僕僕先生「先生の隠しごと」読書感想

今作はいつも通りライトな作風ながら、読み込めばそのにはかなりシリアスなテーマが伏流していたように思う。

中国という言葉は、周の時代、中原に住む民族が使い出したものである。そこから、彼らが周辺を制圧するにつれて、その範囲は拡大していった。

彼らは自分たちが制圧した民や、勢力範囲外にあるものを「人以下を生き物を指す言葉」、蛮、夷、狄といった蔑称で呼んだ。

この物語はこの「蛮夷」のものたちが躍動していくわけだが、呉や越の王たちはむしろ自らの蛮性を誇り、中原に反抗していったという。

民族の総意を形成するのは優越感だけではない。組織的に虐げられているという逆境が固有のマイノリティをもつ集団を形成することは歴史上、幾つも例がある。

話がそれた。

今作は「中原」と「蛮夷」、そして「理念」と「現実」という二項対立によって動いていったように思う。

「理念」は、現実と必ず食い違う。
綺麗な理念をもし実現にするには、必ずその負担の転嫁先が必要なのである。
だが、その時点で綺麗な理念はすでにそこにはないという構造的なジレンマ。
それを光の国の顛末は、その好個の適例である。

結末には「理念」を追い求めた末に彼がどういう人物になったかが示唆されている。
浄化と破壊は、表裏一体なのだ。
どれだけ、原初の志が清純であっても、手段を違えばそれは破壊行為と変わらないのだ。

本来は、僕僕先生と王弁のキュンを求めて読み始めたが、つい昨今の国際情勢に引き寄せるように読んでしまった。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?