【短編】 登山のご縁#3(半分のみかん)
翌朝早く目覚めた母の洋子は、枕元の名刺を手に取り、その色褪せた名刺を暫く見つめていた。
そして、名刺を頂いた26年前の情景を鮮明に思い出した。
秋晴れの絶好の行楽日和に、20代前半の洋子と親友の和美は霧島連山最高峰の韓国岳登山を楽しんでいた。
途中二人は、休憩をするための程よい岩を探し腰掛け、背負ったザックを「ヨイショ」と降ろした。
洋子は膝の上に置いた自分の赤いザックの中から、小ぶりの温州みかんを2個取り出し、和美に1個を手渡した。
さぁ食べようと思った時、洋子の右隣の岩に、体格のいい男性が腰掛けた。あまりの近距離に、彼の大きな左腕が自分の右腕に触れそうで少し戸惑った。
60歳くらいのこの方も、きっと喉が渇いているに違いないと思った。みかんを半分差し上げようか、失礼だろうかと躊躇したが、気がつけば温州みかんを半分に割っていた。
「どうぞ、少しですが」と差し上げると、彼は「ありがとう」と言って受け取った。
その後、私たちは会話をすることはなかったが、彼は別れ際に「何か困ったことがあったら訪ねて来なさい」と1枚の名刺を洋子に手渡した。
『福岡市博多区 大和株式会社 社長 大山 勉』と印字してあるその名刺と、思わぬ言葉に驚きながら「ありがとうございます」と頭を下げた。
休憩を終え、山頂を目指して登って行く初老の大きな背中が、今でも目に焼き付いている。
洋子はたった半分のみかんで、これほど喜んで頂けるとは、夢にも思っていなかった。
登りながら「品物より心遣いの方が嬉しい」という意味の諺を思い出していた。それは、亡き祖母が教えてくれた『搗いた餅より心持ち』だった。
下山してくる人たち誰しもが、すれ違い様に「こんにちは」と達成感を感じさせる表情で挨拶をしてくれた。その励ましに、息を切らしながら「こんにちは」と返す瞬間が好きだった。
頂上に着くと、疲労困憊した身体は韓国岳に臨む山々の紅葉に癒された。
そして、遠くに見える壮観な大浪池に向かって立ち、大空に両手を広げ「絶景かなー」と叫んだ。
山の頂きで、澄んだ空気を身に絡って英気を養い、下界の荒波を乗り越えて行く力を頂いた。
下山しながら、頂上を目指して登って来る人たちに「こんにちは」と声をかける心地良さは格別だった。暗黙のルールのような、登山の挨拶は本当に素晴らしい。
自宅に帰ると、本心から何かあったらお世話になるかもしれない、と名刺を大切に机の引き出しにしまった。
たまにその名刺を取り出しては、大山社長を訪ねてみたいと思ったが、幸運なことに訪ねる理由が見つからなかった。
あれから長い歳月が流れた今、大山社長を訪ねてみようと思う出来事が起きてしまった。
つづく