【ブッダ】「中道」「八正道」禅の教室②
学びたいものがあり過ぎて
中途半端過ぎる学びではありますが、
現状できることとして
『禅の教室』
藤田一照 伊藤比呂美
の序章で眼に留まったもの
を残させて頂きます。
序章 そもそも禅ってなんですか?
シッダールタの歩いた中道とはなにか
比呂美 ふう、だんだんわかってきました。
ところでさっき、シッダールタの悟りは
「世の流れに逆らうもの」とおっしゃいましたね。
あれはどういう意味なんでしょうか。
一照 これは有名なフレーズです。
仏伝によると
「私が悟ったダルマを人々とシェアしようとしても、
理解されずに徒労に終わるだろう。
だからこのまま混槃に入ってしまおう」
と法を説くことを躊躇逡巡したということになっている。
これはもちろん後世に作られたフィクションだけれど、
それでは困るということで、
梵天という神様が天から降りてきて説得した。
比呂美 それでもシッダールタは断るわけですよね。
一照 そう。二度断る。三度目に頼まれて、
「では、かつて自分と一緒に苦行をした五人の仲間たちだったら、
私のいうことがわかるかも知れないから、先ず彼らに法を説こう」
ということで、やっと坐から立ち上がるんですよ。
それで昔一緒に苦行をした連中のところに
ダルマを説きに歩いていったんですが、彼らにしてみれば、
シッダールタは苦行を途中で捨ててしまった情けない奴なので、
あんな奴は無視しろと⋯⋯。
比呂美 ちょっと待って下さい。シッダールタは挫折したの?
一照 彼らには、そう見えたんですね。
シッダールタは城を出た後、
当時主流だった既成の宗教的行法を徹底的にやってみたんですよ。
瞑想と苦行ですね。
でもそれでは自分の問題は解決しないということがわかった。
そこで彼は自分独自の道を切り開いたわけです。
そのことを、既成のパラダイムではない、
新しい宗教的パラダイムを開いたんだ
という言い方を僕はしているんです。
比呂美 パラダイムって何ですか?
一照 ものごとを考える上での基本的な枠組みのことですね。
で、その五人は「あいつは苦行に挫折したダメなやつだから」
とシッダールタを無視しようとするんですが、
目覚めた人間には
何かオーラみたいなものが外に染み出るのでしょうかね、
威厳に満ちたシッダールタの姿を見ると
みんな思わず礼拝してしまった、ということになっている。
そして「シッダールタ、どうしたのですか。
あなた前と全然違うじゃないですか」と彼らがいうと、
「私のことはもうシッダールタと呼んではいけない。
如来と呼びなさい」と答えた。
「私は目覚めた者である」と言うから
「じゃああなたは何に目覚めたのか」、
それに応えて最初にシッダールタがいったのが
「わたしは中道に目覚めた」なんですよ。
比呂美 中道。またまた新たなキーワードが出てきましたね。
覚えても覚えても、際限なく出てくる感じ⋯⋯。
仏教を研究してきた、
ながあーい歴史があるということなんでしょうけどね。
一照 中道というのは、二つの行き詰まり――
普通は「二つの極端」と訳すんですが、僕は
「行き詰まり」と言っています
――のどちらからも離れた道のことです。
今の文脈では一つの「行き詰まり」は感覚的な快楽に溺れている生き方。
もう一方の「行き詰まり」はその反対で、
自分の身心を責めさいなむ苦行的な生き方。
シッダールタ自身も釈迦族の王子だったので、
城を出るまでは恵まれた環境の中で
快楽を追求する生活を送った人だということになっています。
そして城を出た後はそれと反対の、非常に厳しい禁欲的苦行をやった。
比呂美 両極端ですね。エロスを見つめ、タナトスを見つめ。
一照 その通り。当時の宗教的な修行法として、
自分を責めさいなんで自己の存在を否定するようなタイプのもの
があったんですね。その対極にあるのが、
快楽至上主義的に生きるということですね。
苦と快というように一見対照的だけど、
どちらも惑溺というか閉塞的な状況に溺れている
という点で共通していますよね。
生き生きしたポジティブな展開がないので
僕は「行き詰まり」と表現しています。
快は世俗、苦は宗教を象徴しているんじゃないですかね。
ジッダールタはどちらも結局行き詰まりだと見たわけです。
どちらの行き詰まりからも離れた第三の道として
「中道」を自分は見出だしたと宣言した。
これがシッダールタのいわば最初の仏教宣言です。
初めて法の車輪を回したということで
「初転法輪(しょてんぽうりん)」というやつですね。
比呂美 それは修行のやり方を中道で行けということですか。
一照 修行というか生き方ですね。
偏りのないバランスのとれた生き方。
どちらの行き詰まりにも落ち込まない。
僕はスラックラインという綱渡りみたいなこと
をやってよく遊んでいるんですけど、
両側に落ちないように綱の上を
うまくバランスを取りながら歩いていくようなイメージですね。
八正道――中道にかなう生き方
比呂美 うーん、一照さんのおっしゃることは
、瞬間、瞬間はよくわかるんですけどね。
本で読んでも、あーわかる、わかると思っても、
なんだか本当はわかってない。
実際のシッダールタの本心がいまいちわからないんですよ。
だって、もしかしたら苦行の果てに、
何かいいことが見つかるかもしれないじゃないですか。
最後にはどこかに辿りつけるかもしれない。
逆に快楽では何でダメなのか。
それなら、どんな生き方ならいいのでしょうか。
一照 そこで出てくるのが、八正道というやつです。
比呂美 ああ、また新しいことばが⋯⋯。説明してください。
一照 仏教というのは、新しい言語をそれが内包している
新しい考え方と一緒に身につけるようなもんだから、
外国語を学ぶのと似たところがあるんですよ。
だから新しい単語が出てくるのは当たり前。辛抱してくださ(笑)。
で、「八正道」も重要なボキャブラリー。
シッダールタが言いたかったのは、
「私が見出だした中道という生き方は
お前たちがやっている苦行でもないし、
私が城でやっていた放恣な生活とも違うぞ。
その具体的な内容を八つに分けて説明するとこうなる。⋯⋯」
ということなんですよ。
シッダールタはどっちの生き方もさんざんやってみて、
けっきょくのところ、飽き飽きしたんじゃないかと思うんですよ。
どっちも続けようと思えば続けられないわけじゃないけど
もうそんな気が起きないよ、うんざりだって。もうたくさんだ。That's enough!
僕はシッダールタってすごく自分に正直だと思いますね。
比呂美 要は実際に両方をやって、
これではダメだというのが体験的にわかったわけですよね?
行き詰まりだと。
一照 もう先には何もないって、
そういうのがわかるのは才能だと思いますよ。
比呂美 才能のない普通の人はダメですか。
一照 普通は薄々そう感じてても、
自分をごまかして繰り返してしまうでしょう。
黒澤明の『生きる』(一九五二年)という映画は観た?
志村喬が主人公の公務員を演じているんだけど、
かれは机の前で機械のように書類にハンコをひたすら押して、
ときどき時計を見て、終業時間まで毎日それを繰り返す。
当時のサラリーマンというか、
ある生き方を辛辣に風刺しているわけですね。
そこに「彼は生きているとは言えない。死骸も同然だ」みたいな、
ものごいナレーションが入る。
比呂美 すごい。辛辣ですね。
一照 彼は波風を立てずに無事に定年退職の日を迎えることだけを願って、ひたすら機械のように自分を押し殺して生きている。
それがあるとき、ガンで自分に死期が迫っていることがわかり、
すっかり変わってしまうわけです。
死に直面して初めて、自分の無意味な生き方に気がつく。
そのあとの展開は映画を観てほしいんだけど
あれはまさしく仏教的映画ですね。
シッダールタにも、世俗生活を楽しんでいる時も、
宗教的行法に打ち込んでいる時も、
このままでは死ぬに死ねない、何か大事なものが欠けている
という感覚があった。
そして、それを見出だした後は、
世俗でもないし、従来の宗教でもない、
二つの行き詰まってしまう生き方とは違う、
道に的中した行き詰まりのない生き方を見つけた
と宣言したんです。
比呂美 そこで八正道が出てくるわけですね。
一照 ええ。『転法輪経(てんぽうりんきょう)』という、
シッダールタが初めて人に向かって法を説いた時のお経があります。
「中道とは八正道である」といって、
次にいきなり苦集滅道という四聖諦があると。
苦諦とは一切は苦であるという真理、
集諦は苦には原因があるという真理、
滅諦は苦は滅するという真理、
道諦は苦を滅する道があるという真理
というふうに説いて、最後の道、それが八正道で、
また最初に返ってくるという構造になっている。
比呂美 八正道は、文字どおり「八つの正しい道」と取っていいんですか。
一照 そう。
正は「真理にかなった」「調和のとれた」という意味で、
順番に正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定
となっています。
正しいヴィジョン、正しい意図、正しい言葉使い、⋯⋯、
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仏教の修行というと瞑想ばっかり思い浮かべる人がいるけど、
八正道をみるとそうじゃないことがよくわかります。
こちらの内容は、
『禅の教室』
発行 中央公論新社
著者 藤田一照 伊藤比呂美
2016年3月25日発行
を引用させて頂いています。