エドワード・ヤン 銃声と孤独 賈樟柯
中国の映画監督、賈樟柯(ジャ・ジャンクー)が2010年に「中国周刊」に寄稿したテキスト。
私は未だに自問している。なぜあの時、ヤン監督に声をかけなかったのか。
1998年の釜山映画祭でのことだった。 ヤン監督は『一一(ヤンヤン 夏の想い出)』の企画を携えて映画祭にやってきた。この映画祭の新作映画の資金調達プログラムは第1回目ということもあり、多くの映画監督を招待していた。『站台(プラットフォーム)』を携えた私の他にも多くの先輩監督たちがそこに集まっていた。田壮壮(ティエン・チュアンチュアン)監督とプロデューサーの江志強(ウィリアム・コン)氏は『狼災記(ウォーリアー&ウルフ)』、關錦鵬(スタンリー・クァン)監督も『有時跳舞(異邦人たち)』の企画を持ち込み釜山に来ていた。
あれから12年の歳月が流れ、田壮壮監督は去年ようやく『狼災記』を完成させた。そしてヤン監督が『一一』を残し、この世を去ってからもう3年も経ってしまった。 釜山を発つ早朝のことを今でも鮮明に覚えている。ホテルの外に空港へ向かう送迎車を待つ人たちがいて、ロビーから荷物を抱えてやってくる彼の姿を見かけた。私はすぐそれがヤン監督だと分かった。メガネをかけた背の高い彼は、人だかりから少し距離を置きポツンと一人で立っていた。彼らが車に乗り込みその場を去るまで、私はその姿をただただ見守っていた。彼を見かけたのは結局それが最初で最後になってしまった。彼がこの世を去った後も、私はしばしば自問した。「あの日、私はどうして彼に挨拶のひとつさえしなかったのだろうか。 どうして話をしなかったのだろうか。」
最初に観た彼の映画は『牯嶺街少年殺人事件』だった。若い男女が台北の郊外を散歩していると、突然遠くからけたたましい銃声が聞こえてくる。二人が立ち止まると、物寂しい草地に銃声が響き渡る。遠くでは兵士たちが地面に横たわり射撃演習をしている。それは同じ様に標的を撃つ民兵の姿を見かけた、中国大陸の郊外で育った私自身の少年時代の風景を思い出させた。当時はまだ日常の中に軍政下の痕跡が残っていて、戦争の恐怖と覚悟があった。
どの街にも民兵組織があり、私の母は砂糖と煙草の専売公社に所属する民兵部隊の小隊長だった。 街の人々は、酒を醸造し、タバコを売り、トラクターの部品を製造し、印刷用紙を作っていた。まさかその倉庫の中に、台湾からの攻撃に抵抗するために、或いは侵攻するためのライフル銃が隠されていたとは誰が想像しただろうか。
台湾出身のヤン監督の映画の劇中で、少年少女が地面に這いつくばり狙撃する兵士を眺めているという、馴染み深いあの風景を観ることになるとは思いもしなかった。当然一観客の立場として、彼らが仮想する最大の敵は人民解放軍だとは理解していたが、私はヤン監督の映画を通して、解放軍の「群衆」であれ、国民党軍の「民衆」であれ、台湾海峡を挟んだ私たちは同じ生活を共有していて、同じ緊張感を共有し、お互いに同じ覚悟を持っていたことを初めて理解した。 それ以降、私の中の台湾映画に対する親近感は増し、なぜだか突然にある種の感覚を共有できる間柄だとさえ感じるようになった。 実は私たちはとてもよく似ていたのだ。
『一一』を観たのはそれから2年後、 パリでトロント映画祭のためのビザの発給を待っていた時のことだった。 退屈なある日の午後だった。部屋から雨空を眺めるだけの日々に嫌気がさし、気晴らしにポンピドゥーセンターのそばの映画館「MK2ビブリオテック」に出かけた。ふりしきる雨の中、まるで移民ビザを待っているかのような、厳かに列を成す人々の群れが遠くに見えた。それは『一一』の上映を待つ観客の列だった。これ以上に映画人の心を打つ情景があるだろうか。 私はその列に並び、上映後の拍手喝采の客席の中にもまた親密さを垣間見た。
『一一』以前、『恐怖分子』から『麻雀(カップルズ)』に至るまで、エドワード・ヤンは常にあらゆる人生の全てを一つの映画としてまとめようと試み、目に映る台湾の全てを一つの映画として語ろうと試みた。それは果たして可能であろうか。
『一一』を通して彼は一つの映画で世界の全てを書き上げ、中国社会全体をも網羅できると証明している。 ヤンは『一一』の中で、中国社会を洞察する重要な鍵を発見した。それはまさしく人間関係に他ならない。 家族関係におけるよそよそしさと親しみ深さ、仕事関係における距離感、妻、恋人、過去の自分、現在の自分、そして漠然とした未来…。 華人社会特有の他人の生活に入り込む程の親密な対人関係、その動き、熱を帯びたコミュニケーションの中に、氷の様な冷たい感情が見え隠れしている。
中国には「天妒英才(神はその才能に嫉妬する)」という言葉があるが、まさしく『一一』が私たちの人生のすべてを詳らかにし、私たちのために人生の謎を解き明かし、その使命を果たしてしまったからこそ、彼は私たちのもとを去ってしまったのかもしれない。2年前、ナント三大陸映画祭のエドワード・ヤンの追悼上映プログラムがあり、その企画会議の場で、ヤン監督の夫人と長男にお会いする機会があった。候孝賢(ホウ・シャオシェン)監督が話しているその足下で、黙々とゲームで遊ぶヤン監督の息子の背中は、父親の寂しそうな後ろ姿によく似ていた。
魏德聖(ウェイ・ダーション)監督は『海角七号』でアジア・フィルム・アワードで大賞を受賞した際、彼への哀惜の念を涙ながらに語った。 戴立忍(レオン・ダイ)監督も『不能沒有你(あなたなしでは生きていけない)』で金馬奨を受賞したとき、彼への感謝の念を涙ながらに語った。 その2週間前、ロカルノ国際映画祭で金豹賞の名誉賞を受賞した私の手にしたヒョウのトロフィーを見ようと友人たちが集まってきた時のことだった。 イギリスの映画評論家、トニー・レインが急に暗い顔をして、こう言った。
「エドワード・ヤンが金豹賞を受賞したとき、チューリッヒの乗り継ぎで彼と一緒になったんだ。 彼はその道程、ずっとヒョウのシッポを掴んで持ってたんだけど、チューリッヒに着く前にそのシッポが取れちゃって…。 」
談笑していた私たちは、しばしの静寂の後、申し合わせた様に押し黙ってしまった。 あの瞬間、皆、彼のことを思い、懐かしんだに違いない。
釜山でのあの日、彼に一声かけなかったこと、直接「ヤン監督、私はあなたの映画が大好きです!」と伝えられなかったことを私は本当に後悔している。 今でも一人で『一一』のDVDを観るたびに、あの日の午後、彼の長身と孤独を思い出す。
2010年7月30日 北京にて。