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「軽音楽」とは呼ばせない!・・・アメリカの代表的管弦楽作曲家ルロイ・アンダーソン

新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は「そりすべり」や「クリスマス・フェスティバル」がクリスマス時期になると多く演奏されるアメリカの作曲家ルロイ・アンダーソン。「アメリカ軽音楽の大作曲家」(ジョン・ウィリアムズ)と称される人物の生涯や作品の特色から、この作曲家の「実像」を知ってみよう!という回です。「軽音楽」「ライトクラシック」と呼ばれる音楽ジャンルは果たして「正しいカテゴリ」のなのか・・・皆さんはどのように感じるでしょうか?それでは今回もごゆっくりお読みください。


クラシック音楽、そしてさまざまな音楽ジャンルにおいて「親しみやすい音楽」や「鑑賞しやすい入門向け音楽」というものがある。そのような音楽のことを「軽音楽」「ライトクラシック」と呼ぶこともある。またポール・モーリア楽団などに代表される、ポップス寄りの作品を演奏する「イージーリスニング」と呼ばれるものもある。

アメリカにおいて、いわゆる「ライトクラシックの大作曲家」として認知されている人物がいる。その名はルロイ・アンダーソン。しかしながら、僕はアンダーソンを「軽音楽」の作曲家と認識することには疑問を感じてきた。その業績や人となりを知ることで、アンダーソンが「クラシック音楽の作曲家」としてもっと評価されるべきだと感じていただけると思っている。

ルロイ・アンダーソンが生まれたのは1908年、今から113年ほど前ということになる。日本は明治41年、明治時代の末期にアンダーソンは生まれたことになる。新日本フィルとも関わりが深い指揮者の朝比奈隆も、1908年生まれ、アンダーソンと朝比奈は「同学年」ということになる。生誕の地はボストンが中心都市であるマサチューセッツ州ケンブリッジ、ボストンとは川を隔てた対岸に位置する現在人口約10万人の都市である。アメリカにはイギリスの地名と同名の土地が多いが、このケンブリッジもそのような名前の都市のひとつだ。元祖イギリスのケンブリッジは大学のある町として有名だが、このアメリカのケンブリッジもマサチューセッツ工科大学(MIT)やハーバード大学がある「学生の町」なのだ。

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ハーバード大学図書館

両親はスウェーデン系の移民で、父は郵便局員、母は教会オルガニストをしていた。音楽に溢れた家庭環境だったようで、アンダーソンは母親からピアノの手ほどきを受けて育った。地元のハイスクールを経て、「地元の大学」であるハーバード大学へ進学し音楽を学ぶ。アメリカほか欧米の場合、ハーバードのような総合大学にも音楽学部があり、それとは別に「音楽院」という単科大学もある。一概には言えないが、どちらかといえば総合大学の音楽学部は「学問的」要素が強く、音楽院は「実技的」要素が強い。アンダーソンは世界を代表する名門大学の一つであるハーバードで音楽を学び、音楽学士号と音楽修士号を得る。ハーバード出身の有名な音楽家といえば、「ウエストサイト物語」の作曲者として、そして大指揮者としても知られるレナード・バーンスタインなどがいる。アンダーソンが和声を学んだのは「ルーマニア狂詩曲」などで知られるジョルジュ・エネスク、作曲法を学んだのはアメリカ作曲界の重鎮で「和声法」や「対位法」、「管弦楽法」などの名著で知られるウォルター・ピストンである。我々が想像している以上に、アンダーソンは本格的にクラシック音楽を学んでいたことになる。その確かな基礎の中に彼の作品が成り立っていることを忘れてはいけない。


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ジョルジュ・エネスク

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ウォルター・ピストン

大学院を修了後は、地元のラドクリフ大学(女子大学で現在はハーバード大学に合併されている)で教鞭をとりながら、バンドマスターやコントラバス奏者、アマチュア合唱団の指揮者などをしていた。

そこから作曲家に転身・・・という道をアンダーソンはすぐには歩まなかった。むしろそのことが「作曲家アンダーソン」の足腰を強くしたともいえる。彼は母校ハーバード大学の研究員となる。しかも「言語学」の研究員となったのだ。彼は1942年、ちょうど太平洋戦争開戦の年であるが、音楽家として自活していく道を選ぶまで、言語学者として両親のルーツであるスウェーデン語やノルウェー語、アイスランド語、デンマーク語といったスカンジナビア諸国語や、オランダ語、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ポルトガル語といった多くの言語の研究をしていたのである。「音楽と言語学は密接な関わりを持っている」とはよく言われることであるし、「音楽家は言語を聴取する際に音楽を覚えるように記憶するので、外国語の習得が早い」と言われるにしても、アンダーソンの他言語への造詣の深さは特筆に値する。同じスカンジナビアにあって、フィンランド語だけを習得していないのは、おそらくフィンランド語が他のスカンジナビア諸言語とは言語体系が異なるからであると推察される。なおアンダーソンは1935年にはゲルマン語とスカンジナビア諸言語の研究により博士号を得た。彼は「音楽学士」「音楽修士」そして「言語学博士」なのである。

そんな「音楽にも詳しい言語学者」であったアンダーソンに転機が訪れた。それはある意味、ハーバードに戻ったことが運命の分岐点であったといえる。1938年に小澤征爾が長年音楽監督を務めていたことでもお馴染みのボストン交響楽団のマネージャーからの求めで、ハーバード大学の学生歌の編曲を依頼され提出した。それがボストンポップス(母体は首席奏者を除いたボストン交響楽団で、夏の一時期のみ活動するポップスオーケストラ)の指揮者として一世を風靡したアーサー・フィードラーの目に止まり、彼にその才能を激賞されたのである。それをきっかけにアンダーソンは自作の管弦楽曲を作曲するように求められた。このエピソードもまた「アメリカンドリーム」的なエピソードだ。幸運はどこに隠れ、どこで待っているかわからない。芽は出なかったが、一応言語学を大学で専攻した僕も勇気付けられるような気がする・・・。


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アーサー・フィードラー

そして書かれた曲が「ジャズ・ピチカート」という作品で、聴衆にも大いに好評だった。そのため、フィードラーに「君、続編も頼むよ!」ということで、今度は「ジャズ・レガート」という対照的な作品を作曲した。そんな折、アメリカは第2次世界大戦に参戦、アンダーソンも入隊した。そこで今度は「言語学博士」であることが活きて国防総省(ペンタゴン)でスカンジナビア語担当の情報将校となる。まさに「芸は身を助ける」だ。戦争終了後は再び音楽活動に復帰する。

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ワシントンD.C.のペンタゴン・メモリアル

戦後のアンダーソンは「ヒット曲」を連発する。まずは「時計の秒針」のようなリズムのウッドブロックが特徴的な「シンコペーデット・クロック」が最初のヒットとなり、ゴールドディスク大賞を受賞、ビルボードチャートの最高位は11位というヒットとなった。日本で例えるならば「レコ大を受賞してオリコンでも上位」といった感じだろうか。そのような実績だったら大晦日に「白組で紅白初出場」しているような輝かしい実績だ。「ヒットチャート」といえば歌謡曲のイメージが今では強いが、この時代はオーケストラの作品もヒットチャートにランクインするような時代だったのだ。アンダーソンを見いだしたフィードラー指揮、ボストンポップスのアルバムの数々もヒットチャートの常連であった。その他、個人的には「アンダーソンの美しく青きドナウ」であると思っている「舞踏会の美女」はヒットチャートのトップになったこともあるし、「ブルータンゴ」は歌のない楽曲で初めてのミリオンセラーを記録した。アンダーソンはその当時のアメリカ音楽界を代表する「ヒットメーカー」だったのだ。1953年の調査では「アメリカのオーケストラで一番演奏されている作曲家」は、何を隠そうルロイ・アンダーソンであったそうだ。そんなヒットメーカーは1975年に没するまで、多くの管弦楽作品を作曲し、アメリカのみならず世界各地のオーケストラで演奏され、聴衆に愛された。そして今でも彼の作品は演奏され続けている。作曲家の死後、パタリと演奏されなくなる作曲家の作品というのは多いが、アンダーソンは違う。それだけ作品に「魅力」があるからに他ならない。

アンダーソンの作品にはいくつかの特徴がある。まずは「タイトル名」に彼の特徴がよく現れている。言語学の専門家だったことが大きな影響を及ぼしているといえるが、「言葉遊び」のようなタイトルが多い。代表的なものとしては「フィドル・ファドル」や「プリンク・プランク・プルンク」が挙げられる。前者は「フィドル」というヴァイオリンの別名の単語を変化させつなげたもの、後者は「はじく」という意味の言葉を、まるで「比較級」「最上級」と変化させたようなユニークかつインテリジェンスな名前だ。ヨハン・シュトラウスの「ピチカート・ポルカ」と同じく、弦楽器のピチカートだけで作曲されている。日本語にするならば「はじいて、もっとはじいて、はじきまくれ!」という感じだろうか。

もう一つの特徴としては「特殊奏法」や「楽器ではない日用品」を使用していることだろう。そのような方法を使うことにより、アンダーソンは聴衆にオーケストラ音楽の楽しさを伝える「仕掛け」を施したといえる。特殊奏法としては「プリンク・プランク・プルンク」において、弦楽器の弦の指板(弦の下にある黒い部分)に弦をぶつけて弾く「バルトーク・ピチカート」という奏法や、楽器の本体部分を「指の腹で擦って」音を出す奏法を指示している。この「バルトーク・ピチカート」はその名の通り、ハンガリーの大作曲家バルトークが好んで採用した奏法で「弦楽器の打楽器的使用」がその目的である。

ここだけの話、弦楽器奏者としてはこの「バルトーク・ピチカート」と弦を弓の木の部分で叩く奏法である「コル・レーニョ」はあまり歓迎されない奏法だ。理由は楽器や弓を傷めてしまう恐れがあるからで、もし指揮者がリハーサルで「バルトーク・ピチカート」や「コル・レーニョ」の部分を執拗に合奏することがあったなら、その指揮者はオーケストラの弦楽器奏者から嫌われてしまう恐れがある・・・これから指揮者を目指す人はそのことを是非覚えておいてほしい。また、指の腹で擦る奏法も年齢を重ねるにつれ、脂分が少なくなってくると上手に擦れなくなってくる。ぜひ脂の多い若手奏者が頑張って大きな音を出すようにしていただきたい。

「そりすべり(そり遊びの方が適訳と言われているが、一般的にはそりすべりと言われている)」では、馬の鳴き声をトランペット奏者が担当する。オーケストラのオーディションに「そりすべり」があるという話は聞いたことはないが、オーケストラのトランペット奏者は、とても上手に「鳴く」ので演奏会ではその「鳴き声」にも注目していただきたい。

アンダーソンの作品には特殊奏法よりも「楽器ではないものを楽器として使用する」例がたくさんある。

まずは「タイプライター」という作品。まさにタイプライターを楽器として使用している。現代においてタイプライターを目にすることはなくなり、この作品でお目にかかる方が多いかもしれない。オーケストラの演奏会では定番の曲なので各オーケストラではタイプライターが楽器倉庫でその出番を待っている。オーケストラの中には、楽器としてより大きな音が出るように、文字を打ち込む部分に鉄板を装着して大きな音を出すように改造しているライプライターもある。

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タイプライター

次に「サンドペーパー・バレエ」。紙やすりを擦らせ音を出す。数種類の紙やすりを使用しその「音色の違い」を出すこともある。最近指揮棒の自作のため紙やすりを使用する。粗研ぎには120番、仕上げに600番の紙やすりを使っているが、「サンドペーパー・バレエ」に最も適した紙やすりは果たして何番なのだろうか・・・そんなことを考えながら指揮棒を作っている。


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本来の紙やすりの使い方

そして「そりすべり」では「ムチ」が使われる。木の板をパチンと重ね合わせることで音を出す場合と、革製の鞭で音を出すなど様々な試行錯誤をオーケストラの打楽器奏者がしている。また「シンコペーデット・クロック」では途中目覚まし時計のような音をトライアングルが出す。実際にそこで目覚まし時計の音を出す場合もあるが、今のところデジタルのアラームやスマホのアラーム音になったという情報はない。とはいえ実際にベル式の目覚まし時計を良いタイミングで鳴らすのは至難の技である。

物ではなく「人間の声」の場合もある。「ワルツィング・キャット(踊る子猫)」では、犬の鳴き声を人の声で出す部分がある。オーケストラ内の「モノマネ名人」が担当することが多いが、江戸家猫八師匠顔負けの声帯模写をする奏者がいて、オーケストラの人材の豊かさに関心することがある。

実のところ、このような「特殊楽器」を指揮者がやることも多く、芸の幅のない僕は毎回ドキドキしながら本番を迎える。タイプライターは流石にまだ「演奏」したことはないのだが、「シンコペーデット・クロック」のウッドブロックや目覚まし時計、「そりすべり」のムチ、「サンドペーパー・バレエ」の紙やすり、そして「ワルツィング・キャット」の犬の鳴き声など・・・。聴衆にとっても、オーケストラにとっても、いつも「カッコつけている」ような指揮者がアタフタしながらそれらを演奏するのを見るのは、非常に滑稽な姿に見えるに違いない。僕も何度演奏を失敗したことか・・・恥ずかしい限りである。

このような、いわゆる「冗談音楽」を多く作曲しているアンダーソンだが、このようなタイプの音楽を「ちゃんと聞かせる」ことは非常に高度な作曲技法やオーケストレーションの基盤がないと「安っぽい」曲にしかならない。アンダーソンにはその確固たる基盤があった。その証拠に現代まで作品が広く演奏されている。「聴いていて楽しい」だけではなく「演奏して楽しい」曲であり、指揮者にとっても「指揮していて楽しい」作曲家、それがアンダーソンだ。

このような楽しい作品の他にも「ファントム・レジメント」というややスローテンポの行進曲や、「春がきた」「忘れられた夢」など美しくも切ない旋律の作品も魅力的だ。またアンダーソンには隠れた名曲として知られる「ピアノ協奏曲」もある。このような作品も今後広く演奏されてほしいと願っている。

アンダーソンはヒットメーカーであり「多作」の作曲家である。毎年元旦にウィーンでは「ニューイヤー・コンサート」が開催される。名門ウィーン・フィルが「ワルツ王」ヨハン・シュトラウス一家の作品を中心にしてプログラミングするコンサートで、世界各地で視聴されている。僕はアンダーソンという作曲家は、アメリカにおける「ヨハン・シュトラウス」ではないかと思っている。いつかアメリカのメジャーオーケストラ、ボストン交響楽団やニューヨーク・フィルハーモニック、シカゴ交響楽団などがアンダーソンだけのコンサートを毎年のように開催してくれないだろうか・・・。クリスマス時期だけ「そりすべり」や「クリスマス・フェスティバル」を聴くことが増えたり、「タイプライター」や「シンコペーデット・クロック」が学校の音楽鑑賞教室や子供向けのコンサートで数曲演奏されるのではなく、アンダーソンを特集した演奏会をオーケストラがプログラミングし、「軽音楽」の代表的存在ではなく「クラシック音楽」の代表的作曲家としてアンダーソンを取り上げてほしいと願っている。

「多くの人に親しまれ」「多くの人を笑顔にして」「永く演奏され続ける」アンダーソン。彼を「軽音楽」「ライトクラシック」とレッテル貼りをするのではなく、1人の「作曲家」としてこれからもますます演奏され、聴かれることを願うばかりである。「クラシック」の間口を広げるための何かを、アンダーソンが持っているのかもしれない。

何故、そこまで僕がアンダーソンを推すのか?それは・・・アンダーソンの作品が大好きだからだ!

(文・岡田友弘)

【執筆者プロフィール】

岡田友弘(おかだ・ともひろ)
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻入学。その後色々あって(留年とか・・・)桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンも多くいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。現在、吹奏楽・ブラスバンド・管打楽器の総合情報ウェブメディア ''Wind Band Press" にて、高校・大学で学生指揮をすることになってしまったビギナーズのための誌上レッスン&講義コラム「スーパー学指揮への道」も連載中

岡田友弘.jpg 写真:井村重人


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新日本フィルハーモニー交響楽団 NOTE班
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