「中学、高校、大学と漫画」 エドワード・ヤン ロングインタビュー 2(楊德昌訪問錄)
台湾の映画評論家、黃建業の著作「楊德昌電影研究(1995年)」に収録されているエドワード・ヤンのロングインタビューの翻訳です。第2章は中学からアメリカ留学まで。青春時代の苦い思い出から後の創作に影響を与えた人物等、瑞々しい記憶をたどるエピソードが満載です。
「中学、高校、大学と漫画」
-中学から高校にかけて何か大きな変化はあった?
高校進学は小学生の頃の転校の状況によく似ていた。僕の家庭環境は教師達には到底理解できなかったから中学ではすごく誤解されていた。僕はやりたい事はなんでもやって自分の個性も自由に発揮した。家族も僕のことなんか気にも留めなかった。授業中も漫画を描いて回し読みがバレて罰則を受けたり。家の中でも同じさ。勉強の時間も本の上にストーリーを描いてたんだけど、問題は僕がよく「吹き替え」をやること。絵を描くのに夢中になるとセリフや効果音が自然と口から出ちゃうから、昼寝中の父を起こしてしまっても気づかない。世界は小さすぎたから自分を楽しませる工夫が必要だった。
-いつもお兄さんと遊んでいたの?
最初の頃はね。中学に入学した兄は成長が早かったけど、僕は遅くて。すぐ世界が変わっちゃった。大学生になるとまた仲良くなったけど。中学生活は教師との矛盾した関係に終始していた。互いの個性の矛盾とでも言えばいいかな。だから中学三年の頃は大きな正念場だった。ある教師はあからさまに僕が気に食わない様子で、ほとんど虐待と言ってもいいくらいに毎日矯正しようとしたんだ。今思えば彼に必要だったのは心のケアだったんだよ。だから僕も人間不信に陥ってしまって。高校に進学して幸い素晴らしい教師や同級生に巡り会えたけど、もしあの状況がずっと続いていたら、僕の少年時代はずっと不幸だったに違いない。いつも僕に突っかかってきて、昼食の時なんか弁当をわざわざ僕の前に持ってきて座って反省文を書かせようとしたり。僕が断固として書かないもんだから悪循環になって。自分のメンツにかけて絶対に生徒の前で僕を屈服させたかったみたいだね。どうやっても結局無駄だったけど。1学期はずっとそんな調子だった。
-それはいつ頃からはじまった?
何かと理由をつけて当て付けにされたんだ。僕が女性教師をからかっていたのを同級生が告げ口したことがきっかけだった。それから「お前はなんてつまらない奴なんだ」って。あの苦難から逃れられたことには本当に感謝しているよ。実はその教師を2年前に偶然見かけたんだけど…、僕の作り上げてきたものをどう思っているか本当に問いただしてやりたかったよ。「ようやく自分がいかに狂っていたのかわかっただろ?まだ僕のことを頭のおかしい奴だって思っているのかもしれないけど、どう考えても狂っていたのは自分じゃないか?」って。あんな環境に置かれたら、誰でもそう思うに違いないよ。
-高校の頃好きだった科目は?
特別これといったものは無いな。
-まあ、でも環境は良かった。
学習環境は良かった。高校三年間を過ごした建中(建國高級中學)の校風は素晴らしくて僕の性格にもぴったりだった。とても放任的で好きなようにやらせてくれたし、あの三年間のおかげで人を信じる心を取り戻せた。中学の頃はずっとプレッシャーがあった。誰でもそんな経験はあると思うし、もっと不幸な境遇だったり、認識を改めることができる環境に恵まれない人もいるだろう。自由で常にリラックスしていたし、成績優秀でなくてもプレッシャーを感じる必要もなかった。課外活動だって肯定も否定もされない。とても大きな変化だった。音楽に関して言えば、一年の時に吹奏楽隊に入部した。実は朝礼の国旗掲揚をやりたくなかったからだけどね。楽隊の中には何人か仲の良い先輩がいたんだけど、その中の一人は「牯嶺街」の楽隊のシーンにも参加していて、今でも台中で楽隊を率いているよ。彼らは生活の全てを音楽に捧げているといった感じの真面目な連中だったけど、真剣に取り組むことの楽しさを教えてくれた。ちゃんと音楽を理解したのは楽隊の活動からだったんだ。自分から何かをやろうとする気持ちだったり、コンサートに感動したり…。その前は流行のポップスしか聞いてなかったけど、そこからクラシックをはじめ多種多様な音楽を聴くようになった。今でもたくさん聞いてるよ。ディスコ以外はね。僕に言わせればあれは音楽とは言えないな笑
-大学でも漫画を描いていた?
人に見せたりはしなかったけどね。課題が終われば、アイデアを練って描いていたよ。
-それは長編?
完成した長編はなかった。出版しようとかは考えてなかったし。ますますのめり込んでいたから他人に見せるのも惜しかった。見るからに手塚治虫の影響が明らかだったけど、そこに映画を観て培った経験が繋がってきた。それと後は…
-絵コンテだね!
そう!もちろん、絵コンテに限らずストーリーにしても感動するポイントも変化してきて悲劇的な部分によりフォーカスするようになった。生活の中で感じる言葉にならないもどかしさだったり、誰もが心の奥にしまっているセンチメンタルな感情だね。
-大学は国立交通大学を受験したんだよね?
めでたく合格したよ!
-本当は行きたくなかった?
本当は建築系志望だったんだけどね。中学の頃から興味があったし理工系専攻で成績もよかったけど、自分に向いてるのは建築ぐらいだと思っていた。
-それは絵を描くことと関係があった?
そうだね!ちょうど貝聿銘(イオ・ミン・ペイ)が注目された頃で、彼の活躍には励まされたよ。今思い返せば、建築を勉強すれば家族にも認められるかも、という気持ちもあったかもしれない。映画や小説は無理だと思っていた。父は絵を描くのが好きだったけど、漫画は一切認めない人だった。苦労人だったせいもあって漫画はただの娯楽だと考えていたんだ。僕は小学生の頃からしつけの一環で学校から連れてきた美術教師に絵を習わされた。それも全部父が用意したんだ。伝統的な絵のレッスンで、水彩も油絵も、デッサンも。当然どれも長続きはしなかった。書画もやらされたよ。一日何個書けとか、古文を何個暗記しろとかね。いつも中国の伝統文化ばかりしつけられて、倫理的な教育は少なかった。学歴もない父はいつも自分が不幸な人間だと思っていた。祖父の代はみんな勉強家だったけど、40になるまでアヘンを吸っていたから台無しにしてしまって。だから父はその二の舞になりたくない一心で仕事のかたわらでもいつも勉強していた。英語を始めたかと思えば突然中国語を勉強したり。特に中国語の基礎は絶対に必要だと考えていたみたいだ。10歳の誕生日の翌日、古文の本を一式もらったけど、それも父が僕に教えるためだった。父の決意は相当なものだったから、僕らは苦労したよ。
-自分自身は古典は好きではなかった?
強制だと感じていたよ。大学である教師に出会うまではね。大学に入るまでずっと嫌いだった。成績優秀だったかって?高校なんて「53人中45番」で卒業だから優秀なわけないよ。合格発表はみんな喜んでたけど僕は違った。でも凄く素晴らしい国語の教師に出会って。当時の社会の常識なんてひどいものでね。彼は中国から泳いで香港に亡命して台湾に渡って来た人だったんだけど、最初は大学の仕事のアテもなくて、喘息に効く先祖代々の秘伝があったとかで…、薬を売って暮らそうとしたらしいよ。でも交大は当時国語をあまり重視していなかったせいもあって、学がないことも隠してホラを吹いたら、1クラスだけ授業を受け持てたんだ。1年生は3クラスあって、2つは立法委員が担当するような優秀組で、落ちこぼれ組だった僕らのクラスがその共産ゲリラに任された笑。彼が来た初日にちょっと違うと感じたんだ。その頃はどんな文学だろうと僕にはプレッシャーそのものだったんだけど、彼は開口一番「孔孟なんてもう十分だろう」って言ったんだ。当時はどの大学だって「四書」を買わされたものだけど「そんなものは全部捨ててしまえ。中国は勿論、中国以外のことも教えるが、君たちは中文系ではないから常識として少し知っていればいい」と言われて、その後は儒教以外の中国思想をたくさん教わったんだ。法家に始まり、道家、墨子、鬼谷子…。面白かったなあ。儒教作家の一番ダメなところはアイロニーがないこと。他の諸子百家はどれもアイロニーがある。ある人はアイロニーはヨーロッパが起源だというけど、僕は違うと思うな。彼の道家の授業は自由奔放で完全に儒家の教えを論破していたね。それまで作文も小学校から高校に至るまで起承転結のルールに沿った古臭いものを教えられていたから、授業でもそんな感じで書いたら全部「丙」で。一年の後半の授業は思いつくままにめちゃくちゃに書いたら今度は「甲」だった!「文章はなかなか悪くない」と彼の論評をもらってから自信が出てきた。そのとき僕は今までの作文のルールをすべて捨てたんだ。この経験がとても重要だった。ある時、「能者作智,愚者守焉(※能ある者は智を築く、愚かな者はこれを守る)」と彼が書いたんだ。「見たことないのか?管仲の言葉だ。覚えておけ」って。影響はとても大きいよ。
-制御工学の学部に進んでからはどんな感じだった?
実は1年の時に休学しようと思っていた。先行きもよく分からなくなって八方塞がりだと感じていたから。家族やガールフレンドからも意見をもらったけど、2年になってもプレッシャーから抜け出せなかった。ちょっとした精神崩壊状態だったけど、なんとかして古臭い意見に縛られてた状況を自力で突破しなければならなかった。納得できない事はとことんやり尽くして、みんなが三時間でやることも三日かけてやった。絵が好きな人間がやる事じゃないっていつも感じてたんだけど、2年になると課題に大きな変化があった。電機系統への関心は一向に湧く気配がなかったけど、それでも自分自身に対する自信だけは高まって、3年になってようやく自分と格闘する日々も終わって、ようやくまともな学生になれたんだ。
-中学から大学にかけての恋愛関係では現実的になにか障害があった?
実際、女の子達は僕のことは非現実的で、映画やファンタジーの世界に住んでいると思っていたんじゃないかな。今だってそれは同じかもしれない。
-クラスメートとの関係は?
振り返ってみると、僕の人生は幸運にも多くの素晴らしい友人に恵まれていた。救いの手を差し伸べよう、とかは思ってもいなかっただろうけど、彼らのお陰で壁を乗り越えられたし、いつも大きな啓示を与えてくれた。僕は何事も「誠」と「真」が非常に重要だと信じているけど、長い人生の道のりには「真」が最も重要だと思う。年に一度会うか会わないか、時々電話をかけるだけの間柄だとしても人生の恩人だよ。あまり実用的でも具体的でないとしても、精神的な支えは誠実な友情からしか生まれないんだ。
-自分から海外へ行くことを望んだ?
海外移住は完全に僕自身の考えだった。当時は台湾からは海外のあらゆる状況が理解できなかった。まだまだ壁が高かった。壁の向こうから銅鑼や太鼓の音は聴こえるのにね。外から来た人の話は何もかも知らない事ばかりだったから本当に行きたいと思ったんだ。それに独立したいという気持ちもあった。60年代のロック、映画、ポップアート、オプアート、建築、思想やカルチャー、僕らが見ることができたのはどれもその断片ばかりで、切り取られたり、誤読されていたり、ほら話やデタラメの類もあった。それを鵜呑みにした連中が我こそがアートや文芸の担い手だと勘違いしていたんだ。だから僕は真実を知りたかったんだ。
-小説は読んでいた?
数は少なかったけど、夏休みにはいつも分厚い小説を一冊読んでいた。これもまた陳乃超(チェン・ナイチャオ ※前述の大学の国語教師)の影響だ。大学1年の夏休みに「ドクトル・ジバゴ」を読んだのは、もちろんデビッド・リーンがちょうど映画を撮影していたから。毎日2、3ページずつ、僕は読むのがとても遅かったし、文字を画像として想像して理解する必要があった。文字から理解できる事はいつも部分的だった。誰かに説明するときもまずイメージに変換して、次にそのイメージを説明する、といった感じ。そこで初めて他者に伝えることができる。子供の頃にずっと絵を書いていたことと関係があるかも。
-60年代の全体的な印象はどう?
現在の基準からみれば自由奔放すぎるしドラッグやその他にも色々…問題も多いけど、それでも僕は60年代のカルチャーを肯定的に捉えているし、人類が最も自信を満ち溢れていた時代だったと思う。60年代の状況は言うならば19世紀末と同じで、19世紀末に印象派が誕生したのも人類が自信を持つようになったからだ。潜在意識では既に神の信仰から離脱していたんじゃないかな。人間と自然界の間に神を媒介とせず、自分で見たものそのものを信じるようになったから、自然のまま描くことができたんだ。60年代の精神もそんな状況にとても似ているけど、戦乱で人間はその自信をまた喪失してしまった。僕も出国を決意したけど、外省人の遷都の歴史で5、60年代のアメリカ留学とは、戦争のない天国の様な世界、かつての悪夢が全て消失した場所に行くことだったんだ。こういうことを言うと欧米崇拝だと言われるかもしれないが、そんなことは二の次さ。僕らは400年の歴史のなかで一度も安泰に暮らせた時などなかったんだから、そんな場所からはできるだけ早く逃げなきゃ。これは中国の政権に対する世論からも明らかだし、崇拝だなんだと批判する前に、まず自分たちが反省しないとね。