【ブッダ】中道と八正道
中道
これまで述べてきたような、
すばらしい空の境地に住するようになるためには、
どのような実践方法があるのでしょうか。
ブッダはその実践の方法として
「中道」があるといっています。
この「中道」ということについて考えてみたいと思います。
ブッダが修行者ソーナに調和のとれた修行をしなさい
とさとす経典があります。
ソーナは激しい修行を一所懸命つんでいるにもかかわらず、
なかなか安らぎの境地に近づけないで悩んでいました。
自分はいくら修行に励んでも、
さとりの境地に達することは無理なのではないだろうか
と迷っていたのです。
その様子を察知して、
ブッダは琴のたとえをひいて教えます。
きっとソーナも琴をひくのが得意だったのではないでしょうか。
「ソーナよ。汝はどう思うか。
もしも汝の琴の弦が張りすぎていたならば、
そのとき琴は音声こころよく、妙なるひびきを発するであろうか」
「尊い方よ。そうではありません」
「汝はどう思うか。もしも汝の琴の弦が緩やかすぎていたならば、
そのとき琴は音声ここよく、妙なるひびきを発するであろうか」
「そうではありません」
「汝はどう思うか。もしも汝の琴の弦が張りすぎてもいないし、
緩やかすぎてもいないで、
平等な(正しい)度合いをたもっているならば、
そのとき琴は音声にこころよく、妙なるひびきを発するであろうか」
「さようでございます」
「それと同様に、あまりに緊張して努力しすぎるならば、
心が昂ぶることになり、また、
努力しないであまりにもだらけているならば怠惰となる。
それゆえに汝は平等な(釣り合いのとれた)努力をせよ。
もろもろの器官の平等なありさまに達せよ」(『律蔵』)
琴の弦は張りすぎても、緩んでいても、うまく音が出ません。
やはり適度に張ったところで、妙なる響きが奏でられるのです。
仏道の修行も琴の弦と同じなのです。
何も激しい修行に張りつめていたからといって、
安らかな境地に達することができるわけではない。
もちろん、怠惰になってはいけませんが、
やはり調和のとれた修行こそがさとりへの道なのだと説くのです。
ブッダは、きっと自分がさとりをひらく前、
苦行に打ち込んでいたころのことを思いだしながら、
この説法をしていたのではないでしょうか。
何ごとも調和のとれた中道が肝心だという教えです。
この中道について説いた経典を二、三あげておきます。
〈快楽〉と〈不快〉とを捨て、清らかに涼しく、とらわれることなく、
全世界にうち勝った健き人――、かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。
賢者は、両極端に対する欲望を制し、
(感官と対象との)接触を知つくして、
貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、
見聞することがらに汚されない。
かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、
この世についても、来世についても、願うことがない。
諸々の事物に関して断定を下し かれには何も存在しない。
かれには何も存在しない。
「両極端を知りつくして、よく考えて、
〔両極端にも〕中間にも汚されない、
聡明な人は誰ですか?
あなたは誰を〈偉大な人〉と呼ばれますか?」
「かれは両極端を知りつくして、
よく考えて〔両極端にも〕中間にも汚れない。
かれをわたくしは〈偉大な人〉と呼ぶ。
かれはこの世で縫う女(妄執)を超えている」
(『スッタニパータ』六四二、七七八、八〇一、一〇四〇、一〇四二)
カッチャーヤナよ、この世間の人々は
多くは二つの立場に依拠している。それは、すなわち有と無とである。
もしも人が正しい知慧をもって
世間(世の人々)のあらわれ出ることを如実に観じるならば、
世間において無はありえない。
また人が正しい知慧をもって世間の消滅を如実に観じるならば、
世間において有はありえない。
カチャーヤナよ、
「あらゆるものがある」というならば、
これはひとつの両極端である。
「あらゆるものがない」というならば、
これも第二の両極端である。
人格を完成した人は、この両極端説に近づかないで、
中〔道〕によって法を説くのである。
(『サンユッタ・ニカーヤ』)
世界は常住なるものであるという見解があっても、
また世界は常住ならざるもので、あるという見解があっても、
しかも生あり、老いることあり、死あり、
憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
われはいま目のあたり(現実に)、
これらを制圧することを説くのである。
(『マッジマ・ニカーヤ』)
八正道
ところでブッダはサールナート郊外の「鹿の苑」で
初めて説法されたとき、この中道にふれています。
修行僧らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある⋯⋯
一つはもろもろの欲望において欲楽に耽ることであって、
下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。
他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、
高尚ならず、ためにならぬものである。
真理の体現者はこの両極端に近づかないで、
中道をさとったのである。⋯⋯
修行僧らよ、真理の体現者のさとった中道とは
――それはじつに〈聖なる八支よりなる道〉である。
すなわち、正しい見解、正しい思惟、正しいことば、正しい行い、
正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。⋯⋯
(『サンユッタ・ニカーヤ』)
まさに知るべし。二辺の行あり、
もろもろの道をなす者の当に学ぶべかざるところなり。
一にいわく、欲楽、下賤の業,凡人の所行に著す。
二にいわく、みずから煩い、みずから苦しむ。
賢聖が法を求むるに非ず。義と相応ずることなし。
五〔人〕の比丘よ。この二辺を捨てて中道を取ることあらば、
月を成じ、智を成じ、定を成就して自在を得。
智におもむき、覚におもむき、涅槃におもむくは、すなわち八正道なり。
正見乃至正定なり。これすなわち人となす。
(『中阿含経』)
ここで「中道」とは「八正道」とはっきりいっています。
これは初転法輪の説法ですから、ブッダは説法の第一声で、
欲楽と苦行の両極端を排し、「中道」をさとったのだ、
その中道とは「八正道」なのだと宣言しているのです。
「両極端」、また漢訳では「二辺」となっていますが、
これは両端という意味で、
「中道」はそのいずれにもつかないちょうどよい、
バランスのとれた実践の道のことです。
例えば、病人に投与される薬は、多すぎると副作用があったり、
かえって悪化したりしてしまいます。
少なすぎてはまったく効きめがありません。
ちょうど適量でなければ薬の用をなしません。
「中」はこういう意味で、決して両者の中間という意味ではないのです。
この「中道」とは「八正道」のことで、
「八正道」とは四諦のなかの「道諦」のことです。
そして、これは苦を滅する実践の道のことなのです。
その実践の道を具体的に八つに集約したのが「八正道」であり、
これは
「正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定」
のことです。
この「八正道」の一つひとつについて
『マッジマ・ニカーヤ』で詳しく説明しています。
しかしここでは簡単にふれておくにとどめます。
まず「正見」ですが、これは四つの心理といわれる
「四諦」を正しく理解することです。
そしてこれは八正道の基本になるものです。
「正思」とは、俗世を脱した思い、怒らない思い、
アヒンサーの思いなどです。
「正語」とは、うそ偽り、そしることば、
荒々しいことばなどをいわないこと。
「正業」とは、殺生、偸盗、邪淫を行わないこと。
「正命」とは、正しい出家修行者の生活を守ること。
「正精進」とは、邪悪なことを断ち、善を勧めるようにつとめ励むこと。「正念」とは、身心をよく観察し、
貪りや憂いをなくするように気をつけること。
「正定」とは、禅定の境地に住することです。
以上、この経典にあらわされているところにより、
「八正道」をひと口でいえばこんなことかと思います。
こちらの内容は、
『ブッダ伝』
生涯と思想
発行 株式会社KADOKAWA
著者 中村 元
平成27(2020)年5月25日 初版発行
を引用させて頂いています。