『きこえる』道尾秀介 著(講談社)
BLACK HOLE:NOVEL 2023年11月
本作は五つの独立した物語からなる短編集だが、いずれも話の途中や最後に二次元コードが付されている。それを読み取ってある音声を聞くことで、それまで読んでいた物語が全く異なる景色に変貌する、という趣向の作品である。
著者の道尾秀介は、過去作『いけない』で視覚を用いた同種の試みを行っている。各話の末尾には一枚の写真が付されており、読者はそこから推理を巡らせることで隠された真相に気付く。道尾の著作にはこうした読み手の「体験」を重視したものも多く、近年では謎解きキットの制作にも携わるなど、新たな挑戦を続けている。
さて『きこえる』の話に戻ろう。いくら未知の試みとはいえ、発想自体は『いけない』の焼き直しではないか、ただ写真を音声に変えただけではないかという意見があるかもしれない。しかし考えてほしい。一枚の写真と雰囲気を伴う音声では、それが与える情報の量も質も全くと言っていいほど異なるのだ。各話について、以下で軽く見ていこう。
第一話は表題作「きこえる」。数日前に殺害されたルームメイトが遺したCD。その曲がアウトロに差し掛かったとき、決まって彼女の声が小さく聞こえてくる。一定数の読者は途中で真相に気付き、著者の企みを看破したつもりになるかもしれないが、とんでもない罠である。何を隠そう、私もここで分からされた一人だ。二つの音声は同じ場面を収録したものだが、前者で無意識に抱いていた先入観が後者でばっさりと切り捨てられる作りになっている。真相が明かされると同時に登場人物たちの言動が全く異なる意味を帯び、結末の悲壮感が増大するようになっている点も秀逸だ。
第二話「にんげん玉」は、主人公が高齢者向けの資産形成をうたう胡乱なセミナーに参加するところから始まる。そこで講師の男を見て、彼が過去に起きた殺人事件の関係者ではないかと疑念を抱く。五編のなかでは最も真相に気付きやすいと思われるが、それ以上に歪んだ叙述に圧倒される。主観に振り切った表現で直接的な感情描写がことごとく排され、まともな読解を不可能にしている。現代文のテストで出題したら間違いなく炎上するだろう。熱に浮かされたような掴みどころのない文章が主人公の心境とリンクし、不気味ながら心地良いテンポ感を生み出している。ラストの音声は答え合わせのようなものだが、BGMを聞きながら該当箇所と照らし合わせるのもまた一興だ。
第三話「セミ」は私の中で最も評価が高い一作だ。地方に越してきた「僕」と、そこで出会った「セミ」の日々を描く。本作の魅力は、やはり音声の特徴を十二分に活かしている点にある。ある点に関しては重大なネタバレになるので詳しい説明を避けるが、聞いた瞬間に思わず声が漏れたことを覚えている。もう一点は先述したように、音声の持つ時間的な距離だ。この話では特に、かなり不可解な謎を残して小説部分が終わるようになっている。セミの言動から、読者に見えていない問題が複数あるように思われるのである。これだけで本当に解決するのかとQRコードを開き、そして全ての疑問があっさりと氷解する。音声が流れるひと時は、推理のための情報だけでなく想像のための余白をも読者に与えてくれる。リアルタイムでヒントが追加される中で推理を巡らせていくことは、登場人物の思考プロセスをそのまま追体験することにつながるのだ。結果として、圧倒的な没入感とともに物語世界を味わうことができた。傑作だと思う。
第四話「ハリガネムシ」もまた、音声だからこそ可能な仕掛けが用意されている。塾講師を務める主人公が、気に入った女生徒に盗聴器入りのプレゼントを贈る。しかし、盗聴した彼女の家にはただならぬ空気が漂っていて——。第三話と同様に臨場感のある音声となっているが、あちらとは異なり一瞬の間に突き落とされるような衝撃を味わえるのが愉しい。クリティカルな部分とひらめきが同時に訪れるので、どんでん返しの快感という観点では群を抜いた出来といえる。それでいて読み返してみると、意外にも大胆に伏線が張られていたことに気付かされる。短いながらも、隙のない作品である。
最終話「死者の耳」は、今までのどの音声とも異なる別種の驚きが用意されている。夫によるDVの証拠を押さえるため、友人から録音を頼まれた女性。しかし通話口から彼の死が知らされ、程なくして友人も転落死体となって発見される。この話は刑事が主人公なだけあって、本短編集の中で最もミステリ色の濃い物語となっている。そのため複数の関係者に聴取を行うシーンが何度か登場するが、意味深な描写がそこかしこに存在するため、読者目線では誰も彼も疑わしく見えてくる。何しろこっちは今まで著者の叙述にさんざん欺かれてきたのである。誰が黒幕なのか、最後の音声で何がわかるのか。方々に推理や想像を巡らせたあと、待ちきれなくなってQRコードを読み——またも打ちのめされる。あとで振り返ってみると、ある一つの仮定から素直に状況を再構築していれば、小説だけでも充分推理できたのではという気にさせられるから不思議なものだ。悔しい。しかしこの話はそれで終わらない。真相が判明した爽快感となおも残り続ける違和感、そして新たに生じる謎。それらが混ざりあって独特の余韻を生み出している。個人的にはもっと詳細な手掛かりが欲しいと感じたが、本作のコンセプトを踏まえれば、小説の情報量がある程度絞られているのも至極当然のことかもしれない。
さて、全作を一通りさらってみたが、一貫して感じられるのは視覚情報と聴覚情報の間にある「ズレ」への意識である。一般に、小説の読者は「神の視点」を持つといわれるが、実際には誰か一人の視点に偏重していることが多い。本作はその傾向を悪用し、結果として生じる情報の欠如を補填するものとして音声を提示する。これは誰か一人の視点ならぬ「聴点」に立つことを要求する行為であり、同時に「神の視点」の欠陥を暴きたてる機構としても働く。そう、端的に述べるならば『きこえる』は一時的に他者になり替わる装置なのである。その没入感は文字情報の比ではない。
ただ単に「きこえる」だけでは留まらない、圧倒的な読書体験を味わうことができるので、是非読んでみてはいかかだろうか。
(燦)
* * *
「やっと書き終わった...…」
ファイルが無事アップロードされたのを確認して、僕は背もたれにのけぞった。
思い出したように寒気と眠気が同時に押し寄せてきて、思わず膝上のブランケットをぎゅっと握りしめる。夏が終わって冬が来た、と冗談交じりに言われるほど今年の気温は下がるのが早く、特に夜は椅子の間近で電気ストーブをフル稼働させても冷えるほどだった。
PCの画面では、今しがた原稿を提出したフォルダが映し出されている。頼まれたBLACK HOLEの原稿は1000字程度でいいはずだったのに、作品の魅力を夢中で語っていたら倍の字数をゆうに超えてしまっていた。今日こそは期限通りに提出しようって決めてたのに。明るい画面を眺めていると、にわかに頭が痛くなってきた。
PCを半ば乱暴に閉じて、机の他のスペースに視線を移す。乱雑に本や講義のレジュメやその他もろもろが無計画に積み上がっており、新たに物を置く余裕がない。床には極力物を置かないようにと気をつけていたらこのざまである。結局片付けすらまともにできなかった。後悔とともに、頭痛が酷くなっていく。思い返せば一日中バイトのシフトに入った時も、締め切りに追われて徹夜でレポート3つを書き上げた時も、オーバーワークの後はいつもこんな感じだった。大振りな鈴が脳内で転がっているような、気味の悪い鈍痛が頭を苛んだ。
こめかみを押さえながらブランケットを手近なところに掛け、壁際のベッドへと向かう。そのまま倒れるように潜り込み、枕元をあさった。充電中のケースからノイズキャンセリングイヤホンを取り出し、両耳に装着する。かなり値は張ったが、高性能という謳い文句に見合った優れものだった。瞬時にさざ波を数百倍に薄めたような静寂が聴覚を支配し、外界と自分を隔てる膜が張られたように感じた。手探りで毛布をつかみ、そのまま引っ被ってきつく目を閉じた。後頭部が軽く引っ張られるような感覚とともに、意識が遠ざかっていった。
次に目を開けたとき、そこは明らかに夢だった。視界がはっきりしないが、これは——どこかの道路のようだ。辺りは真夜中のように暗いが、まだ起きている人もそれなりにいるのか、ぼんやりと明るくなっている箇所がある。その光源を確かめようとしたが、視点が固定されているようで首ひとつ動かすことができない。いや動かすとか以前に全身の感覚がおぼろげで、そもそも存在するかも分からない。まるで怪談話の幽体離脱みたいに、中空から俯瞰した地上の様子が目の前で再生されていた。
ぼんやりと眺めていると、だんだん視界が明瞭になってきた。
アスファルトらしき地面の上で誰かがうつ伏せに倒れている。こちら側から顔を確認することはできないが、ぴくりとも動かないのが不気味だった。程なくして調子外れなサイレンの音が近づいてくる。気付けばそこに救急車が停まっていて、倒れていた人が担架で車内に運び込まれるところだった。その瞬間、担架に乗せられていた人間の顔が一瞬だけ見えて——。
甲高い音がした。聞きなれない音だが、鳥の鳴き声のようだ。
なんだか息苦しいような気がして、壁の方向へ寝返りを打つ。
程なくして、女性の声もおぼろげに聞こえてきた。誰かが路上で立ち話でもしているのかもしれない。
......それにしても。
もう朝になったのだろうか。周囲が明るんでいるのは、目を開けなくても分かった。しかし困ったことに、まだ全然疲れが取れていない。嫌な頭痛も依然として続いていた。何しろ夜遅くまで作業を続けていたのだ。幸い今日は休日だし、急いで片付けなければならない課題もない。だからもう少しの間寝ていたってバチは当たらないはずだ。
そこまで考えて再び毛布を被ったが、なかなか思うように寝付けなかった。
心なしか、外界の音が少しずつ大きくなっていっているような気がしたのだ。側頭部がずきずきと痛む。
「......うるさいな」
独り言とともにイヤホンを耳奥までねじ込んだ。するとまた音が遠ざかっていくような感覚がして、同時に頭痛も少し遠のいたような気がした。新たな眠りを待つ間、ふいにさっきまで見ていた夢のことが頭に浮かんだ。目が覚める直前にちらっと見えた、救急隊員の身体の隙間から覗くあの表情は——。
よく見知った顔のような気はしたが細部が思い出せなかった。さらに記憶をなぞろうとした瞬間、強烈な睡魔の波が訪れた。また一段と外界の音が遠ざかる。調子の外れたサイレンも鳥の鳴き声も誰かの声も鈍い頭の痛みも、全てが意識の外側へと逃げていった。
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