「マスコミ嫌い」が欲しい言葉
記者の使命を探れ
つい先日、とある大手新聞社の記者らの講演を聞く機会があった。
しかも数人の、多様なバックグラウンドを持つベテラン記者たちの。
講演を聞いたと言っても、大学の授業カリキュラムの一環に、実質必修授業と化したコマがあって、その授業こそが「新聞記者の話を聞いてみよう」というものだった。
つまり、この授業なしには卒業は見えてこないというんで、とりあえずみんな履修する。そんな講義である。
私自身、特に記者の話を聞いてみたいというわけでもなかったが、カリキュラム上は履修しなければならないし、
もっとも、
「記者」たるものがなんなのか、
自分の目と耳で確かめたいという意欲はあった。
マスゴミ(言葉はよくないが)というワードで揶揄され、
何か発信する度に、反対スタンスでの意見を浴びせられる。
昨今の報道機関は「ファクト」と「オピニオン」の分別が曖昧になっている偏向報道であると、強い語気で言われる。
そんな場面に多々ぶつかるであろう記者たちが
何を信念として、
何を使命として、
そして
彼らにとっての「職務を全うする」とはどんなことなのか
この疑問が、以前から私の中で渦巻いていた。
そしてその答えを見出すべく、(必修)授業に臨んだわけである。
記者はみずからを「正当化」している?
講演では、彼らの取材方法や”価値判断”(ここでは、どの話題を記事として優先的に掲載すべきかの優先度のこと)について、彼らなりの見解が述べられた。
え?なぜこんなにも抽象的なレポートかって?
そう。記者によって価値観がまちまちで、私の語彙力ではうまく概略を伝えきれないからである。(-_-;)
おなじ新聞社に勤めていても、記者によって取材先との関係構築方法や、ジャーナリズムに対して抱いている印象・問題意識が多様なので、
彼らが紡いだ言葉を一色単にはできない。
ただ、
彼らから受けた印象に、全員に共通するものが一つ、明白にあった。
それは、
彼らは彼らのやり方を「正当化」している
ということである。
取材先にいる人々は、決して記者の訪問に親和的な人ばかりではない。
むしろ、つらい記憶を記者によって呼び起こされ、
取材されることでその記憶を自らの口で言語化されることを強要されると感じている人もいる。
だから態度であからさまに記者を拒絶する人もいる。
このことは、記者である彼らも当然に認識しているようだった。
取材先が記者のことを煩わしく思っているケースは少なくないらしく、
日常では直面し得ない、他人からの拒絶を体験することも多々あるらしい。
しかし、これが取材を控える理由にはならない。
そう彼らは口をそろえた。
だからこそ、記者の腕の見せ所なのだと。
うまく相手の懐に入る術を我々は日々鍛錬しているのだと。
そうして素材を入手し、「ファクト」として世間に出すことが、
今ある社会のあらゆる問題から次のステップへ進むためのヒントを
読者が思考し、語り合い、歩んでいける。というのが、
彼らが取材を押し進める意義らしかった。
また、記者の中には、昨今の『論破ブーム』について言及しながら、取材の不可欠性をアピールする者もいた。
「論破」のように、相手にマウントをとって
何の解決策も見出さずに、ただその場で社会問題をテーマに自分の知識量と話術が優っていることを誇ることが正しいかのような、
そんな風潮では我々は成長してゆけない。
だからこそ「ファクト」を受け止めていくことが、歩むために元来必用なことであると。
彼らはそう語った。
学生のマスコミへの疑念
一連の講演が終わると、記者らは学生の質問を受け付けた。
「だからといって、一人の人間の心の傷を深堀する理由になるのでしょうか?」
「取材で得た素材とは別に、編集による表現によって事実とは受ける印象が異なるケースもありますが?」
「取材先との関係構築が巧妙であるほど、新聞社にとって良き記者ということでしょうか?」
皆(学生も記者も)が予想していたような、記者への懐疑的な質問が並べられた。
記者らは、一つ一つの質問に、丁寧に回答していた(ように少なくとも私は思った)。
重要なことは繰り返し、誤解を招いている部分は修正した。
ただ、同時にそれは
学生の懐疑的態度に、若干の喝を入れるかのようでもあった。
べつに語気が強いというわけではないが、
「キミの指摘は甘くないか?」
そういうニュアンスが、どこか感じられる言い回しであった。
皮肉なことにも、『論破ブーム』を批評する記者が、学生の質問に対して論破する局面もあった。
とはいっても、記者の言うことは一理あったように思う。
質問した学生も、その回答を経て、皆一応は納得した様子であったし、周りの学生も、その回答に対して今にも斬りかかろうと腰を浮かせていたわけではなかった。
しかし、そこに”釈然さ”たるものもなかったように思う。
「マスコミ嫌い」は何が欲しいのか?
では、私たちはどんな講演・質問への回答であれば、
記者らの言葉が腑に落ちたのだろうか?
おそらくそれは、
学生らの指摘の正しさを認めることでも、
取材を望まぬ取材先への謝罪の意の表明でもなかっただろう。
私たち学生はただ、
「そんな不条理が混じったジャーナリズムであっても、
それなしでは私たちは今を生きていけない」
そのことを、
マスコミ業界にいる記者たちも分かっているよと、
その言葉が欲しかったのではなかろうか。
情報が錯綜する世界を生きる私たちは、
新聞社のような、情報のカオス状態を整理し発信してくれる存在なしには
もう生きてゆけない。
しかしその裏腹には、
公表されたくない情報を有無をいう間もなく発信されてしまう人、
悲惨な記憶の供述を余儀なくされる人、
情報公開によりそれまでの生活が無に帰す立場に置かれた人、
様々な事が起こっている。
このことを最前線で見ている記者こそが
この不条理を認めてくれることが、
我々の雑然としたマスコミへの疑念を払拭する
ひとつの救いになったのかもしれないと、今思う。
多量の情報を頼りに取捨選択しながら生活する我々は、
いつしかマスコミというものと切り離せない関係を築いている。
おそらく、「マスコミ嫌い」も付随的に存在し続けるだろう。
誰が悪というわけでもない中で、
自然の摂理かのように生まれてしまうこの対立関係に
どこか寂しさを感じた。
最後に
最後に一つ、
当然ではあるが、確認しておきたい。
本記事は「ファクト」ではなく、
ひとつの「オピニオン」である。