「出逢いのあわい」を読んで

哲学者宮野さんによる「九鬼周造」の哲学を問いながら、「現実」を生きる「この私」の倫理を問い直す、という本です。九鬼周造の哲学を捉えるために、近代日本(明治〜昭和初期)の哲学の流れと西洋哲学の流れの中から位置づけを行なっていきます。九鬼の来歴を追いながら、西洋哲学の流れのなかで、九鬼の哲学がどのように位置づけられるのか、近代日本において、どのように哲学が受容されていったのか、どのような問題が哲学に問われた、その中で九鬼の哲学が、どのように展開していったのか、という日本の哲学と九鬼の哲学の関係を論じていきます。

九鬼の「偶然性の問題」を主軸に、九鬼の人間観、哲学を、西洋哲学(新カント派、ハイデガー、ハルトマン、など)の流れの中で、どのような差異があるのか、どのような点を参照しているのか、といった中に、どのように位置づけられるのか、ということを丁寧に整理していきます。このどこまでも愚直な、そして、徹底した九鬼の哲学の議論は、九鬼が哲学、論理に求めたものを明瞭に読者に見せていきます。個別の人生を生き、知性のある人間として普遍を求める「私」は、世をどのように生きるのか。哲学に託されたものを、この本を経由して汲み取っていく、それは、今、私たちの眼前にある問いを考える、ということを同じことなのではないか、と思いました。

論理を突き詰めて、九鬼が目指した存在論理学を形態と様相、現実と様相、そして、偶然性という面から議論を進めていきます。「存在しないことができたが、存在している」という偶然性が、その中で、どのように捉えられるのか、を見ていきます。そして、存在論理学の核心として「現実の生産点としての偶然性」を明らかにしていきます。この点について実存論、存在論からの批判、そして、それへの回答を見ていく中で、九鬼が重視したものを明かしていきます。

「遇うて空しく過ぐる勿れ」という九鬼の言葉を、どのように捉えるのか、九鬼哲学における運命とは何なのか。そのことが見えてきたときに、九鬼の哲学の語ることが分かってくると思います。偶然と出逢い、他者と関わり、善くあろうとする。その中で、「私の人生」は紡がれるのだろう、と感じました。


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