京極夏彦〈百鬼夜行シリーズ〉全レビュー|第4回:『鉄鼠の檻』
拙僧が殺めたのだ───。
雪深い箱根の山中にひっそりと佇む謎の寺院、明慧寺。
俗世から隔離されたこの寺院で、次々と殺されていく仏弟子たち。
埋没した経蔵と、雪の山中を駆ける赤い振袖の童女の謎。
箱根に起こるこれら数々の怪奇の正体とは。
外界と断絶した寺院を舞台に、京極堂が謎に挑む百鬼夜行シリーズ第4弾。
「レンガ本」や「鈍器」などと称されるように、京極夏彦の小説はとにかく分厚い。そして重い。筋トレに使えるという話も強ち間違いではない。合計1341ページに渡って繰り広げられる物語は、もはや活字の暴力である。
しかし一度読み始めたら、ページを捲る手が止まらない。
そして、読み進めていくほどに話は面白さを増していく。京極堂の蘊蓄は味わい深く、ミステリを楽しみながら"禅"についての理解も深まる。博識に裏付けられた物語の圧倒的な情報量。これこそが、百鬼夜行シリーズの醍醐味である。本書を読み終えた読者にはきっと、大量の蘊蓄と確かな筋力が備わっていることだろう。
さて本書は宗教、特に禅と悟りをテーマとしたミステリ小説である。
箱根の奥深い山中。法衣の黒と、雪景色の白。さながら水墨画のような白と黒の世界において、唯一色を持つ赤い振袖の少女の存在が、情景の美しさを更に際立たせる。
しかし、本書の本当の美しさの所以は、その物語の構造にある。
冒頭。拙僧が殺めたのだ、という僧侶の告白。そこに続く一連の問答。
禅の言葉で語られた殺人の動機は、到底我々読者に理解できるものではない。
つまり本作は、本質的にホワイダニットのミステリなのだ。
拙僧が殺めたのだ。では、なぜ殺さなくてはならなかったのか。
その答えは本書を読み進める中で徐々に明らかになっていく。
しかし、同時にそれは、本来語りえぬものでもある。
鉄鼠と十牛図。
人と仏。
公案と回答。
魔境と悟り。
〈内部〉と〈外部〉。
そして、檻。
そこに檻があるからには、閉じ込めるべき何かが存在する。
閉じ込めなければならない理由がある。
檻は概して〈内部〉と〈外部〉を分ける機能を持つ。
しかし、我々の"脳"という器官はその檻の中に外側すらも内包してしまう。
檻の中の檻の中の檻の中の檻。
繰り返される多重構造から、〈外部〉へ脱出すること。
これがある意味で本書の重要なテーマとなっていることは疑いない。
話を読み進める中で、禅の全体像を把握できるところも素晴らしい。
禅宗の教義である"不立文字"にあるように、"悟り"は文字や言葉では表せない。言葉にしようとした時点で、それはもう本来の意義を失ってしまう。
つまり禅宗とは、言葉を否定する宗教だといえる。
しかし京極夏彦は、それを理解しながらも物語という言葉を用いた媒体で、禅、そして悟りを描こうとした。この一種の自己言及的な構造の美しさこそ、この作品を傑作たらしめるものだろうと、私は考える。
張り巡らされた物語の伏線は終盤の一点に収束する。
京極堂による"憑き物落とし"の結末はいかに。
そして、我々を閉じ込める<檻>とは一体何なのか。
『鉄鼠の檻』。京極夏彦の禅宗に対する圧倒的な知識量に裏付けられた、百鬼夜行シリーズ随一の傑作である。
(マキムラ)
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