京極夏彦〈百鬼夜行シリーズ〉全レビュー|第13回:『百鬼夜行 陽』
過去とはすべて物語である。なぜなら過去というものは、主観を通して再構成された体験の記憶であり、フィクションを含むからだ。そして、その過去を積み上げることにより形成される自己とは、物語からなる存在であり、人間はそれぞれ自らに都合の良い過去を生きている。各々のアイデンティティを決定づけているのは、過去という都合よく改変された物語であるのだ。
本来、客観的な視点からいえば、「この世には不思議なことなどなにもない」はずだ。しかしそれにもかかわらず怪異が生まれるのは、物語からなる人間が自らの物語と衝突する現実に直面したとき、主観世界において、超常的現象の幻視によって現実を修正しようとするからである。つまり怪異を語ることとは、裏面ではその人を構成する重要な物語について述べることになる。
文藝春秋から刊行された本書は、『百鬼夜行 陰』の続編であり、〈百鬼夜行シリーズ〉長編に登場した様々な人物のサイドストーリーを描く作品だ。憑き物落としを通してミステリ的な決着がつけられる本編とは異なり、ホラー小説として理性では割り切れない結末がおとずれるのが特徴的だ。もちろんシリーズ未読の読者でも楽しめるよう工夫されており、単品としてみても登場人物の人生と怪異とを巡る完成度の高い妖怪小説となっている。
個々の短編で主役となる登場人物は、そのほとんどが本編では脇役としてスポットライトを当てられることのなかった人間である。本作で語られるのは、その脇役たちがどのような物語をめぐって怪異に遭遇したかであり、それは脇役たちの人生そのものを語ることに他ならない。例えば「屏風闚」で語られるのは、『絡新婦の理』の登場人物である多田マキが長い人生の中でたびたび遭遇してきた、屏風越しに自らを覗いてくる黒い影という怪異であるが、この怪異には「うしろめたさ」という感情が大きな影響を及ぼしており、短編を読めばその感情、ひいてはその感情をめぐる物語こそが多田マキの人生を決定づけてきたことが分かる。このように、怪異を通してそれぞれの登場人物が抱えている物語をさらけ出すことこそが、本書の狙いとなっている。
「神は細部にやどる」というのは使い古された格言であるけれども、サイドストーリーである本書が雄弁に登場人物たちの生を語ってみせるのを見れば、京極夏彦が創り出す怪奇の世界が細部までの作り込みによって成立していることがよく分かる。それは最新作である『鵼の碑』のサイドストーリーが、2012年刊行の本書ですでに先行して書き上げられていることからも明らかだ。逆にいえば、本書を読むことでシリーズの細部を知ることは、本編の物語への理解を深めることにもつながるだろう。
(葉月)
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