「なぜ私は一続きの私であるのか」を読んで

書籍情報: http://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000315318

本書は、脳科学と哲学の領域を行き来しながら、著者が「なぜ私は一続きの私なのか?」という問いを考えていく、という内容です。本書では、まず、「私」というものが、どのように浮かび上がってくるのか、ということを、ベルクソンとカントの論説を用い、意識はどのように立ち上がるのか、ということを考えていきます。そして、「私」の一貫性をどのように成立させるのか、ということを、ベルクソン、ドゥルーズの論説を元に「私性」を検討してきます。

そもそも、「同じものが同じものである」ということは、どういうことなのか。これをベルクソンの「記憶」と「縮約」というキーワードから紐解いていきます。ベルクソンの第二の縮約が行われることで、カント的実体が成立します。この時、ベルクソンの第二の縮約を発生させるシナプスの反応は、一期一会的な反応ですが、出来事は、同じ出来事として反復されます。次に、「私」は、どのように立ち上がってくるのか、「私の体」と「私」の境界はどこにあるのか、ということを検討していきます。「体」は、オートポイエーシスという閉じた系ですが、「私」は外部とつながる開口部を持たなければいけない。世界、という、外部が存在することにより、「私」という存在が浮かび上がってくる、と、著者は指摘します。

ベルクソンの「記憶」と「縮約」、ドゥルーズの「差異」と「反復」という概念、脳科学の知見、症例などから、なぜ、私の一貫性が生じるのか、を見ていきます。「私」と「面前他者」との間で生じる往復運動、出来事の反復によって、ちっぽけな差異、変容を引き出しながら、内在平面と繋がること。その中で、私たちは、生きている、ということを示しています。

本書は、著者がまえがきで述べているように「暫定的な回答」の提示しています。であるから、読者が、自分は、著者の論説に対し、考えることが求められている、と思います。

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