「いろいろ薬とそっくり薬」 エドワード・ヤン(顏色藥水和一樣藥 楊德昌)
エドワード・ヤンの回想録的エッセイ「顏色藥水和一樣藥」の翻訳です。初出は台湾の日刊新聞「中国時報」の「人間副刊 (1989年)」。後に「牯嶺街少年殺人事件」公開に合わせて出版された「楊德昌電影筆記 notebook on my new film(時報文化出版:1991年)」、「楊德昌的電影世界:從《光陰的故事》到《一一》(時報文化出版:2012年)」に再収録されましたが現在はどちらも絶版となっています。
僕が五歳の時の話だ。七歳の兄が突然一冊のノートを僕に手渡した。表紙に色とりどりの色鉛筆で「顏色藥水和一樣藥(いろいろ薬とそっくり薬)」と書かれたそのノートを1ページずつめくり、思わず僕は瞠目した。それは兄が自分で描いたマンガだった。とある天才少年が発明した二種類の薬、注射するとなんでも自在に色に変えることができる「顏色藥水(いろいろ薬)」と、人間を別人の複製に変えてしまう「一樣藥(そっくり薬)」の話で、少年はこの二つの薬を巧みに使い、悪党にさらわれた友達を救い出す。「いろいろ薬」で草むらに身を隠してアジトに忍び込み、その身を追われると悪党達を恐れていた人々を「そっくり薬」で警察官に変身させて一網打尽にしてしまう。またある時は、バスケットボールの国際大会。薬の力を借りた中華民国チームが、ユニフォームの色を変えて試合を混乱させたかと思えば、霍劍平の身長、陳祖烈の神業、賴連光のジャンプ力へと変身。あの頃は誰もが欧米チームを打ち負かすことだけを願っていた。
これが僕の最も古い記憶で、僕とマンガの話の始まりでもある。ちょうど総統府前の「三軍球場(バスケットコート)」の屋根が増築された頃で、木造の黒くてだだっ広い軍隊の建物、という感じだったが、雨に降られず観戦できる様になった瑞々しさは今でも忘れ難い。とにかく兄の突然の「発明」のおかげで、僕らはくだらないアイデアをむやみやたらに塗り描きする様になり、退屈な少年時代を過ごさずに済んだのだ。僕ら兄弟が編み出した空想は一つの共通の世界だと信じて止まなかった。まるで頭の中に秘密の通り道があるような気がして、僕はより成熟した想像力を持っていた兄の世界に直接入り込むことができた。そんな以心伝心の感覚はこれ以来出会ったことがない。
10歳になる頃、兄は古文を勉強し始めた。古文の習得は父親の執心で、兄も身を弁えなければならない時期にさしかかっていた。そして秘密の通り道もだんだんと消えてしまった。兄の中学受験で僕に対する父親のプレッシャーは俄然兄より大きくなると悟った。兄が中学に合格すると兄の描くマンガが鬱陶しく思えてきた。その頃バスケットボールしか頭になかった兄は、試合の場面だったり、様々なディフェンスポーズをとる身長6.8~9フィートの選手ばかり描いていた。鉛筆の先から思いの丈が溢れていた。絵を描くことも徐々に減り、帰宅時間はますます遅くなり、家に戻っても満身創痍の様相だった。高校1年になると兄はチームに入り、マンガの中の夢は晴れて現実となった。兄がその後マンガの世界に戻ることはなかった。
三軍球場は兄が中学三年の頃、建材の関係だったか、そんな理由で使用停止になり取り壊されてしまった。デコボコのセメントのコートで育った僕たちの様な少年にとって、それは夢の終わりを意味していた。その後も試合は南昌街の公賣局球場で引き続き行われたが、そこには「四國五強」の頃の国民的熱狂はなかった。兄の最初の高校大会を観戦した時も公賣局球場で、真っ赤な血の色のユニフォームを覚えている。伝統的な色だったが、それは「いろいろ薬とそっくり薬」のストーリーを思い起こさせた。
その前後10年くらいの間の話だ。
夏には乱反射した窓の光が部屋の中に差し込み、朝から晩まで歌謡曲が流れる果物屋台のラジオの音が、午後の雨の湿気を運んでくる。冬になれば、あっという間に日が暮れ暗くなり、練炭の煙が昇る頃には一つずつ申し合わせたかの様に通りの明かりが灯る。そうだ、子供の頃の祝日を待っていた、あの気持ちだ。
作泉基は兄が最も好きだった本省人の漫画家だ。彼は「學友」誌に「給路流浪記」を連載していて、僕らは「給路」への同情と悲哀を胸に毎号それを心待ちにしていた。その後、月刊漫画雑誌「東方少年」に突如として手塚治虫の紹介記事が登場した。もちろん当時は「火の鳥」「緑色の猫」「ブラックジャック」「三つ目が通る」「黒い峡谷」等の作品群が、この一人の日本人の手で描かれるとは知る由もなかった。
だいたい僕は常にマンガは動的な表現と思っていたので、それを静的で平面的と見なすことはなかった。映画を理解するようになり、それが僕に何を与えたかといえば…音だろう。絵を見る、そして口の中で模倣した音を聴く、この両者の組み合わせがフィクションの世界にリアリティをもたらすのだ。
八二三炮戰が突然始まり、家の周りも好戦ムードに包まれていた。若者達は入隊準備を始め、夜は隣近所もよく討論を交わしていた。僕が戦闘機の音に興味を持ち出したのもこの頃だ。毎日頭上を飛び交う様々な戦闘機の姿は、まるでオモチャのようで、突如として空を騒がすその音は、僕たちに挨拶でもしている様だった。友人の老文(ラオウェン)の兄は特に戦闘機が好きで、よく僕たちを引き連れ機種を教えてくれた。鉛筆を持てば自ずと戦闘機や空中戦を描いたりした。ミグは描くのが簡単だ。セイバーは機首が難しかったが、練習の末に達人になった。ジェットの音もだんだん熟知する様になり、遠くの方から聞こえたら、僕も老文も姿を見る前にどの機体かすぐに当ててしまうほどだった。F104戦闘機が初めて頭上に姿を現したとき、僕らはとても興奮した。僕にとってそれは「反攻大陸」の自信に満ち溢れた一瞬だった。音を聞いただけで、今まで見たことがない新しい機体だとすぐに気づいた。 庭に飛び出し空を見上げると…新しく描かれた二つの国章を携え優雅に舞う雄姿があった。
八七水災の日は突然大雨が降ったがすぐに晴れ間が差し、雨が降ったことなど皆忘れてしまった様だった。夜になって南部の出張から帰ってきた父の友人が「西螺大橋が見えなくなっていた」と言っていた。
何日かたつと物価が高騰し、両親は何を節約すべきか話し合う様になった。新聞には衛生署の予防接種の記事。その時ようやく事の重大さに気づいた。
葉宏甲の「諺葛四郎」「真平」、「龍劍」に「鳳劍」、センセーショナルな熱狂の渦が瞬く間にして全国の子供に広がった。
一番幸せな時代だった。想像してみてほしい、台湾全土の子供達が皆正義は勝つと信じ、夢の中で同じスーパーヒーローの姿を思い描いている姿を!
街角の雑貨店。木曜日の早朝は「漫畫大王」を子供達が列をなして回し読みをしていた。のちに「漫畫週刊」になったこの雑誌は、一回5角(0.5元)で借りて、一冊3元5角で買えた。マンガの流行は勢いを増し、続々と創刊された新しい雑誌が店先を埋めた。「諸葛四郎」はまさに無敵だった!賑やかな朝の市場。牛車や竹かご、青い判が押された大きな豚肉の塊、野菜と生肉が混じりあった独特の臭い、相も変わらずラジオの歌謡曲。香港の「國際電影」誌は主婦や年頃の女子の必読書、皆のファッション指南書だった。多くの果物屋はアイスパーラーに改装され、かき氷店もたくさん見かける様になった。 家の隣にあったパーラー「黃閣」の名前は忘れもしない。おしゃれな若者達は皆「黃閣」に出入りしていた。ベルボトム、ピンヒール、 ショートカットは学生、お団子頭は退学生、タイトな服やスカート、ヘップバーンヘアの女の子、もちろん当時の物質条件は何かもかも理想的ではなかったが、小さな変化や潮流が至るところに溢れていた。
夜になると人気もなくなり、9時を過ぎる頃には台北は静まり返っていた。バイクもない、時折ワンタン屋台の売り声か盲人按摩の笛の音が、凍えついた線の上に印を打つ様に聞こえる。討ち入りする不良集団の叫び声を何度か聴いた覚えがある。足音と聴き取れない罵詈雑言、そしていつもの静寂が戻り夜明けがやってくる。
「リオ・ブラボー」は傑作映画だった。一足先に観た阿中(アヂョン)が興奮冷めやらぬまま家にやってきて、まくし立てるあらすじを皆で聞いた。ジョン・ウェイン、ディーン・マーティン、リッキー・ネルソン、カッコよかったなぁ!主題曲は世界的に大ヒットし、後の「ヒーロー映画」の基礎を作った。西武劇の絵を描く上で一番難しいのは拳銃だ。あの独特なカーブを描くのが難しい。これが描けないと拳銃の腕前だってまるでサマにならない感じになってしまう。僕は高校生になってやっとその感覚を掴んだ。
もう一つ、簡単な様で見えて実は難しいのがヘルメット。全然要領を得ないで描いたら、兵士の頭に痰壺でも載せてるみたいだ。ドイツ軍、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍、ソ連軍、フランス軍、どれも全く違うんだよ!
小さな頃から武器は僕らにとってとても身近なものだった。学生の頃は、秋になると毎年軍事パレードのための宿舎として貸し出される校舎を見てきた。学校の周りは見渡す限りの戦車でいっぱいになり、祝日に大きなおもちゃのプレゼントがやってきた様な気分だった。初めて戦車の砲身を覗いて見たライフリングの螺旋。今でもあの感覚をはっきりと覚えている。
人気低迷の「漫畫週刊」に取って代わって現れたのが「模範少年」誌だ。「呂四娘」に「方世玉」、「地球先鋒號」は比較的印象に残っているが、「諸葛四郎」の頃の盛り上がりはどんなマンガも取り戻せなかった。僕は中学生になった。自分では大人だと思っていても大人達からすればまだ子供だったあの頃。親と西門町を歩けば顔が立たないと思っていたあの頃。武侠的なロマンで満ちていたあの頃。台北で中学時代を過ごした僕らにとって、あの頃は群雄四起、縄張り争い、ならず者達の戦国時代そのものだった。僕たちの周りには、姿は知らずともあだ名と武勇伝だけは誰でも知っている、そんな話がいつも蔓延っていた。 マンガの中の狂想がいつのまにか現実にまで広がっていた…。
阿中はマジメなやつだったから、武俠小説よりマンガや映画を見るのが好きで、時々彼が考えた話に僕が絵をつけたりした。中学一年の頃、阿中は近所の不良仲間に加わった。肝の据わったやつだと認められて、後に彼のニックネームは地元の不良グループの名前にまでなった。武俠小説の登場人物さながら、台北で彼の名前を知らない人は誰もいなかった。ある出来事を機に阿中とは全く顔を合わさなくなってしまったが、25年経った2年前のある日、立派にビジネスマンとして大出世していることを知った。「いろいろ薬」では染まらなかったあいつも、結局は「そっくり薬」で作られた一人だったのかな。
10年後のある日、「公賣局露天球場」での高校男子自由杯の決勝戦、兄の所属するチームが僕の通う中学の高等部に競り勝った。失望のあまり静まりかえっていた同級生達は、かの有名な黒いユニフォームの一群が退場する姿を言葉もなく眺めていた。すると突然、観覧席の男子生徒がどんちゃん騒ぎを始めた。次の決勝戦を戦う女子チームがやってきたのだ。初夏の日暮れの微かな風がチェーンで吊り下げられた天井の照明を揺らしていた。学生鞄を背負い、背丈のすらっと伸びた女の子達がボールをあしらいながらコートを走っている。緑色のユニフォームのその一群の中に、12歳になった小学校の同級生の姿を見つけた。男子生徒がわざとらしく口笛を鳴らしたり、声をあげて足を鳴らしたりするなか、耳元で切り揃えた短い髪に風を受け、軽い肩慣らしを終えたばかりの彼女が自信に満ち溢れた眩しい微笑みを浮かべる姿を見た。
こんな風にして僕も「大人への一歩」を踏み出した。
バスケットボール、マンガ、映画等々…そして女の子が加わり、放課後の時間配分は自ずと新しい変化と組み合わせを生み出した。でもその配分も結局は経済的事情には逆らえなかった。映画はいつもお金がかかり、マンガはもっと経済的、バスケは息をするのと同じでお金がかからない。先生や親はこんなことは全て取るに足らないものだと考えていた。時間潰しの娯楽だとか、僕は今でもそんな考え方には賛同しない。麻雀を打つことと全く違うのは、そこにはいつも夢や憧れがあり、もう一つの美しい世界を信じる心、期待、そして心の拠り所があることだ。誰もが自分だけの時間や空間を持っている。欧米人に言わせれば「隱私(プライバシー)」だが、僕らはそれを「内在(内なるもの)」と呼ぶ。それはか弱い心の奥底にあり、思いつきの「いろいろ薬」も無理強いの「そっくり藥」も、この内なる世界をより美しく魅せるための手がかりとやり口だ。 選択の中に法則を、単調の中に変化を見つけ、僕たち一人一人が心の中で美しい一幅の絵を描き上げる時を待ち望んでいる。
そう、やっぱり兄は天才だったんだ。