保健室の先生の励まし総集編
私の通っていた小学校は、かつて祖父や叔母、義理の叔父が教師をしていた伝統のある古い小学校で、クラスを松竹梅で分けられていました。私の学年は、松組と竹組の2クラスだけでした。
私は、その小学校で3年生までは毎日が天真爛漫な日々でしたが、4年生から6年生までの3年間は、仲間外れにされて村八分状態のいじめを受けた辛い時期がありました。そして殆どの友達が同じ目にあっていました。
仲間外れの呪縛が解けると、明るく活発な自分に戻り、仲間外れをする側にまわらなければなりません。そして、また目立ってしまうと出る杭は打たれてしまうのです。その原因は、親の事を自慢したり新しいブラウスを着ていたりテストで満点をとったりと、大したことではないのですが、子供の単純な僻みだったのだと思います。
それでも6年間の通知票には、明朗活発と書いてありました。先生方は、いじめ問題を把握されていたのでしょうか。
こうして記憶をたどりながら認めていると、色々な事を思い出します。誰もいない校庭の角にあるブランコで、一人ゆらりゆらり揺れていたあの日、寝る前に『明日は変なことがありませんように』と書いた紙を枕の下に敷いて寝た日。
6年生の時、児童会長選挙に立候補する人があまりいなかったので、担任の先生に立候補するように促されました。断る勇気がなかったので仕方なく立候補しましたが、どうしよう…当選したら、仲間外れにされる不安でいっぱいでした。
その為に、一人で落選の策を練りました。思えば、実におかしな選挙対策です。
演説は短時間に済ませて、その原稿は簡単な箇条書きにしよう。
そして、同級生の女子一人一人に、どうか、私に1票を入れないでね、とこっそり頼んでみよう。
計画通り多くの女子に必死に頼み、そして祈りました。どうぞ、落選しますように、友達が協力してくれますように。
他の候補者は、長い立派な演説でしたが、私の演説は計画通りとても短い物でした。しかし、先生に悟られないように声は大きく元気良く演説をしました。
私の演説はあっさりしていたから、絶対に落選だ。他の候補者は上手だったし、と安心していました。
すると、演説会終了後に教室に入って来られた担任の先生が「この人の演説は、短くて分かり易く大変上手だった。他の人は話しが長過ぎて、まとまりがなかった」
クラス全員を前にして大絶賛されてしてまい愕然とし、どうしよう、当選したら…一抹の不安が過りました。
しかし、結果はめでたく落選したのです。嬉しくて嬉しくて、仲間外れにされない事が決定した瞬間でした。何よりも嬉しかったのは、私の願いを聞いてくれた友人たちの行動です。
私の本当の実力で落選したのかもしれませんが、とにかくお願いをした友人たちに感謝し、一人一人に「ありがとう」を伝えました。
しかしその後も、いじめの悪循環は変わることはなく、親には心配をかけまいとその事を言えずにいました。
かねてから、母の旧姓と同じ名字の保健室の先生に親しみを感じていたので、思いきってその先生に相談をしました。
若くて美人の先生は、私の話しを真剣に聞いてくださいました。私の顔を覗き込むように、力強い眼差しで『貴女は強いのよ。いじめる人は可愛いそうな人、だから大丈夫』
その言葉に大きな刺激を受け、勇気がふつふつと湧いてきました。そうなんだ『私は強いんだ、強いんだ』と、何度も自分にいい聞かせました。
励まして頂いた後に、引き出しから何やら取り出して私にくださいました。それは小さいケースに入った、エメラルドグリーンの透き通った宝石のような石鹸でした。香りも良く心が穏やかになっていくようでした。
保健室のドアを開けて、一歩踏み出した時、廊下のガラス窓の向こうに見える校庭の景色が、明るく違う世界になっていました。世の中が180度変わった、とも感じました。
多分、私の表情は晴れ晴れしていたと思います。その時から強い精神という事を学び、今日に至ります。
頂いた石鹸は使わず、自分の部屋で密かに眺めては香りを楽しんで、心地良い気分になっていました。
自分が母親になった時、子供がそのような状況に陥ってしまったら、保健室の先生に励まして頂いた言葉で立ち直らせよう。そんな遠い未来の事までも考えました。
多感な年頃の3年間の苦しい試練は、机上ではできない学びがありました。私だけでなく、他の同級生の殆どの女子も同じ経験して大人になりました。
先生、あの時に励ましてくださって、本当に有り難うございました。
保健室の先生のお陰で、水を得た魚のように本来の明朗活発な6年生へと蘇生し、いじめの解決策を模索していました。小学校の卒業式を迎えようとしてしていた頃、名案が浮かびました。『中学生になったら、もういじめはやめて仲良くしようね』と、その彼女に話してみよう。
私が強くなったとはいえ、一人で話しをするには若干の不安があったので、他の同級生たちに、彼女の家へ行ってみようと誘ってみました。
有難いことに、賛同者が18人前後集まり、列を成さず賑やかに田舎道を歩いて彼女の家を目指しました。
なこかい、とぼかい、なこよっかひっとべ(泣こうか、飛ぼうか、泣くより飛んでしまえ)の如く。この変わりように一番驚いたのは自分自身でした。
「小さい小学校から、全校生徒1200人位の大きな中学校へ行く訳だから、仲間外れをしないで友達として仲良くしていこうね」そんな主旨のことを伝えました。
私たち田舎の小学生は、無事に中学生になり特に揉め事もなく中学生活を楽しんでいました。
中学2年生になると、その彼女と同じクラスになりました。その頃に知ったのですが、彼女は私が『みんなを引き連れて自宅にいじめに来た』と他の小学校から来た友人に言っていたそうです。
そんな事を微塵も思っていなかったので驚き、誤解を解かなげればと思いました。
その彼女の家へ行くことは、純粋な気持ちで取った行動でしたが、彼女にしてみたら、小学生の集団が積年の恨みを晴らしに、敵地へ乗り込んで来たかのように感じたのかもしれません。
ある日、廊下を歩いていた彼女に近づき「みんなで貴女の家に行った時、中学生になったら仲良くしていこうね。と話したよね」と優しく言いました。
すると、俯いた彼女の目から涙がポロリとこぼれ落ちたたので、そっと肩に手を回して慰めました。そして、その涙を心から信じることにしました。それから私たち二人は、仲良くなり、別々の高校へ進学した後も交流は続きました。
なにしろ今まで子分だった同級生の女子たちが、まるで反旗を翻したかのように、突然押しかけてきたのですから、流石の彼女も困惑したのだと思います。
しかし誰も彼女を罵倒せず、言い出しっぺの私が、穏やかに話しただけだったのですが.......
中学校を卒業し、私と彼女は別々の高校に進学しましたが、電話をしたり時々会って遊んでいました。高校を卒業すると、彼女は東京で私は田舎で社会人になり、何年かに一度会うだけで、年賀状のやり取りぐらいの付き合いになっていきました。
たまに東京で会う時は、いつも素敵なお店を予約してご馳走をしてくれました。
次男が大学受験で上京した時、私もついて行ったので、待ち合わせをして会う事になりました。
携帯電話を片手に「今何処にいる?周りにはどんな物が見える?」とお互いに言っていると、見ている景色が全く同じだと気がつきました。しかし、お互いの姿は見えません、こんな不思議な事があるとは、まるで狐につままれたようでした。
待ち合わせ場所に一つの電話ボックスがあり、お互いにほど良い距離でその周りをグルグル回っていました。携帯を持ったまま「あっ」と言って、気づいた時にはお腹を抱えて笑いました。
3年程前に彼女が帰省した時、私が空港でランチをご馳走する予定でした。しかし、彼女が奢ると言って譲らなかったので、またもやご馳走になりました。
その時、高校の同級生の男性から「子供の頃、やんちゃだったらしいね、と言われた」と言って苦笑いをしていました。
そんな昔の事なんか、と笑い飛ばせば良かったのに真顔になって沈黙をした事を少し後悔しています。
彼女は、レントゲン検査技師の資格を取得して、大きい病院で働いていました。私生活では、離婚をしてシングルマザーになっていましたが、二人の娘さんを有名私大に出し就職させて、立派に育て上げていました。
「じゃあ元気でね、また会おうね」と、軽く手を振り別れました。自宅に帰り着くと『小学生の頃、われこっぼ(いたずらっ子)だったのに、今までずっと仲良くしてくれてありがとう』と、メールが届いていました。実家に向かうバスの中から送信したようでした。私はそれを読みながら、良心の呵責に苛まれている彼女の姿が目に浮かびました。
昨年の11月に彼女に出した、義父の喪中はがきが戻ってきてしまいました。戻って来たそれを眺めながら、そう言えば東京のマンションを買い換える話しをしていたから、引っ越したのだろうなと思いました。たまにLINEをしても返事がなく、月日は過ぎていきました。
今年の春に名古屋在住の友人が「年賀状をAちゃんに出したけど戻って来たのよ。ちょっと心配になってね」と電話がありました。
「私が出した葉書も戻ってきたのよ、でもこの前空港で会った時は、元気だったよ。乳癌の手術をして5年が経って経過も良好みたいだったから」と言うと少し安心したようでした。「何か分かったら教えてね」と頼まれ電話を切りました。
それから暫くして夢を見ました。
彼女は、中学の同窓会に出席する為に帰省していました。彼女はロングヘアーで若い頃の容姿でした。しかし周りの風景は明るいのに、彼女の身体は灰色で、沈んだ気持ちで佇んでいるように見えました。「なんだ帰省してたの、何処にいるか心配してたんだよ、元気だった?」と聞いても何も答えず俯いていました。その夢を時々思い出しては気になっていましたが、嫌な予感がして消息を確かめる勇気がありませんでした。
ある日、その友人の事をやっぱり確めよう、そうだあの人だったら分かるかもしれない、と行動に移す事にしました。
あの人とは、その友人の高校時代の友達で会社経営者の女性です。電話番号はネットで調べれば、なんとか分かるかも知れないと考えて直ぐに調べました。
調べがつき電話をすると、会社を幾つか経営するやり手だけあって、忙しいらしく留守でした。「こちらから折り返し電話をかけさせます」とスタッフの方が言われました。それから暫くして電話が鳴りました。不吉な予感が当たるような気がして、私の心臓が『ドク、ドク、ドク』と音を立てました。緊張の面持ちで電話に出ると、その経営者の方でした。
「電話を頂いたようですが、私の同級生ですか?」
「同級生というか、同じ年齢ですが、同じ学校に通った事はなくて…
つまりAさんの友達でして、彼女の事が気になって、それで、あのぅご存知ないですか」緊張のあまり、しどろもどろになってしまいました。
「実は彼女は2年位前の2月に、亡くなったんですよ。まだコロナが流行る前でしたね」
「そうですか、全く知りませんでした。去年の11月に出した義父の喪中はがきが戻ってきたものですから.......乳癌が悪化したんでしょうか」
「いえ、そうではなく…自死でした」
「どこでお知りになりましたか?」「東京在住の1年先輩の女性から電話を頂きました。二人の娘さんを東京に残して、大阪のお姉さんの所で養生をしていたから大丈夫だ、と安心していたんですが…」
私は、彼女が諸事情で精神的に参っていたのだろうと察して、矢継ぎ早に質問をする事をやめました。
その経営者の方に教えてもらった後、直ぐに名古屋の友人に電話で報告をすると「何も相談に乗ってあげられなかった、私の怠慢だな、ショックだな、いつか一緒にお墓参りをして、彼女の想い出話をしようね」と消え入りそうな声で言いました。
彼女は離婚の苦労もありましたが、努力をし仕事では管理職を務めていました。
「部下の結婚式でスピーチをすることがあってね、都内ばかりじゃなくて遠くまで行くこともあるのよ」と何気に話す彼女の顔は嬉しそうでした。
「部下がいるって凄いわ」
最後のランチになってしまった時の会話を鮮明に覚えています。
彼女は都会で洗練され、ちっともおばさんらしくなく、生活感を感じさせない美人のキャリアウーマンになっていました。
何故亡くなってしまったのか、世を儚むような出来事があったのか、今となっては知る由もありませんが、詮索したところで仕方のない事です。
友人の夢を見た時に、もしかしたら亡くなっているかもしれないと、悪い予感がしたのですが正夢になってしまいました。
次の夢で会う時は、俯かずお互い笑顔で話せるように祈りたいと思います。
20年程前、私の娘が小学5年生の時に、あわや登校拒否か、という事がありました。
ある朝、ランドセルを背負って登校の準備はすでに整っているのに、洗面所から動く気配がありません。鏡の前で、何度も前髪を撫でるように触っていました。これは何かあったのかもと思い、娘を居間に呼んで椅子に掛けさせました。
「学校に行きたくないの?」と聞くと、心ここにあらずという様子で、無言のままでした。
「どうしたの、誰かにいじめられたの?」
「誰も話しをしてくれない」とようやく口を開きました。
私は、自分の小学生時代の辛い記憶が一気に蘇り『ついにこの日がやって来た』と心配をするような、やる気が出たような複雑な気持ちになりました。
私は確固たる自信を持っていました。それは子供の頃から、将来自分の子供が辛い状況になったら、保健室の先生に励まされた、あの言葉で立ち直らせよう。と小学生ながらも強く心に決めていたからです。潜在意識に深く刻まれていたのだと思います。
「誰も話しをしてくれなくても、遊んでくれなくても堂々として、私は平気、という顔をしていなさい。弱々しく下を向いて、びくびくしていると、益々誰も話しをしてくれないから、貴女は強いから大丈夫、いじめる人は可愛いそうな人だから」と娘を励ましました。何十年も前のあの日の保健室の先生のように。
『これはお母さんのお守りです』と書いた小さい紙を見せて、更に小さく折り畳んで筆箱の中に忍ばせてあげると、明るい表情に変わりました。幸い小学校が近い事もあり、焦らずゆっくり話して聞かせる事が出来ました。
登校する娘の背中を見送りながら、無事に学校に行ってくれた、遅刻をしないで良かったと安堵しました。
娘が帰るいつもの時間に、玄関の引き戸がガラガラーと勢いよく開き、開口一番「おかーさーん。友達が話しをしてくれた」と台所の奥で家事をしている私に聞こえるように、大きな声で言いました。拍子抜けするぐらいのスピードで問題が解決しました。
早期発見、早期対処が功を奏し私の辛い経験が生かされた、と確信した出来事でした。
そして忘れてはならない、保健室の先生との想い出がもう一つあります。
私の初月給で弟と1学年下の従姉妹に、夕食のご馳走をするためにレストランへ連れ出した日の事です。
同じ場所で、その保健室の先生と小学生の娘さんが食事をされていました。先生の優しい笑顔は、何も変わらず心が和みました。少し事情を話しただけで、私たちは先生のテーブルから10メートル位離れた席に腰掛けました。
食事をしている途中で、注文をしていない筈のジュースを3人分ウエイターの方が持って来られました。
怪訝な顔の私に向かって「あちらの方からです」と言われました。
それは、久し振りに偶然に会った保健室の先生からのプレゼントでした。先生の方を向いて、小さな声で「ありがとうございます」と言うと、微笑んで頷かれたのです。社会人になった私の方が、あの日に保健室で勇気を頂いたお礼をするべきだったのではと、今更ながら思っています。試練を乗り越えた先には、成長した自分がいると諭して下さったのだと、あれから50年以上経っても忘れずに感謝しています。
昨夜、次男が撮影したばかりの中秋の名月の写真を、追悼の文章に添えて良いから。と送信してくれました。
心からご冥福をお祈りいたします。
完
※こちらは過去記事の『保健室の先生の励まし①、②、③』を加筆修正しまとめたものです。