1年間お付き合い願えませんかというお話にあがった。
今森さんの活動を1年間追いかけて、人が作った環境が昆虫にとっても暮らしやすい、里山という身近な自然環境を紹介したい。
と、伝えたつもりだった。
でも、なにせ社会人になって1年も経たない。頭の中で考える意図を正確に人に伝えることができていなかったに違いない。
私としては、今森さんの活動をメインに撮影して、自然環境や昆虫は今森さんのすばらしい写真で紹介するつもりでいた。
ところが、今森さんは昆虫の番組と思われたよう。
それはいいですね、じゃあ、主人公はやっぱり田んぼの昆虫の王者タガメですかね。獲物を捕まえるときの迫力がね、すごいんですよ。プロレスラーみたいに、前足で抱え込むっていうのかな。ミズカマキリやタイコウチ、コオイムシもおもしろいですよ。
あれよあれよという間に、「田んぼにすむ水生昆虫の1年」を追う番組になっていった。
そのとき上司はというと。
おおらかだった。
全く企画意図が違ってきたのに軌道修正もせず、好きなようにやらせてくれた。むしろ「田んぼにすむ水生昆虫の1年」を実現させるべくアドバイスまでしてくれた。
そうして、1年間水生昆虫を追いかける撮影が始まった。とはいえ、水生昆虫の生態なんてそれまで見たことがない。今森さんの「昆虫記」を教科書に、とにかくひたすら観察する毎日。今のようにインターネットで情報を探せる時代ではないので、毎日毎日よーく観察して、少しでも変化があると、「ひょっとすると今晩産卵するかもしれない!」などとカメラマンのもとに駆けつけ、確証もないのに徹夜でそのときを待った。
小さい放送局だからできたことだと思う。当時の私の年間スケジュール表を見ると、「タガメの繁殖期」「コオイムシのふ化 このへん」など、「私の予定」ではなく「水生昆虫の予定」で埋まっている。
入局2年目の新人に、ここまで自由にさせてくれた当時の風潮に、こころから感謝。
生まれて初めて作った自然番組、田んぼのリズムと水生昆虫の営みがぴったり呼応する里山の自然環境を描いた「きんきスペシャル 昆虫たちの水辺」(1993年関西地方で放送)が、できあがった。
この1年の経験で、自然番組はおもしろいという気持ちが生まれた。
高山からジャングルまで
世界の秘境で珍獣探し
東京のNHKには通称「自然班」と呼ばれるディレクター集団がある(現在はNHKエンタープライズにある)。
当時は、「ダーウィンが来た!」の祖先にあたる「生きもの地球紀行」という番組を制作していた。人よりも自然が好きなちょっと変わり者のディレクターが多かったため、他の部署からは「野人の集まり」と言われていた。
入局5年目。希望叶って自然班に異動になった。
「野人の集まり」初の女性ディレクターだった。
よく、「自然番組を作るうえで、女性で困ったことはありませんか?」ときかれることがある。ないことはない。女性の中でも小柄なほうなので、一般的な男性に比べると重い物が持てない。高いところに手が届かない。キャンプ泊のとき生理の血のにおいを嗅ぎつけて肉食獣が来たらどうしようと思ったことや、激しく洞窟の中を歩く撮影と出血のピークが重なって大惨事になったこともある。
でもロケに関して言えば、影響を受けたのはむしろカメラマンだったと思う。NHKの場合、自然番組の海外ロケは、基本、日本からはカメラマンとディレクターのたった2人だけで行く。経費を切り詰めてロケ期間を長くして撮影チャンスを増やすためでもあるが、自然や生きものに与える人間の影響を最小限にする意味もある。私が女性であることで一般的な男性の半分しか荷物が持てないとしたら、カメラマンはそれまでよりも1.5倍荷物を持たなければならなくなる。
最初のころは、なるべく迷惑をかけないよう、ジムに通って筋力をつけようとしたりもした。でも、あるときからやめた。忙しくなった、めんどうになった、ということもあるが、自分ができることをちゃんとやるほうが大切だ、と思えるようになったからだ。
男性だって、小柄な人もいれば虚弱な人もいる。見えないハンディやトラブルをかかえている人もいる。でも1人1人が違う感性を持ち、違う考え方をするから、違う番組ができる。
無理して重い物を持ち上げてケガをするくらいなら、そこは重い物を持てる人に任せるとか、現地で荷物を持ってくれる人を探すとかして、私は他のすべきことをするほうがいい。
そう思えるようになったのは、初めての自然班の女性ディレクターでも特別扱いすることなく、あたりまえのように行動してくれたカメラマン諸氏のおかげ。
水を得た魚のように、ますます番組作りに夢中になった。
とにかく海外に行って見るもの体験すること、何もかもがおもしろかった。マイナス20℃の中でのキャンプ生活や荒波にもまれて船酔いに耐える船での生活も、過酷だけど楽しかった。
主な場所と取材内容をあげてみる。
1997年
バミューダ海域をひと月近く航海
海面に浮かぶ海藻にすむ生きものを取材
1998年
アメリカ・ロッキー山脈
切り立った断崖にすむシロイワヤギを追う
1999~2000年
奥ヒマラヤの標高4000mを越える高地で夏冬キャンプ泊
幻のユキヒョウとブルーシープを待ち構える
2000年
南米大陸から沖合500㎞の絶海の孤島
船に寝泊まりしてサメの群れを撮影
2001年
カザフスタンの大草原
サイガという珍獣を探して2か月間奔走
2002年
アメリカ・カリフォルニア
マンボウが跳ぶスクープ映像の撮影に成功
順調なロケも順調じゃないロケも、いつも精一杯だった。でも楽しかった。
今でも覚えているのは、ロッカーの前でサメのロケの準備をしていたとき、同じく自然班にいた大津局出身の先輩に声をかけられた。
「いつも楽しそうだね」
「はい!!」
そのとき、心の中で、本当に、世界一幸せだと思っていた。
普通ならなかなか行けない場所に行って(行けないというより、普通は行きたくない場所のほうが多いかもしれないが)、見たいものを見て撮影して、その映像をたくさんの人に見ていただけて、しかも、「見せてくれてありがとう」と感謝の言葉までいただけることがある。
幸せだった。
あれ?
秘境に行かなくても、こんなところに?
少しずつ変わってきた。
きっかけは、2004年に放送したNHKスペシャル「映像詩 里山 命めぐる水辺」だったかもしれない。
NHKスペシャル「映像詩 里山」シリーズで、琵琶湖の北部を舞台に、三五郎さんという川漁師と水をめぐる生きものたちとの関わりを描いた。それまで手がけた中で1番大きな番組だった。
企画協力は、あの大津の写真家・今森光彦さん。提案したのは、かねてから今森さんと親交のあったプロデューサーで、私はたまたまディレクターとして選ばれた。
ものすごいプレッシャーだった。このころから自然班は世界に通用する自然番組をめざしていた。日本ならではの自然環境を描くシリーズ「映像詩 里山」は、そのフラッグシップとして立ち上げられた。求められる高い完成度に自分の力量が追いつかず、さすがに楽しいことよりも苦しいことでいっぱいだった。
それでもなんとか無事に完成し、思ってもいなかった海外の賞も数多くいただいた。
何よりうれしかったのは、見てくださった方からたくさんのお手紙をいただいたこと。SNSなどなく(まだスマホすらない)、メールさえそれほど一般的じゃなかった時代。便せんやはがきに丁寧な文字でつづり、郵便料金を払ってポストに投かんしてくれたのだ。
例えば、撮影地と同じ地区に住んでいらした方から。
苦しかったけど、作ってよかった。
そのころ、結婚して庭(といっても、駐車スペースとして砂利が敷いてあった場所の砂利を取り除いて土をむき出しにした場所)がある一軒家に住み始めた。駐車スペース用の土だから養分などあるわけがない。それなのに、ほうっておいたらひと月もしないうちに草が生えてきた。それどころか、勝手に木まで生えてきた。2年目には私の背丈ほどにもなった。
いやー、植物って、すごいなあ。
初めて、植物に興味を持つようになった。
「映像詩 里山」の次に担当したのがイギリスBBCとの国際共同制作の大型自然ドキュメンタリーシリーズ「プラネットアース」。
キャッチフレーズは、誰も見たことのない地球の素顔を極上の映像で描く。全11回シリーズで、淡水、洞窟、乾燥地帯、高山、草原、海(浅瀬)、極地、ジャングル、四季のある森、外洋と深海、と各回ごとに環境がテーマ。テーマにあった場所を探して、世界中を飛び回って撮影した。
で、ふと思った。
この環境、全部日本にあるな。
この小さな日本に。
海外ロケから帰ってくると、日本はなんてみずみずしい緑に覆われているんだろうと驚く。
植えたり手を入れたりしなくても、勝手にいろいろ生えてくる(自宅で実証済み)。刈っても刈っても草が、それもいろいろな草が生えてくるのは、私たちにとってはあたりまえだが、世界的に見ると実はとても貴重なことなんじゃないか。世界には1度木を切ったら、おそらく何十年も生えてこない不毛な場所がたくさんある。そんなことを、考え始めていた。
番組作りを、手放しに楽しめなくなってきていた。
バブルはとうの昔にはじけて、未来に希望が持てない人も増えていた。今日、食べるものにさえ困っている人に、遠い海外の自然の豊かさや生きものの営みのすばらしさを見せることに、何の意味があるのか。いや、意味はある。でも、このころはその意味すら偽善に思えた。誰もがトクベツな場所に行けるわけじゃない。
それなら、毎日見慣れた風景でも、見方を変えたら楽しいことがあると伝えられたら。つまらないと思っていた日々もちょっとだけ幸せに思えるんじゃないか。
そんな番組を作りたいと思うようになった。
このためにディレクターになったんだ
~植物生態写真家・埴沙萠さんからの贈り物~
そんなころ、埴沙萠さんという方に出会った。
ここまで読んでくださった方は、いつも、ちょうどいい「そんなころ」のタイミングで誰かと出会ったり何かが起きたりしているように思われるかもしれないが、実際そうだからしかたない。というより、立ち止まっていたときに起きる出来事に引っ張られて、今に至っているだけということかもしれない。
超短くプロフィールを書くとこうなるが、埴さんの思いや人となりや写真については、とても言葉では書き尽くせない。植物への愛、植物といういのちを育む自然の英知への愛。それを一生見つめ続けた人だった。
初めてご自宅におじゃました日、玄関に向けて足を踏み出そうとしたら、「足元をごらんなさい、芽生えがあるでしょ」としかられた。何の植物かはわからないが、5㎜ほどの小さな草がバンザイをするように双葉を広げていた。
最初の出会いは、番組に使うドングリの芽生えの動画を撮っていただけないかというお願いだった。でもやり取りを重ねているうちに、埴さんご自身があまりにおもしろくて魅力的なので、埴さんを主人公にしたドキュメンタリーを作りたくなった。埴さんの目を通せば、私がそうだったように、なにげない足元の自然にも小さな草花のいのちの輝きがあふれていることに気づく。そんな番組を企画した。44歳のときだった。
番組の中で埴さんが言う印象的なことばがある。
「楽しいことばかりだよ、人生は」
プロデューサーの1番のお気に入りで、視聴者の方からも「あの一言に力づけられた」という感想が圧倒的に多かった。
でも私は、心の底から肯定できなかった。がんばってもがんばってもつらい思いをしている人はいっぱいいる。その人たちにとって「人生は楽しいことばかり」というメッセージは、あまりにも無責任で一方的なのではないか。
同じように感じた視聴者の方から、放送後、埴さんの元にメールが届いた。
(※)現在は個人のホームページにメールアドレスを直接掲載することはあまりありませんが、埴さんはご自身のホームページに「埴沙萠」という名前と共にアドレスを公開していたため、放送後、国内外からものすごい数のメールが届いたそう。それにひとつひとつ返信されていました。
埴さんが送ってくれた、その方とのメールのやりとりを、ご家族の許可を得て記載する。
今読んでも涙がこぼれそうになる。
埴さんだって、辛いこと悲しいことがなかったはずがない。
でもいつも楽しいことを見つけては、心から楽しんでいた。
キノコの傘の下から胞子が煙のように舞い出るシーンを撮影したときのこと。埴さんにとっては、何百回、ひょっとすると千回以上見た光景のはず。それなのに、目を輝かせて、飽きることなく何時間でも楽しそうに見つめ続けていた。
率直に言って、ちょっと、いやかなり変わり者だったけど、みんな埴さんが好きだった。
楽しさを、分けてもらっていたのだ。
こんなふうに、番組を通して、会ったこともない誰かに、ちょっとでも楽しいことを見つけるきっかけを届ける。
そのために私はディレクターになったのだと思った。
埴さんは、85歳で亡くなられた。
亡くなる20日前が誕生日。埴さんのロゴであるメキシコの帽子ソンブレロをかぶった埴さんとウチワサボテンの模様を入れた特製のパンを、宅配便で贈った。
その夜、埴さんからメールが届いた。
もしも、1つだけ願いが叶うなら、もう1度会いたいなあ。
目の前のことをどれだけ楽しめるか
それから8年が経ちました。
昨年、おそらく日本で、ひょっとすると世界で唯一かもしれない「植物観察家」を名乗る方を主人公に「雑草」と「野菜」の番組を作りました。
純さんもまた、楽しいことを見つける達人です。観察の対象が身近な植物ということもありますが、どこへ行っても楽しいことを見つけ、疑問を見つけ、チャンスがあったらそれを観察で解き明かします。
純さんとの出会いは偶然ではなく、7年がかりで探しました。
埴さんが亡くなられた後、もっと身近な、見ようと思う気持ちさえあれば100%誰にでも見つけることができる植物の楽しさを紹介したい。それには、番組の中で楽しさを分けてくれる楽しさの伝道師が必要だ。
そう思って探し続けてきました。
そして、ついに見つけたんです。
番組では、アスファルトの隙間で1.5㎜ほどの花を咲かせる「ツメクサ」や、食用として改良されたために花の芽が玉の中に閉じ込められてしまった「キャベツ」が「本気」を出して花を咲かせるシーンなどを、純さんと一緒に発見していきます。間違いなく、見ようと思う気持ちさえあれば、誰でも見つけて楽しむことができる内容になりました。
(キャベツは花を咲かせるところではなく、半分に切った断面を見て、あー、なるほど、人が葉を食べるために花の芽がこんなところに閉じ込められてしまったんだなと実感できます)
実は、その2つの番組を合わせた番組を先月完成させたのを最後に、番組作りはおしまいにしました。
番組作りは楽しく、年をとるとともに伝えたいことも変化していくため、終わりがありません。でも自分の残りの時間を考えると、番組とは関係なく、心から目の前のことを楽しみたくなったんです。
今、畑を作って野菜作りに挑戦しています。きっかけは、「ダーウィンが来た!いちばん身近な生きもの!野菜大研究」を撮影するうえで、野菜の生態を知るために畑を借りて自分で野菜作りを始めたこと。食べるためというより観察用。ところがロケや仕事でほとんど世話ができませんでした。2か月~3か月間放っておいて、とっくに枯れてダメだろうなと恐る恐る畑に行ってみたら…。
なんとトマトが地べたに横たわった状態でたわわに実をつけているじゃありませんか!(普通は、トマトは支柱を立てて育てます)
何これ!?予想もしなかった結果でした。しかも生態系や土壌の変化なのか、年々、収穫できる野菜が増えていきました。そんな楽しさを、もっと追及したくなったんです。
番組作りをやめると決めたとき、やめたら、ひょっとしたら空っぽになってしまうんじゃないかと少し不安でした。番組を作っているあいだは、全力で番組のことを考えていて、朝起きるときにナレーションの台本を思いついて忘れないようあわててメモをしたり、夢の中で長期間撮影用にセットしているカメラが止まってしまい飛び起きたりすることもありました。
それほど、番組を作ることがすべてでした。
でも。
全然、空っぽになりませんでした。
新たに畑にしようとしている土地は、もともとは畑ではなく3年ほど放置していたため、至るところから勝手に木が生えています(やっぱり、木ってスゴイ)。その木にさらにヘビのようなつる性の木がガッツリからみついて、外そうにも外せない。とりあえず、うねを作ろうとスコップを入れたら、ガツンガツンと当たって、中から20㎝ほどの石がゴロゴロ出てきます。
いやー、たのしい!
つるなんて、全身で格闘しても、私がぶらさがってブランコできるくらい丈夫なんです!
思えば、自然番組のロケがどうしてそれほど好きだったかというと、思うようにいかないからです。普段の生活では、多くは、準備を万端にしてがんばればがんばるほど、(比較的)いい結果が出ます。でも、自然番組のロケは、どんなに一生懸命準備をしても、大雨が降れば太陽が好きな生きものは出てこないし、逆にいきなり目の前でスゴイことが起きたりすることもあります。
だから、先のことを考えてもしかたない。今日が撮れても撮れなくても、今、この瞬間の成果から、次はどうする、明日はどうする、最善の策、それだけを考えればいいんです。
まちの中にいると、自分の中で自分の存在がどんどん大きくなっていきます。うまくいかないのは自分の準備不足だと後ろ向きに考えたり、自分をよく見せようと相手の出方を待って態度を変えたり。
でもロケでは、そんなふうに貼り付けていたものがどんどんはがれ落ちてむき出しになっていきます。むき出しの自分で、なりふりかまわず、がむしゃらに目の前のことだけを考える。そうしなければ、必死で生きている生きものを相手にはできません。ものすごくシンプル。そういう毎日が大好きでした。
番組の中で、純さんがこう言います。
「目の前の植物をどれだけ楽しめるか。
植物を見る見方みたいなものを伝えられればいいなと思って、やってます」
番組では時間の都合で、ここまでしか入りませんでしたが、実際にはその後、私の質問がこう続きます。
私「ということは、なんでもいいんですか?」
純さん「そう、なんでもいいんです」
身近な植物でも、植物じゃなくても、なんでもいいんです。
目の前のことをどれだけ楽しめるか。
目の前にあるはずの楽しいことを、どれだけ見つけられるか。
この記事が、そんなささやかな楽しさを見つけるきっかけに、なってくれますように。
水沼 真澄
追伸
今朝また楽しいことを見つけました。
トイレに突如アリの列が出現していました。
この時期のアリは、幼虫の食べ物を探して行動範囲を広げるので、台所に進出したら大変!
たしかアリは輪ゴムのにおいが嫌いだと聞いたことがあるような。
あちこちに輪ゴムを置いてみました。
トイレにばらまかれた輪ゴム。
あした、効果があるかどうか。楽しみです!