「少年時代」 エドワード・ヤン ロングインタビュー 1(楊德昌訪問錄)
台湾の映画評論家、黃建業の著作「楊德昌電影研究(1995年)」に収録されているエドワード・ヤンのロングインタビューの翻訳です。幼少期から当時の最新作「獨立時代(邦題:エドワード・ヤンの恋愛時代)」までを監督自身が語っています。今回はこの全11章に渡るインタビューの第1章、中国から海を渡り台湾にやってきた両親にまつわる記憶〜幼き日々の思い出を語った「少年時代」編を掲載します。前回掲載した拙訳「いろいろ薬とそっくり薬」と合わせて「牯嶺街少年殺人事件」の原風景が窺える内容となっています。
少年時代
-台湾に来たのは何歳の時?
1歳半だね。民国38年(1949年)の二月の春節のころだったかな。両親は公務員で、父は中央印刷所、母は中央信託局で働いていたからその関係で台湾に来たんだ。
-台湾に来た後も同じ職に就いていたの?
二人とも異動になったよ。まず父が先に。母も職場丸ごと異動になった。
元々何か長期的な展望があったわけではなかったんだと思う。
-子供の頃の台湾の印象はどうだった?台北のどの辺りに住んでいた?
城中区と大安区の境のあたり。向かいは大安区で、僕らの家は城中区側。※眷村(けんそん)とは関わりがなかった。あの界隈とは学校に上がってからだね。台北は行政機関がたくさんあったから、公務員や教師の家の子ばかりだった。その点は他の都市とは違うね。
(※訳注)眷村:国共内戦後に台湾に移り住んだ国民党政府の軍人やその家族が住む集落。「牯嶺街少年殺人事件」ではヒロインの小明、山東の率いる不良グループ「217太保幫」が眷村に住む台湾外省人として描かれている。
-眷村の人たちとは何が違うと思った?
まず家庭環境が違う。公務員や教師の家庭とは全く違うよ。誰も口には出さないけどね。
-小学校は家の近所だった?
何度も転校したんだ。最初の幼稚園は家のすぐ近くで、その後「國語實小幼稚園」に移って、そのまま付属の小学校に進学した。でも母は小学校の課題が適当だったのがあまり気に入ってなくて、転校させたいと思っていた。それで女師附小(現:臺北市立大學附設實驗國民小學)にまた転校して。みんな僕の事は落ちこぼれだと思っていたみたいだけど、転校してから猛勉強して突然優等生になっちゃった。まさに「孟母三遷」の教えだね笑
-子供の頃好きだったものは?
子供の頃はとにかく漫画。一番最初の記憶もやっぱり絵を描いてるところだな。兄も絵を描くのが好きだったから、その頃から一緒に描いていたよ。もう一つは映画だけど、それは父が映画好きだったから。その頃はハリウッド映画ばかりで中国語の映画はほとんどなかったね。中国語の映画は小学校に上がってから。ショウ・ブラザーズや國際電影が出てきたのが民国45年(1956年)頃かな、あの辺の初期の映画ははっきり覚えているよ。
-「地上より永遠に」は覚えている?
覚えているよ!小学校1年の頃だな。冤罪を被って最後は海辺で自死するんだよね…。あれは印象深いね。当時、父の周りには何人か研修生がいたんだけど、彼らは亡命してきた学生で、孤児の人もいたのかな。その中によく映画を観に行っている人がいて、時々父が僕を連れていくように声をかけるから、一緒に観に行っては彼の講釈なんかをみんなで聞いたりしたよ。
-無声映画は?
その頃はもう字幕付きだったな。最初はスクリーンの端に投射していて、その後、下に焼き付けた字幕になった。
-子供の頃の家族関係についてに聞かせてくれる?
僕は社会に出て初めて自分の家庭の特異性を発見したんだ。例えば親戚がいないとか…、僕の家族には中国人然とした密な人間関係が全くなかった。母は全然親戚がいなくて、父は叔父が一人いるだけだった。中国の伝統的な社会構成から離れて孤立していたから、当然その手の束縛もなかったね。だから僕も人間関係はシンプルな方が付き合いやすい。上下関係なんかは今でも苦手だな…。今思い返すと、家庭環境はとても単純だった。父と母と兄と妹だけ。両親は中国伝統の社会ではかなり特殊な人だった。父は広東省、母は河北省出身で、二人とも戦乱の中で家族と離れ、暮らし向きも相当苦しかったようだ。母は長女、父は長男で二人とも生活と仕事のために田舎から出てきた人だ。仕事と勉強を掛け持ちして、お金もみんな実家に送っていたらしいしね。
-二人がどこで知り合ったか知っている?
きっかけは戦争だよ。父は仕事の都合で梅県から広州に出てきたんだけど、香港の方が景気がいいと聞きつけて結局3年ほど香港に住んで働いていたらしい。その次は上海だって聞いて上海に移って。上海の頃は20歳ぐらいだったはず。15歳で家を出たからね。上海に着いてすぐ戦争が始まったから職場も散り散りになって、結局重慶に移ったらしい。母は河北での生活が苦しかったから、漢口の親戚を頼って中央信託局に入った。その後重慶に移ってそこで父と知り合ったみたいだ。二人とも10代でもう親元を離れたんだ。
-だから台湾でも親戚が少なかったんだね。
その通り。抗戰勝利の後、父も母も職場がまた上海に移ったんだ。それから台北に引っ越した。基本的には国民党政権の遷移に伴って、ということだね。実際、台湾には伝統的な中国社会の構造から切り離された多くの外省人がいるんだ。僕は彼らこそが中国の歴史上の賃金労働者階級の第一世代だとよく言っている。自分の給料で生活をして、先祖から引き継いだ土地もない。台湾の外省人はみんなとても独立した性格を持っていると思う。
-子供の頃の両親との関係は?何か特別に思い出に残っていることは?
とにかく勉強漬けだったよ!
-家のしつけは厳しかったのかな?
単純なものさ…ただ隠れて漫画を描いて、あとはただ勉強。何も特別なことはないよ。
-でも成績は悪かったんだね笑
それはしょうがないよ!子供の頃にいくつか転機あったけど、転校は大きかった。当時、僕は教師のやり方が気に食わなくていつも反抗していた。理由もなく叱られては、こっちも無視したり。何を言われても聞く耳持たないで、あとは落第するの待つばかり、って感じで。実際、どんな子供もそんな時期があるけど、母親はあの状況に対してそれなりの対処をしてくれたから、僕は幸運だったよ。
-なにに興味があった?
漫画を観ること、漫画を描くことだね。
-それは日本の漫画以外?
一番初めは「牛伯伯打游擊」、その後は「學友」、「東方少年」の日本の漫画。「東方少年」は全部手塚治虫の漫画だったね。台湾人が描いた漫画で「給路流浪記」というのがあってね。その漫画家がずっと好きだったんだけど、彼がその後も漫画を描いていたかは全然わからない。「泉基」という名前だったかな。日本人が引き上げた後に国民党軍がやってくる前の時期の話で。完全に無政府状態、といった感じで、とても印象深かった。もし今探し出すことができたらな…。あれはいい文献資料だよ。音信不通の母親を探しに田舎から街にやってきた少年の話。彼の母親は台北で働いているんだ。五歳の時に見た漫画だけど、まだ覚えているな。
-いつ頃から漫画を描き始めた?
兄と一緒に描き始めたんだ。兄は中学に入ってすぐやめちゃったけど、僕はずっと描いていた。
-中学の頃はすでに一冊ずつ本にまとめてたとか。
いつもそうだったよ。でも特別な事だと考えたことはなかったな。簡単すぎて。
-同級生はみんな知っていたんだね。
みんな僕の漫画を待ち遠しくして読んでいたよ。授業中に回し読みしたり、大学までずっとそんな感じだった。
-小学生から中学生になるまで、ほとんど家にいたというのは本当?
バスケをする時は外で遊んだけどね。あの頃は他に遊びなんてなかった。
-音楽は?
音楽にはいつも敏感で、母が言うには映画を観に行けばすぐに主題歌を覚えて歌っていたらしい。でも別に音楽の才能があったわけじゃなくて、ただ記憶力がよかっただけ。僕が7、8歳の頃、妹は6歳で、何か楽器を習わせたかった母が、僕らを幼稚園の音楽教師のところへ連れていって…。僕は一日でやめちゃったけど、妹は優等生だった。結局大学まで卒業したから。子供の頃はよくレコードを聴いていたね。中国語の曲。家の向いが果物屋で、日本の歌謡曲を毎日流してた。隣のアイスパーラーは最新のヒット曲を流していて。うちの周りの不良グループがみんなそこにたむろしていた。果物屋は一帯であの店だけだから、みんなよく果物を買いに来た。それと、うちの目の前はバスの停留所だったから、みんな集まってくるんだ。朝、ドアを開けるとそのバスを待つ列が見えた。みんな女の人だったね。
-学校はバスで通学?
僕は自転車だった。
-それはいつ頃から?
中学2年から。1年の時はまだバスだったな。
-「光陰的故事」の話と関係があるね。
ちょっとね。
-異性に対する興味は?
そのころは特に何も印象がないよ!
-では母親や、妹に対しては?
母は世界で一番美しい女性だよ。それはみんな同じだと思う。妹にはよく告げ口されたな。他の女子については…、特にないなあ。僕に対して優しい同級生もいたはずだけど、僕もあまり理解していなかった。中学に入学してからかな。うちの周りでは本当にいろんなことがあったんだよ。家の向かいの一角には福建省の人たちが住んでいて、そこに台北で一番の美少女と噂される上金尋女中に通う女の子がいたんだ。放課後になると、彼女を待ち伏せする近所の不良グループでごった返してて。その子は家族と一緒に隣のアイス店に音楽を聴きに来るんだけど、それを見てキレイな人だなぁと思ったよ。目がぱっちりしてて。とにかく、女の人って綺麗だなって思った。突然女性の魅力を理解した感じ。
-小学生から中学になって、何か期待する事はあった?
何も将来の展望なんて考えてなかったよ。好きな女の子がいて、もう少し仲良くなれたらいいな…とか笑、そんな事は高校に入ってからだね。何にせよ趣味の領域が多すぎたし、あの頃の将来の展望なんて短期的なものだった。ただ「新しい漫画がでた、借りに行かなきゃ、なんの映画を見ようか」って感じで、特に何も考えてなかったよ。
-家庭環境はどんな感じだった?
経済状況は中の下という感じ。中産階級なんて家庭は本当に少なかった。何かも不足していたし。だから何も親にねだらなかったし、通学用の自転車を買うのも一大事だった。
-自転車に乗り出したのはいつから?
中学2年の時。分割払いで買ってもらってね。とても嬉しかったよ。でも無くしちゃったんだ…。失くして初めてどんなに大切だったか理解した。うちに帰っても一言も口をきかないでいた。家族に負担をかけたくなかったからね。無くしたのは自分の不注意だったし…。
-両親の仕事はずっと同じ職場だったのかな?
安定していたよ。最後は退職したけど。国民党を悩ませるような事は一切なかったし、当然なんの貢献もしなかった人たちだった。(続く)