己との戦い。普通の壁と、葛藤のその先。
今までの私との葛藤は思考との戦いだった。
幼い頃の、ちゃんとしなきゃという想いから生まれた社会に合わせるための私という鎧。
それは、社会で求められる存在とは何か?何をしないといけない?何が完璧と常に私を監視して、そうでないときは、怒鳴る。まさにモラハラの塊のような鎧だった。
モラハラは、社会の中での普通を考えて編み出されているから、思考で勝てばぐうの音も出ない。
モラハラをする時点で負けている。わざわざするのは隠したい何かがあるから。
私の話ではあるけれど、きっと全国で展開されるモラハラも似てるんだろうな。
私の中のモラハラちゃんに、やっと思考で勝つことができた。
そうやって、鎧を諦めさせて、やっと鎧から解放された!終わり!かなと思ったら終わってなくて。
モラハラちゃんが寝静まった後もまだ思考の中にいた。
あれこれやらなきゃという想いがずっとあった。
なんでかなと思って深掘りしたら、小学生の私が怯えてた。
学校で怒られたら、そこにいちゃいけない感じがして悲しいから怒られないようにちゃんとしなきゃ。
家で怒られても居場所がなくなって悲しくなるから、おこられないように私は静かにしてなくちゃ。
そうやって、しつこいモラハラちゃんは私が悪さをしないように私をすごい力で抑え込んでた。
今日はたまたまヨガをして弛む体験をした。
そしたら、何年ぶりかわからないくらい久しぶりにリラックスしたことで、怯えてた私が見えて、その子とお話しをした。
そしたら、ちゃんとしなきゃって頑張ってた。
手を繋ぐイメージをして、そばにいてあげた。
そのうち落ち着いた。
その時、私は、感覚だけで言葉が出てくることにビックリした。
普通の人はたぶん、当たり前すぎて気づいていないことができるようになった。
なんでみんな、日常会話してるんだろうっていつも思ってた。
それは、感覚でなんも考えずに話してるから軽くて楽しい。
私が見よう見まねでやってたのは、思考して会話すること。
だから、いつもコンマ何秒か返答が遅れるし、気持ちの良いキャッチボールはできないし、何を話していいかわからなくなったりしてた。
考えてるから。思考してたから。
なんというか、普通の人までの道のりが長かった。
感覚でのらりくらりと生きる人たちに憧れてた。
こんなに軽いんだね。
何にも考えなくていいんだ。
感覚に身を任せたら、言葉って湧き出てくるものなんだ。
誰も聞いてくれないから抑え込んでたけど、考えて言う必要なんかなかった。
そもそも私優しいし。
何をそんな思い詰めてたんだろうって、あっさり思えてしまう。
思考を終わらせるのって大変だったな。
いっつもどっちが正しいとか完璧かとか気にして、心がなかった。
明日以降もこの感覚で生きていけるのかは知らないけれど、もうこの感覚を味わったら戻れないよね。
小学生か幼稚園くらいに自分に対して始めたモラハラは、20年くらいかけてやっと終わらせることができるのでした。
この自分が自分にするモラハラを終わらせられなかった人は、もれなく愛着障害とか鬱とか適応障害とか、何かしらの精神疾患にかかるんだろうって思った。
自分の想いが強すぎて、思考でねじ伏せられた自分が壊れちゃうんだ。
なんていうか、大変だったな。ほんと。
生きているうちに思考を書き換えるのは誰でもできるわけじゃないって思うと、よく頑張ったなって思う。
自分と葛藤する人に言えるのは、諦めないこと。
やり方は色々あるけれど、常に正しい努力をしないことには辿り着けない。
HSPだからとか、なんとか障害だから、鬱だから。
診断を受けたりしてそこで休んだら、先に行く。
それができる?
それで終わりにしないことができる?
もう無理だ、どうせ私なんかという絶望の中であっても歩き続けられる?
何かよくわからないけれど、このままは嫌だって思い続けられる?
そのくらい、自分を超えるってことは大変。
でも、難しいかというとそうでもなかった気がする。
なんでもそうなんだろうな。
やってるうちに辿り着く。
考えてないで、やれ。手を動かせ。
正論なんだけど、やってらんない。
だけど、1年前にやめたけどまたやってみる。
三日坊主でやめちゃったけど、またやってみる。それでも嫌になったけど、3年後にまたやってみる。
その繰り返しだった。
私は、諦めないというか、こだわりだった。
こんなはずじゃない‼︎っていうことにこだわってた。
自分と葛藤できるってことは、もう、その才能があるよ。
自分の中のルールとルールが戦ってるんだ。
どっちかが諦めるまで終わらない戦い。
葛藤しているなら、大丈夫。
どこかで、どちらかが折れて先が見えるから。
精神を病んで苦しいなら、大丈夫。
どこかで、自分の想いが戦ってるから。
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