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心に刻む言葉 - Vol.2
「一人の命は、地球より重い」
この言葉は、1977年9月28日に、日本赤軍が起こした、ダッカ日航機ハイジャック事件の時に、福田赳夫(たけお)元首相が述べた言葉。
これは、決して地球の存在と、人間又は、あらゆる地球上の生物の、命の重要性を、比べるものではないのです。
命の尊さに宿る、その人間だけが持つ「個性・特性・人間性」の無限さを「重み」という言葉を通して表したものだとらえています。
また、「人間としての尊厳」と「人間の命の尊厳」を、議論するために生まれた言葉でもないとも言えます。
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平和を願うtweet
昨日は、アメリカの祝日、Memorial Day (戦没将兵者追悼記念日) でした。
私は、こんな tweet をしました。
今日は、Memorial Day
— NYnorico🇺🇸ファッション業界現役🗽60才にてキャリア更新中 (@NYnorico) May 31, 2021
アメリカの戦死者を追悼する記念日.1865年5月30日に,南北戦争の戦死者の追悼式が開催された事に発する。
被爆2世として生まれた自分は、命の尊さと平和の有り難さを、心に刻み、多くの人にも、そうあって欲しいと願う。https://t.co/1zr8rPnZHV#平和 #命 #被爆者 pic.twitter.com/mZnK6HtOWh
被爆者の両親
私の両親は長崎県の出身で、二人とも被爆者です。そして、二人とも、家族の何人かを原爆で失いました。特に父の生家は爆心地に近く、家は焼け落ち、父の母、幼い弟や妹は、疎開先の佐賀県で、次々と亡くなりました。
父は、自分の父と二人で、家は無くなっても、自分達の土地をを守らなければならないと、焼け跡に残りました。
ある程度、物心ついた頃から、大まかな原爆投下瞬間の事、その直後の話などを、聞いたりしていましたが、二人とも、細かい事はあまり話しませんでした。
奪われていく命
悲しいかな、地球上では「命」が奪われていく事が、今でも次々と起こり、耐えることがありません。戦争、銃の反乱、疫病、天災・・・。自殺も、自分で自らの命を奪っている事です。
コロナウイルスが始まり、1年以上過ぎました。文字通り世界中で、多くの命が奪われて、残された人々は耐え難いほどの、苦しさと悲しみを、受け止めなければならない現実が、続いています。
それなのに、アメリカでは、繰り返し、繰り返し、銃の乱射事件が起きては、なんの関係のない、普通の1日を暮らしていた人達の命が、一瞬で奪われていってしまう。
イスラエルとパレスチナでは、5月21日に停戦に入ったものの、無限に終わることのない様に見える、ミサイルの砲撃を繰り返していました。
パレスチナのガザ地区で、小学生くらいの少女が、怒りをぶちまけている
映像が、衝撃過ぎて・・・。
"I just want to go to school as same as all other kids are doing!!"
”I don't deserve this!!"
「他の子供たちが学校に行ってるみたいに、ただ学校に行きたいだけ!!」「こんな目に合うなんて!!」
叫ぶ少女の手を、まだ歩き始めたばかりくらいの、幼い弟が握っていた。
この少女の姿を、イスラエルとパレスチナの指導者たちが見たとしても、命よりも、自分達の権威を主張するのだろうか。宗教という、目に見えない
絶対的なものを盾に。
命の重みの先にあるもの
被爆者2世だから、「命の重み」という事を、意識した訳ではないけれど、日本を離れ、ニューヨークで生活を始めてから、「生きる」という事がとても尊いと思え、愛おしく感じる様になったのです。
多分それは、自分が歳を重ね、両親も旅立ち、「死」を身近に感じ始めたから、という事も、理由の一つでしょう。
「死」は、命が奪われた時にやってくるものではなく、命の尊厳を全うした時にこそ、与えられるものであって欲しい。