傍若無人で手前勝手な自分に気付く
ある日twitterにてこんな投稿を見つけた。
気持ちはとてもわかる。
だが、私がこう誘われるときを、ふと考えるのだ。
「自分都合で飲みに誘ってきて、オチのないつまらない話をする人の、相手が楽しんでるだけの酒の場には行きたくないなぁ」だ。
そういう点では、こんなことしてあげたいのは恋人の他にはいないだろう。
私はなんと自分勝手なんだろうか。
しかし、同じ気持ちの人間がいると信じてnoteを書くのだ。
自覚する時間泥棒
世の中には平気で他人の時間を奪う人間が多く存在する。私は彼ら彼女らを羨ましく思うのだ。
「私といられるだけで嬉しいでしょう?」という気持ちで誰か(異性)を誘う日ももちろん私にだってあるのだが、無自覚でそれが出来るのは才能であると思う。
私の基本は『もしあなたの時間を私にくれるなら、とっても嬉しい。会えるだけで私は嬉しいが、あなたも楽しんでくれると尚嬉しい』という気持ちで友人を誘う。
無料ですらそう思うのに、お金が発生する場合は尚更だ。(この話は横道に逸れるので割愛)
ともあれ、相手の時間を使うことに対して無自覚な人というのは少なくとも私とは気が合わない事だろう。
このnoteも、読んでくれている人にとって何かの肥やしになると嬉しいと思って書いている。
”私”の持つ主観
全ての人は、主観を持っている。
意外と自分では気付いていない事もあるだろうが、自分の出来る努力の範囲でそれを自覚するのが大事。
客観的になる事は無い。
そんなものは幻想とまではいかないが、自分と他人の境界線がブレる原因になるからだ。
⭕ ”自分は”こうだろうと思う
❌ ”普通は”こうだろう
▲ ”相手は”こうかもしれない
この最後の『相手はこうかもしれない』と思うよりももっと前に、自分はこう思う、と自分の考えを自覚するところから始めるのがいい。
なぜなら、星の数ほどいる他人より自分を研究した方が、自己と他者の区別をつけやすいからだ。
この世は自分以外他人だから。
冒頭のTwitterの書き込みの問題点は、自分の視点に気付いていないところだと思う。
(文字数制限も相まって、実は伝えたい事は私が受け取った文章とは違うことがあるのかもしれない。もちろん、受け手として私も気をつけたい所だ。)
自分と他人の境界線
この境界線の引き方は大きく分けて二つある。
他者があるから見える自分
自分を形作った外側が他者
①の他者があるから見える、とは総じて評価のことを指す。
優しいって言われる、これがすごいって言われる、成績は良い方…その他諸々が他人から形作る自分である。
一方②は簡単だ。私はこれが好き、これに気を付けている、などなど。
①で形作られた自己は、愛されたくて愛されたくて他人に振り回され、他人を振り回すのだ。承認欲求オバケがそのなれ果てだろう。
他人の時間を盗み、他人のエネルギーを盗む。
②で作られた自己は、それだけでは人に寄り添うことができない。
いつか、『寄り添えない人々』として一本書こうかとは思っているが、これはこれでかなり問題があるのでここでは言及しない
自分の希望することと、行動
自分がされて嫌なことは、人にしてはいけません!
なんて幼稚園時代から言われたことだろう。(ASD気味の人はその限りではない)
少し性の話になるが
男性にもわかりやすく書くと、歯が当たったら痛いと感じるくせに甘噛みは良しとするあの気持ちを想像してほしい。
あれはなんなんだ。
自分がされて嫌なことは人にしてはいけないとは理解しているのに、今までの他の人間の反応から謎の学習を遂げている。
歯が当たる女性のことをへたくそと感じるくせに、自分は乳首に歯を当てるのだ。
女性にわかりやすく書くと、スローセックスしてほしいのにスローセックスしてあげないのは何なんだ?男性には必要ないと思ってる?それともそういうプレイは女性の楽しみ?
おわりに
こういうことの予防のために、主観に気付く能力を磨いてほしい。
客観視やらメタ認知やら、そんな難しい話ではなく、ただ主観を認知するだけでいい。
自分はなぜこの行動をするのか。なぜしないのか。
自分はなぜこの選択をするのか。
自分を見つめすぎると病むのでほどほどにした方がいいのだが、うまくバランスをとりながら考えてみてほしい。
そうして、他人の時間とエネルギーにも心配れる人間になってほしい。
なお、「嫌なら嫌って言えばいいじゃん」と心から言ってしまえる人間は相手の罪悪感にも配慮するという成長を期待したいところだなぁ