サウナ?ヘヴィメタ?シベリウス!〜フィンランドを代表する作曲家を識る(1)
新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は定期に絡めてシベリウス特集!
シベリウス(1923年)
我が国でも北欧の国々は観光地としても人気がある。北欧の4カ国とはデンマーク、ノルウェー、スウェーデン、そしてフィンランドだ。フィンランドを除いては君主制の国であり、国王がいる。フィンランドだけは共和制であり、国家元首は共和国大統領だ。なお、この4カ国にアイスランドを加える人もいる。ちなみにアイスランドは共和国である。
フィンランドの歴史については後述するが、我々がフィンランドという国名を聞いて連想することはなんだろうか。トーベ・ヤンソンの「ムーミン」という人も多くいるだろう。「森と泉にかこまれて・・・」と、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのヒット曲「ブルーシャトウ」の歌い出しのような風景そのままの「森と湖の国」というイメージもあるだろうし、緯度の高い寒帯地で国土の3分の1が北極圏にあるので「オーロラ」や「白夜」をイメージする人も少なくないのではないだろうか。サンタクロースの総本山もフィンランドだ。
フィンランドといえば「サウナ」を思い浮かべる人も多いだろう。フィンランドにあるサウナの数は300万以上といわれている。ちなみにフィンランドの総人口は約550万人であるので、実に「2人に1つ以上のサウナ」がある計算になる。新日本フィルのホームグラウンドである錦糸町にも、有名なサウナがあるが、フィンランドでは大自然の中でサウナに入り、自然の川に飛び込んで体を冷やす。そんな野趣あふれる入浴法はいかにも「自然享受権」の国フィンランドならではの文化ではないだろうか。また、「世界一謙虚な人々」と称されるフィンランド人だが、その慎ましやかなイメージとは裏腹に、アポカリプティカ、HIM、アモルフィスなどのヘヴィーメタルバンドに代表される「ヘヴィメタ文化」が盛んで、他の諸国の追随を許さない。また「おもしろイベント」が多いのもフィンランドの特色である。有名なところでは「エアギター世界大会」や「どろんこサッカー大会」、「携帯電話投げ大会」、「世界サウナ選手権」などの世界大会が広く知られている。
フィンランドの有名人を思いつくままに書き連ねると、F1レーサーのハッキネンやライコネン、スキージャンプのアホネン、指揮者サロネンと「〜ネン」という名前が多いことに気がつくだろう。アルメニアに「〜ニャン」が多いのと同じである。「ネンが多いの、なんでやねん!」などとくだらない駄洒落はさておき、この「ネン」は「人」を意味する。英語の”Man”のようなものだろうか。同じ北欧のデンマークでよくある姓である「ニールセン」や「アンデルセン」などはどちらかというと「〜の子供」や「〜の子孫」といった意味なので、若干ニュアンスが異なるかもしれない。スカンジナビア地域に祖先を持つアメリカの作曲家リロイ・アンダーソンも「アンデルセン」のようなものだろうか。オランダの作曲家でルイ・アンドリーセンという人物がいるが、それもまた呼び方としては、アンデルセンやアンダーソンの傍流かもしれない。
フィンランドについて少し知ることにしよう。フィンランドはアイスランドと共に世界で最北に位置する国家である。アイスランドが最も北に位置し、フィンランドはそれに次ぐ。フィンランドは正式名称を「スオミ共和国」というが日本をはじめ多くの国では「フィンランド」として認知されている。「スオミ」とはフィンランド語で「フィンランドそのもの」を指し、また「フィン人」「フィンランド民族」という意味を持つ。「スオミ語」はフィン人が話す言葉だ。スオミ語は他のヨーロッパ圏の言語とは違うウラル語圏に属する。かつてウラル語圏は日本語が属する「アルタイ語圏」とともに「ウラル・アルタイ語圏」に分類されていたが、日本語と同一の言語体系ではない。スオミ人、またはフィン人は現在のフィンランド地域に居住する民族で、フィン人の国が「フィンランド」なのである。宗教はプロテスタント、バッハの回で登場した「ルター派」を信仰する人が多い。旧宗主国のスウェーデンやドイツの影響が強いが、ロシア帝国に支配され、旧ソ連と領土に関わる紛争や戦争を経験するなど、その土地特有の位置関係で歴史に翻弄され、自らの国家を持つことができなかった。1917年にフィンランドは念願の独立を果たすが、その苦難は続き、旧ソ連の影響もあり中立国的立場をとることで自国が他国に侵略されることを防ぐという涙ぐましい選択をしたのである。ソ連崩壊後は西側陣営に接近し、現在はヨーロッパ連合(E U)加盟国である。
人口は約550万人で、スロヴァキアやシンガポールと同程度だ。日本の都道府県と比べると北海道が同程度の人口であり、GDPも同程度である。比較的コンパクトな国家だが社会福祉政策では世界をリードしており、国際的な大企業もいくつかある。国民の生活水準も社会的な教養の水準も高い国である。
クラシック音楽に限定しても、フィンランド出身の作曲家は数多くいる。その何人かを列挙してみると、カヤヌス、クラミ、サッリネン、サーリアホ、リンドベルイ、指揮者として有名なサロネンやセーゲルスタムなど枚挙にいとまがない。指揮者を挙げても、前述の二人の他にもオラモやサラステ、日本でもお馴染みのインキネンなど多くの指揮者が活躍している。独奏や声楽の分野で活躍しているものも多い。隣国のエストニア同様、合唱も盛んである。その音楽的資源の豊かさの中でも突出して、最も世界で知られている作曲家がジャン・シベリウスなのである。
ジャン・シベリウスは1865年、日本では江戸幕府最後の元号となる慶應元年にロシア帝国の大公国であったフィンランドに生まれた。同い年の有名人はデンマークの代表的作曲家ニールセンだ。1865年の大きな出来事としてはアメリカ大統領であったリンカーンが暗殺された。ジャン・シベリウスは本名をヨハン・クリスティアン・ユリウス・シベリウスといい、家族など親しい者からは「ヤンネ」の愛称で呼ばれていた。「ジャン」というフランス語風の名前を名乗り出すのは音楽院に進む頃のことであり、それは外国船員で父方の叔父が自らの名前を「ヨハン」ではなく「ジャン」と名乗っていたことに由来する。スウェーデン系フィンランド人の両親の元に生まれ、父親は軍医であり町医者であった。専門は外科。母親は牧師の娘でピアノを演奏することができた。父も音楽を愛好し、なかなかの歌唱力の持ち主だったようだ。この日常に音楽がある環境で、シベリウス家の三人のきょうだい(ヤンネは2番目で、上には姉が下には弟がいる)とも音楽を嗜んだ。姉のリンダはピアノを、のちに父と同様医学の道に進んだ弟のクリスティアンはチェロを愛好し、ヤンネはヴァイオリンを演奏し、その魅力に取り憑かれた。ピアノも習ったが彼にはピアノよりもヴァイオリンが魅力的に見えたようで、彼の作品創作にも大きな影響を与えている。
医師である父はヤンネが2歳の時に病没した。父は医師として成功した人物であったのだが、贅沢を好む暮らしをしていたため生前から経済的には苦しく、死後の家族もその借金に苦しんだ。そのような状況でシベリウス一家は母方の祖母宅で育つことになる。この母方の複数の親戚たちは彼の音楽家として、そして人間形成に大きな影響を与える存在となる。伯母にピアノを習い、ヤンネが特に大好きだった伯父のヴァイオリンが彼のヴァイオリンへの憧憬となってのちに繋がっていくのである。伯父はヴァイオリン演奏のみならず作曲もした。伯父は天体観測も愛好しており、ヤンネの自然科学に対する関心も伯父の影響といえよう。
11歳のシベリウス(1876年)
スウェーデン系フィンランド人であったヤンネだが、師範学校(彼の場合は大学入学のために進学する中等教育学校)においてフィン語を学ぶようになるが、生来スウェーデン語は堪能であったがフィン語についてはそこまでではなかったそうである。ヤンネは性格的には夢想家で衝動的な人物であったようで、社交的というよりは内気な性格の人物であったようで、その点に関して私はシベリウスに大きなシンパシーを感じるのであるが、彼は音楽と自然に大きな関心を示した。理系の科目はそこそこ成績が良かったものの、夢想家である彼は学校の授業も上の空で夢想に耽け、しかも宿題もやらないような学生だった。宿題をやらない代わりにヴァイオリンを抱えて森の中を歩き回り、たくさんの植物をコレクションしていたそうだ。自身が興味のあることにはとことん深入りする彼の性格は、現代的にいえば「発達障害」の類いだったのかもしれない。しかし、そのような性格を持つ人物は特定の分野において類い稀な才能と業績を示すことは広く知られているところである。しかしながら、彼の学校の成績は芳しくなかったようで、学校の第5学年を留年したことが彼の学校生活を象徴している出来事といえよう。この学生時代、図書館で偶然発見した作曲法の本が彼を作曲の世界へ誘う扉の鍵となった。彼はその本で独習を始め、卒業する頃にはこの分野で彼より秀でているものはいなかった。関心のあることはとことん追求し、そうでないことは全くしなかった上、学校を留年してしまったヤンネの姿を、私はついつい自分の姿に重ね合わせてしまうのだ。恥ずかしながら、私も音楽ばかりやっていたため、大学を留年した人間ゆえに・・・。
後編へ続く…
(文・岡田友弘)
「オトの楽園」
岡田友弘(おかだともひろ)
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻卒業。その後色々あって桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンもいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。