「食べることと出すこと」と読んで

文学紹介者頭木さんの実体験による「食べること」と「出すこと」についての本です。著者の祖父の唯一残っている音声から始まる「人間の活動の究極」としての「食べて出すこと」についての様々な見方。そして、そのことができなくなったら、という問題の提示。この切実でありながら、どこかユーモラスな問い。この問いを、潰瘍性大腸炎によって、当たり前にできなくなった著者の経験から描き出す、という一冊です。

治療のための1ヶ月以上にわたる絶食での著者の体験は、体験したことのある人にしか分からないことを淡々と綴りつつ、どこか面白く、そして、食べることができる私たちの当たり前に侵食してきます。食べられない、ということがもたらす飢えの感覚。これは、想像だけでいうと、胃や喉が何かを欲する飢えくらいしか出てきません。著者は、それだけではなく、顎と舌の飢えを挙げます。この、いわば、動物的ともいえる飢えの強烈さ。この経験しないことの分からなさ、というものが、本書では、何度も何度も出てきます。そして、食べることは、単に何かを食べる、ということだけを意味していない、ということを様々なエピソードとともに炙り出していきます。食べることが炙り出す、個人と現実、個人と他者、という食べることの繋がり。「当たり前」の扉の後ろには、食べることができる人と食べることに難しさを抱えた人との分かり合えなさ、その溝が隠れています。

出すこと、漏らすこと、そして、その結果としてどうなったかを述べていく後半は、人と病気、病気と人、という関係の難しさが描かれています。このどうしようもなさが読んでいて、とても切なくなりました。分からないものを理解できないため、周囲とすれ違う。私たちが望む希望と、病者の現実。このすれ違いの中で生まれる孤独。分からない、という実感、想像すらできないが故に分からない。分からない、ということに耐え切れないが故に、わかりやすいイメージに陥る。この周囲の態度の結果のすれ違い。どちらの立場も著者はじっくりと丁寧に見ていきます。ここには、お互いの分かり合えなさを埋めるための、いわば「ためらい」というものを感じます。

本書で最もドキリとさせられたのは、本書の最後で語られていた言葉です。「見えない人」という言葉は、それまで読み進めていた手を止めるほど、ドキリとさせられました。私たちは、見なければいけない。その想像力のなさを最後に指摘された思いがしました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?