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京極夏彦〈百鬼夜行シリーズ〉全レビュー|第11回:『今昔続百鬼 雲』

2023年9月、京極夏彦の〈百鬼夜行シリーズ〉最新作『鵼の碑』が、17年の時を経てついに刊行された。第1作『姑獲鳥の夏』刊行からおよそ30年、若い読者には、当時まだ生まれてすらいなかった者も多い。東大総合文芸サークル・新月お茶の会のメンバーが、いま改めて〈百鬼夜行シリーズ〉と出会う連載企画。毎週火曜更新予定。

 本作は『メフィスト』に掲載された中編3編に書き下ろし1編を加えた、百鬼夜行シリーズの外伝的な性質を持つ作品である。「行状記」の体裁を取っており、タイトルにはいずれも妖怪の名が冠されている。

 物語の主人公は沼上という男だ。青年時代に各地の「伝説」が持つ魅力に目覚め、年月が経った今でも各地の名所や史跡を巡行している。しかし、旅の先々で奇怪な事件に巻き込まれてしまう。そして、そうしたトラブルの発端はいつも、彼の同行者である「センセイ」こと多々良勝五郎によってもたらされるのである。センセイは肥満かつ短躯のおっさんで、大の妖怪好きである。その偏執ぶりといえば妖怪の話題が出ると他のことが全く目に入らなくなるほどであり、その度に周囲の人々に(主に沼上に)迷惑を掛けまくっている。おまけに思いつきで喋ったり計画を変更したりする短絡さといい、高慢で他責的な性格といい、あらゆる業を煮詰めたような人物であることが窺える。端から見るぶんには面白いだろうが、絶対に友達になりたくはない。このように人間性は壊滅的だが、センセイの妖怪に関する情熱は本物だ。彼は蘊蓄とこじつけと言葉遊びに溢れた絵解きを通して、江戸時代の画家・石燕の画図に新解釈をもたらしていく。いっぽうの読者は豊富で広範な知識に圧倒され、突飛な連想に瞠目させられる。よくもまあここまで分析ができるものだと思う。しかし、陰謀論のように止め処なく繰り出される妖怪談義が思いもよらぬ形で事件に新たな風を吹き込むこととなる。

 各話についても軽く触れていこう。

 第一話「岸涯小僧」では、溺死体となった被害者が今際の際に発した「カッパ」という言葉を「河童」と解釈したセンセイが謎解きに奮起する。真相があっさりと明かされ、後追いのように推論が行われるが、ある程度の蓋然性をもって「カッパ」の真意が導けるところがミステリとしての納得感につながっている。

 第二話「泥田坊」では、特定の日にすべての家が物忌みをし、占いをする人だけが宮籠りを行うという風習を持つ村で発生した殺人事件を描く。雪密室が登場するが、これまたあっさりと真実が明かされる。伝承の分析にとどまらず、被害者の言葉においても多義的な解釈が生まれている点に言葉遊びの妙味が感じられた。

 第三話「手の目」は、村の男たちが夜な夜などこかへ出掛けているという謎がはじめに提示される。その理由はすぐに判明するが、さらに厄介な問題が沼上たちを待ち受けていた。中盤以降の展開を見て色々な漫画が思い浮かんだが、トリックが予想以上に力技で逆に可笑しかった。事件の全体的な構成が当時の社会変動と密接に結びついた周到なプロットで、コミカルな中にも切実さが覗く印象的な回であった。

 第四話「古庫裏婆」では、沼上たちの東北旅行に、ふたりがかつて展覧会で目にした即身仏にまつわる謎がついて回る。この話に登場する謎はそれまでと比べてもいっそう不可解であり、予測不能な展開の先に身の毛もよだつような真相が待ち受けている。そして同時に読者は、本作が紛れもなく百鬼夜行シリーズの系譜にあることを否応なしに思い出すことになるのだ。

 各話において、センセイは今いる地域の伝承に関係している妖怪を勝手に仮定し、勝手に分析を進めていく。彼自身は事件にいっさい関心がなく、ただ大真面目に画図を解釈しているだけなのに、なぜか事件が解決してしまうという可笑しさがミステリ的な魅力にも寄与している。

 ここで中編集としての構成を俯瞰してみると、センセイが事件にもたらす影響が少しずつ異なっていく点が興味深い。第一話は全くの的外れで自動的に、第二話と第三話では彼の台詞を勝手に深読みした犯人がその場で自白することでなし崩し的に、事件が解決する。最終話でも似たような展開となるが、そのことが災いした結果ふたりは窮地に追いやられる。この効果について考えてみたとき、最終話の演出に思い至る。すなわち、「なぜか事実だけが明かされ、後追いで真相が判明する」という型が「事実は明らかになったのに、事件が何ひとつ解決しない」展開をスムーズに導き、満を持して憑き物落としが登場する。の存在が唐突ながらもすぐに物語に馴染んで見えたのは、こうした巧みな話構成による効果なのかもしれない。

 では、なぜこのような——沼上たちを主役に据え、最後だけ中禅寺が掻っ攫っていくような構成が取られたのだろうか。

 第一話から第三話までを影で貫くテーマとして、開発に伴う地縁共同体のアイデンティティの希薄化がある。あやかしの仕業と思われた事件は、いずれも今を生きる人間の意思によって引き起こされていた。偶然の産物ではあるが真相が紐解かれるうちに、やはり妖怪など創作に過ぎず、今となっては時代遅れの存在でしかないのだという雰囲気が物語のなかに漂う。しかし一方で、作中では以下のような問いが投げかけられる。

「そう云う、意味もなく人を差別したり、不幸な目に遭わせたりするような悪ィ迷信はなくなった方がいいと、そう儂は思うんじゃ。事実なくなって来たわ。こら、良いことじゃ。(中略)でもなァ、それと一緒にな、土地土地の差ァもなくなって来た。どこも同じようになって来よった。するとな、悪ィ迷信と一緒に、儂等の暮らしの真ン中にあった、神さんも仏さんも、おらんようになってしまったように思うんじゃなあ。どうなんじゃろう、お客人。そうしたモノがなくなっても、村ァ村として残るものだべえか」

(講談社文庫版、p.387)

 妖怪も、それにまつわる伝承も昔話も言い伝えも、もとは生きている人間によって生み出され、語り継がれてきた存在だ。その地で過ごした人々が積み上げてきた歴史の、あるいは生活の証なのである。それらがいかに恐ろしいものだとしても、また時代遅れだとしても、後世に伝え遺していくべきではないのか。沼上たちも自らの研究の大義名分として同様の主張を行うが、実際の行動が伴っていないことを富美にたしなめられている。

 しかし、最終話で唐突に憑き物落としが登場し、あちら、、、の立場で真実を宣告することで、物語が突如として本当の怪異譚に変貌する。残酷な死を迎えた者の悪意がおぞましい形で顕現し、登場人物も読者も、怪異の存在を否応なしに意識させられる。幽霊も妖怪も確かにいる、、のだと、それまで何となく抱いていた観念がぶち壊される。ここに主人公が一般人であることの意味があるのではないか、と私は考えた。

 不思議じゃないかよ——中禅寺の決め台詞に悪態をつく、沼上の呆れ顔が目に浮かぶ。

 不確かな存在が不確かなままであること。きっと、それが光明なのだろう。

(燦)


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