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サッカーの国イタリアを代表するオペラ作曲家「ヴェルディ」(2)

先日イギリスでサッカーのヨーロッパ選手権が開催された。イギリスでは多くの観客を入れ、またその大部分の観客がノーマスクという、我が国ではまだ信じられない光景を目にした方も多いだろう。その決勝戦に開催国であるイングランド代表が進出、会場の内外では大いに盛り上がったようだ。会場に入ることのできないサポーターたちはパブリックビューイングやパブでの観戦を楽しんたようである。その決勝戦では残念ながらイングランド代表は苦杯を嘗める結果となり、スタジアムの6万人の観衆は水を打ったように沈黙した。そのイングランドに勝利したチームこそ、イタリア代表である。改めて言うまでもないが、イタリアはサッカー強豪国のひとつとして広く知られている。

現在我々はイタリア半島とシチリア島などを含めた地域全体を「イタリア」として認識している。もちろんそれに該当する地域は現在「イタリア共和国」という一つの国家である。とはいうもののイタリア半島には「バチカン市国」と呼ばれるローマ・カトリック法王国や「サンマリノ共和国」といった諸国が存在することは広く知られているところである。イタリア半島とシチリア島は「ブーツでサッカーボールを蹴っている形」によく似ており、地理などでイタリア半島を覚える際には大いに役に立つ暗記法だ。このようなところでも「サッカー」が関連づけられるのがまことにイタリアらしいといえよう。

統一されたイタリア」というものは、古代に強大な勢力を誇ったローマのイメージとは裏腹に比較的最近実現された。その「祖国統一」がなされた時代の真ん中を生きたのがジュゼッペ・ヴェルディなのである。

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ボルティーニ「ジュゼッペ・ヴェルディの肖像」(1886)

ヴェルディの本名は長い。「ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ」というのが正式な名前である。これはイタリア語での呼称表記となるが、彼の父が役所へ出した出生届に記載されている名前は「ジョセフ・フォルデュナント・フランソワ」と申請し、役所の係員はそれをフランス語で記録した。なぜイタリア人のヴェルディの名前がフランス風で、しかもフランス語で記録されたのだろうか。その理由はヴェルディが誕生した時代、彼の生誕地であるレ・ロンコーレという小さな村はもともと「パルマ公国」の中の一地域であるが、当時はフランスに支配されていたためである。このパルマ地方だけでなく、イタリア全土は日本における戦国時代のように多くの支配体制により分割統治され、またフランスやオーストリア(神聖ローマ帝国)の支配下にある地域やローマ教皇が支配する地域もあった。

他の民族国家に支配されている地域は、洋の東西を問わず「独立運動」の機運が高まるのは自然な流れだろう。もちろんヴェルディの生まれ育った「イタリア」各地でも、諸外国からの独立をはじめとした「同一民族による統一国家」を希求する動きは大きなうねりとなっていたのである。

パルマの田舎村の貧しい商店を営む両親のもとに生まれたヴェルディは、幼少期に音楽に開眼し音楽の魅力に取り憑かれていった。その才能を実家の商店の取引先卸業者の富豪社長さんが応援してくれたおかげでミラノへ「音楽留学」することができた。ここで「留学」と言ったのには理由がある。ミラノはヴェルディが住んでいた地域とは異なる支配体制にあったからである。ミラノとブッセート(ロンコーレ村から一番近い大きな街)は距離としては埼玉県の大宮と群馬県の高崎くらいの距離ではあるが、当時は「外国」であったのだ。

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現代のイタリアの地図

ファッションや文化の先進地として知られているミラノは、当時も文化や経済のトップランナーであった。その土地の音楽院で学ぶことは大きな糧となる・・・はずであった。だがさまざまな理由により音楽院への入学はできず、現在も世界有数のオペラハウスとして知られる「ミラノ・スカラ座」のチェンバロ奏者(実際には練習を担当する副指揮者、もしくは伴奏ピアニスト)に個人的に学ぶことになる。このことがヴェルディの「高学歴への対抗心」の源泉といわれている。

とはいえ音楽の才能には溢れていたためヴェルディはめきめき音楽家としての才能を開花させていき、スカラ座で仕事もするようになった。だがヴェルディは恩に篤い人物だったのか、恩人の富豪の地元、ブッセートに戻り音楽教師の仕事をすることに。そこでその富豪の娘と結婚した。こうなってくると恩に篤いのか打算的なのかわからなくなってくるが、そこは大目に見ていただきたい。しかしヴェルディはオペラ作曲家への道捨てがたく、妻子とともに再びミラノへ向かう。いくつかオペラ作曲し上演されるが泣かず飛ばずの状態で鬱屈していた彼に追い討ちをかけるように子供と妻を病で失ってしまった。家族を失ったショックは大きく、ヴェルディは「大スランプ」に陥る。かつてある人に「未熟者にスランプはない」と諭されたことがあったが、ヴェルディの場合は自分とは異なる。そのスランプ時代に楽譜出版者から渡された台本が彼の目に留まり、その台本をもとにオペラを作曲した。その作品こそ初期の傑作《ナブッコ》である。

この作品は古代ユダヤの物語を題材とし、それは旧約聖書などにヒントを得た作品である。この作品は当時、ミラノ・スカラ座で初演されて大成功を収めた。もちろんヴェルディの作曲の力もあるのだが、当時外国の支配下にあった自分たちの姿と古代ユダヤ民族の姿を重ね合わせてことが大きな共感を呼んだ。特に劇中の合唱「ゆけ、我が思いよ、黄金の翼に乗って」は最も有名なナンバーで、独立運動のテーマ曲のような曲となった。この曲は「イタリア第2の国歌」ともいわれている。ちなみに現在のイタリア国歌「マメーリの賛歌」は作曲者こそ違う人物であるが、編曲はヴェルディである。ヴェルディがイタリア統一や現在のイタリアにとって重要な位置にあることを窺い知ることができよう。

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「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」の合唱冒頭部分の楽譜

大スランプ後はヒット作を連発する。題材は古代の逸話やイタリアの政治とは直接関係のないことと思われる場所を舞台とはしているが、そこには常に「独立運動への応援」という「裏テーマ」を持っていた。支配側の検閲をさまざまなアイディアで乗り越え、ヴェルディは多くの作品を世に出していく。オペラ《仮面舞踏会》上演に際して、原作はスウェーデン王の暗殺であったものをアメリカのボストン提督の暗殺に設定を変え検閲をくぐり抜けた。

ヴェルディによる「音楽的革命運動」もその一助となったのかは定かではないが、イタリアは1861年に統一を果たした。ヴェルディは請われて下院議員に立候補し当選した。立候補することを「俺は議会で黙って座っていられないよ!」と言って固辞したそうで、さほど政治的野心はなかったと思われる。議員生活よりも作曲家としての暮らし、そして農場経営の方が数段彼の性に合っていたのだろう。音楽家の中には音楽のことよりも政治的なことやゴシップに関心が向いているタイプの人もいるし、その能力に長けている人もいるが、私はヴェルディのような生き方を羨ましく思う。のちに彼は一度も議会には出席しなかったものの高額納税者として上院議員にも任命されている。

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ヴェルディの葬列の写真(1901年)

この「偉大な老人」である「作曲家兼農家」ヴェルディは1901年に87歳でその生涯を閉じる。その棺は死去したホテルを出発して、先立った二番目の妻ジュゼッピーナの眠る礼拝堂に埋葬された。出棺の際には800人もの大合唱が棺を見送ったが、その合唱を指揮したのは歴史的巨匠のひとりであるアルトゥーロ・トスカニーニ。その出棺の合唱で歌われたのが、彼の最初のヒット作《ナブッコ》の「行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って」であった。トスカニーニはヴェルディと同じパルマの人間であり、音楽家としてのキャリアのスタートはチェロ奏者であったが、オーケストラ奏者として演奏旅行のためブラジル旅行中、指揮者の突然のキャンセルにより急遽オペラを指揮し、大成功を収めた。そのオペラがヴェルディの《アイーダ》であったことは運命的な「えにし」を感じるエピソードである。この歴史的指揮者の数多あるエピソードについてはまた筆を改めたい。

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アルトゥーロ・トスカニーニ

ヴェルディのオペラは名曲とはいえ、オペラは長い。オペラ鑑賞に馴染みがないとその長さは「天国的な」長さに感じる。天上の楽園を浮遊するかの如く夢の世界へ・・・そのような経験をした方も多いだろう。そのようなビギナーにはヴェルディの有名なオペラアリアを特集したコンサートやC Dがおすすめだ。「この曲は知っている!」であるとか「これCMで聴いたことがある!」という曲がヴェルディのオペラ作品には多くある。まずはそのような曲から入っていくのもいいだろう。そしてもう一つ、オーケストラ鑑賞とともに楽しめるのが「序曲」である。序曲はオペラの冒頭、物語が始まる前に演奏される管弦楽曲である。大体10分前後のものが多く、時間的にも丁度良い。比較的良く演奏される序曲は《ナブッコ》《シチリア島の夕べの祈り》《運命の力》などで、私が中高生の頃は吹奏楽コンクールの自由曲としてそれらが編曲されたものが多くの団体で演奏されていた。最近はそのような傾向にないようであるが、オールドファンとしては若干の寂しさを感じる。日本人はことあるごとに「短縮語」をよく使う。例えば二子玉川を「ニコタマ」とか、遠藤憲一を「エンケン」など枚挙にいとまがないが、《運命の力》は「ウンリキ」という略称を関係者は用いる。クラシック音楽をあまり知らない相手に「今度の演奏会、ウンリキやるんだよね〜」と自慢げに言ってみると通ぶれるかもしれない。

序曲はオペラ全曲の主要な部分や主題、動機を網羅しているので、オペラの大体の概要を知ることができる。しかもドラマチックなオペラ全曲を序曲に凝縮しているので変化に富んでいて飽きさせない。いわば「オペラいいとこどりメドレー」といえる。オペラ全曲の前には是非序曲で「腕慣らし」をしていきたいものである。ヴェルディ作品において前期は伝統的な「序曲」が採用されているのだが、中期からは短い「前奏曲」という、舞台の雰囲気を音楽にして管弦楽とドラマを融合させるような曲に変化していく。とはいえオペラの雰囲気や魅力を楽しむということにおいては序曲と遜色ないものである。最近はオーケストラの演奏会でヴェルディの序曲が演奏されることも少なくなり、大規模で高レベルの作品がプログラムノートを賑わせているし、アマチュアオーケストラも演奏レヴェルの向上や、ドイツ、ロシア系作品への憧れからイタリアのオペラ序曲は取り上げられることが少ないのは非常に残念なことである。楽曲自体に魅力があるだけに少々淋しい気がするのは私だけだろうか。

ヴェルディは初期の大スランプ時代に《一日だけの王様》という喜劇を作曲したが、満身創痍の中で作曲されたこの作品は酷評を受け、それ以来喜劇を作曲することがなかった。そのヴェルディが喜劇に取り組んだのは最晩年、最後の作品となる《ファルスタッフ》だ。この曲はシェイクスピアの「ウインザーの陽気な女房たち」を下敷きにしている。これをテーマとした音楽作品といえばオットー・ニコライのオペレッタ序曲を思い浮かべる人も多いだろう。余談だがヴェルディのヒット作《ナブッコ》は当初ニコライに作曲を持ちかけたが「作曲するに値しない」と断られた作品であったそうである。

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グリュッツナー「ファルスタッフ」(1921)

晩年のヴェルディは《オテロ》の成功後、虚脱感に襲われて創作意欲を失っていた。とはいえヴェルディの「想像の井戸」は枯渇していなかった。その井戸から再び豊かな水をたたえるための呼び水として、台本作家のボーイトが「喜劇で成功していない」というヴェルディの心残りをくすぐるための「殺し文句」を用意した。「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、全てがひっくり返ります」などの言葉に、ヴェルディは作曲を決意した。この最後の作品はヴェルディのオペラ作曲の粋を集めた集大成といえる作品である。このオペラの最後は、主人公の太った老人のこんな一言で締めくくられている。まさに、ヴェルディの人生そのもの、そして私もこうありたいと願うような言葉である。

「最後に笑えればいいのさ」

(文・岡田友弘)

「オトの楽園」
岡田友弘(おかだともひろ)
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻卒業。その後色々あって桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンもいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。

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