オトの楽園presents〜「カルミナ・ブラーナ」徹底ナビゲート!
1989年12月31日のベルリンフィル「ジルべルターコンサート」
時代が昭和から平成へと変わった年の、ベルリンフィル恒例の「ジルベスターコンサート」の指揮台に上がったのが我らがマエストロ、小澤征爾。1989年という年はベルリンフィル、そしてクラシック音楽界にとっても大きな出来事があった年である。長年ベルリンフィルの芸術監督として君臨していたカラヤンが4月に健康上の理由でそのポストを辞任、7月16日にこの世を去ったのだ。この緊急事態に大晦日のコンサートを任されたのが小澤だった。
当時、コンサートの模様はNHKの衛星第2放送でライブ中継され、僕もビデオ録画をしながら1990年の1月1日未明にそれを観た。世界最高のオーケストラを指揮する小澤の姿に魅了され、ビデオテープを受験勉強そっちのけで繰り返し観たのは良い思い出だ。その時から僕の「カルミナ熱」がスタートしたと言ってもいいだろう。日本人の指揮者が指揮をし、安永徹さんというヴァイオリニストがコンサートマスター、土屋邦雄さんという方がヴィオラ奏者の席に就いていた。そして合唱は指揮者関谷晋さんが指導している各地の合唱団の精鋭を集めた「晋友会合唱団」というラインナップに誇らしい気持ちを持った記憶が蘇る。
実は小澤征爾とベルリンフィルは同年6月に同演目でのコンサートを行なっており、CD録音もされている。独唱者の違いはあれどどちらも非常に質の高い、熱量の伝わる演奏だ。
そしてそれを遡ること約1年、1988年6月15日の新日本フィル「第160回定期演奏会」において「カルミナ・ブラーナ」が舞台作品として語りや舞踊を伴って上演された。この上演は、生前のオルフが小澤征爾に直接「カルミナ・ブラーナを舞台作品として上演してほしい」と依頼していたことがきっかけであった。当公演は台本を大岡信、語りを平幹二朗、演出は実相寺昭雄、振付と舞踊は田中泯という錚々たる顔ぶれで、その公演は大成功であった。小澤は以前にもボストン交響楽団を指揮して「カルミナ・ブラーナ」を録音している。「カルミナ・ブラーナ」は新日本フィルにとって大きな意味を持つ楽曲であり、小澤の自家薬籠中の得意レパートリーであると言えるだろう。
1990年、この演奏会やCDが発端となったのかはわからないが、吹奏楽の世界でも「カルミナ・ブラーナ」が一大ブームを巻き起こした。1990年の全日本吹奏楽コンクールにおいて近畿大学吹奏楽部が自由曲として「カルミナ・ブラーナ」を取り上げた。名演で見事に金賞に輝いたことが吹奏楽コンクールをはじめとした吹奏楽の世界に爆発的なブームとなったのだ。もちろん吹奏楽という編成、コンクールという制限時間のある演奏機会であるため「独唱、合唱なし」「全曲から数曲抜粋」というものではあったが、「カルミナ・ブラーナ」名を日本に広めた功績は大きいと思う。僕も1992年の高校の吹奏楽部の定期演奏会で「カルミナ・ブラーナ」を演奏した。学校の公衆電話から東京の楽譜屋さんに問い合わせと注文の電話をしたことを昨日のことのように思い出す。
オルフにとっての「カルミナ・ブラーナ」
オルフは作曲家としては早熟であった。青年期に多くの作品を作曲していたが、彼が自ら言っているように、40歳を過ぎてから完成された「カルミナ・ブラーナ」を「自らの最初の作品」と位置付けた。それはフランクフルトでの「カルミナ・ブラーナ」の成功によって自身の進むべき道を確信したことが大きい。初演後オルフは出版社の担当者に「これまで書いたもの、不運にも出版してしまったものを全て破棄してほしい」と語った。彼にとって「カルミナ・ブラーナ」がデビュー作となった瞬間である。ナチスドイツ支配下、シェーンベルクやヒンデミット、そして多くのドイツ系ユダヤ人作曲家が迫害、亡命をする中で当時のドイツ音楽界は、退化、衰退の道を歩んでいた。その中で「唯一の国際的評価を受けた」作品と作曲家がオルフだったのである。
オルフの生涯については、次回の「オトの楽園」でじっくりと綴っていく。
「カルミナ・ブラーナ」とは何か?
オルフが楽曲の題材とした「カルミナ・ブラーナ」について少し知っておきたい。「カルミナ・ブラーナ」とは「ボイレンの歌」という意味のラテン語である。「ボイレン」とバイエルン地方、ミュンヘン郊外の「ボイエルン修道院」、正式には「ベネディクト・ボイエルン修道院」で発見された写本(羊皮紙に手書きされた文字や装飾、絵を伴うもの)のことを指す。現在この写本はミュンヘンの国立図書館に所蔵されている。クリストファー・デ・ハーメルの「世界で最も美しい12の写本」という書籍にも掲載されているので、機会があった是非ご覧いただきたい。
約300編の歌(そして宗教劇)の内容はラテン語、中高ドイツ語(ドイツ南部で話されるドイツ語)、古いフランス語で書かれている。そのテーマは
「 時代と風俗に対する嘆きと批判」「愛と自然、愛の喜びと苦しみ」「宴会、遊戯、放浪生活」「宗教劇」と、修道院で発見されたものとしてはかなり世俗的なものだ。聖職につくもの、またはそれを学ぶもの、修道院に旅人として立ち寄ったものたちの「生の声」を聞くような気がする。そのため、オルフの「カルミナ・ブラーナ」には「世俗カンタータ」という副題をつける場合もある。その歌詞の内容は現代人たちにも共感を呼ぶようなものばかりである。ラテン語や中高ドイツ語などで書かれていると思うと「難解」なイメージがあるが、そのようなイメージは一度取り払ってこの作品を楽しんでほしい。
オルフと「カルミナ・ブラーナ」の出会い
「カルミナ・ブラーナ」との出会いについて、オルフはこのように語っている。
このオルフの言葉には「ついに見つけたぞ!」という高揚感やみなぎる「やる気」がうかがえる。約300編の詩の中から、友人であり、のちに「カルミナ・ブラーナ」の入門書を著す作家ホフマンの助言により「24編」の詩が選ばれ、オルフの「カルミナ・ブラーナ」として完成するのである。
徹底ガイド「カルミナ・フラーナ」の歩き方
この作品のテーマは「自然も、人生の酸いも甘いも、全てはフォルトゥナ(運命の女神)の手の手の内にある。そんな運命の偉大さを歌おうじゃないか!」ということに尽きる。
曲は「序奏部」「第1部」「第2部」「第3部」「結び」の大きく分けて五つの部分に分かれていて、25曲によって構成されている。ちなみに第1曲と第25曲は全く同じ曲なので、実質は24曲で構成されている。全曲を通じて合唱と多種多様な打楽器が効果的に使用されている。
それでは全曲を順を追って見ていこう。
序奏部・世界の支配者、フォルトゥナ
この部分は2曲によってできている。1曲目はCMや映画などでも使用されている有名な曲で、冒頭から強いインパクトを与える。まさに「ツカミはOK」といった楽曲。歌詞の大意は「オレたちの幸運も不運も、全て運命の女神に委ねられ、運命は車輪のようにぐるぐる回る。月のように満ち欠けをして人の心を弄ぶ」というもの。
続く2曲目は、それを補う内容となっている。同じ音楽が3回繰り返される。この「繰り返し手法」はオルフの作品の特徴ともなっている。歌詞の大意は「運命の女神はつれない存在、オレは傷つき涙ぐむ。常に女神がオレを拒むので、こんなに歳を取ってしまったよ・・・。そんなオレも昔は景気が良かったこともあったけど、今やその幸運は他人の手に。オレはすっかり落ちぶれたけど、運命の女神の車輪の上では、王様たちも同じ目にあってきたんだぜ」といった意味である。
第1部・「春」「草原にて」
第1部は「春」と「草原にて」という二つの部分に分かれている。それらの部分は「管弦楽のみの楽曲」が間奏曲の役割を持って分けられている。
前半部は「春の喜び」を、後半部は「男女の愛」をテーマとしている。
全曲を通しての3曲目は、長い冬から春を迎える喜びを穏やかな混声合唱で綴っている。続く4曲目も春の訪れを歌ったものだが、ここでは「春が来て、人の心は愛を求めは騒ぎ出す。それは運命であり、喜びであり、そして心乱れるものなんだ。」といった内容の歌詞を歌う。5曲目も「冬は遠くに過ぎていき、夏が近づいてくる。春を楽しまないのは哀れなやつだ!酒を飲んで、幸せを祝おう!愛だよ、愛!」といった内容を歌う。この曲で初めてバリトンのソロが登場する。
そして後半部「草原にて」へと入る。6曲目はオーケストラだけで演奏される「踊りましょう!」というタイトルの曲。金管楽器の明るい和音に始まり、楽しげな音楽がそれに続く。聴きやすい楽曲だが、実は拍子が目まぐるしく変わる「変拍子」の曲。オーケストラも指揮者も力量を試される曲だ。
7曲目は明るい3拍子のダンス風の楽曲、合唱も気持ちよく歌う。しかし歌詞の内容は「春でみんな喜び溢れる感じだけど、私の愛する人は馬でどっか遠くに行っちゃった・・・私を愛してくれるあの人は、今はもういない」という悲しい曲なのである。この曲で合唱が歌うラテン語の語感がとても面白いのも聞きどころだ。続く8曲目は女性が男性に向けて歌う。「ちょいとそこのお店の人!若い人の気をひくために頬紅をくださいませ。化粧した私を男性はきっと気にいるはずよ。恋をしないなんて勿体無い、きっと気にいるから私と恋をしましょうよ!」という肉食系女子もびっくりの積極的な内容である。それに対して男性合唱はハミングで、鼻の下を伸ばしてデレデレしているような、モジモジしてはっきりしないようなメロディーを歌う。
続く9曲目もオーケストラのみで「踊りましょう」というタイトルの曲。先ほどの「踊りましょう!」とは対照的な、弦楽器主体で静かでゆったりとした3拍子の曲だ。続く10曲目はまるでギターをかき鳴らすかのような弦楽器のピチカート(弦を指で弾く)による強奏から始まる躍動感のある楽曲。「ここで踊るのは皆若い女子、彼女たちは夏中男を相手にしない。」と前半で歌い、後半では男性が「来てくれ、僕は君を待ち焦がれているんだ。僕を元気にしてほしい」という内容の歌詞になっている。
10曲目、第1部最後の曲は金管楽器のカッコよく華やかなパッセージから開始、終始活力に満ち溢れた楽曲だ。歌詞の内容は「全世界が 僕のものであったとしても、イギリスの女王様を僕の手に入れることができるならば、全てを投げ出すよ!」といった荒唐無稽というか破れかぶれな内容の歌詞である。
第2部・酒場にて
第2部は、男の世界を描いているので独唱、合唱ともに女声は登場しないのが大きな特徴である。言い換えれば男声でのみ構成されている楽曲が続く部分は「カルミナ・ブラーナ」においては第2部であることがわかる。この部分は全曲を通じて最もコミカルかつユーモアに満ちた部分となっている。歌詞の内容もさることながら、独唱者の芝居じみた歌唱や、面白い楽器法などを楽しめる部分となっている。
11曲目「烈しき怒り」は酒場の男性の嘆き。「オレはダメ人間だ。それはわかっているが、神の救いより体の快楽を求めてしまう。」といった内容の歌詞をバリトン独唱が激しい音楽の中で歌う。この曲の最後のバリトンの音の跳躍は手練れの歌手にも難しいのか、最後の音を正しい音程で当てられていない録音も多い。とはいえ「セリフ的」な部分なので、それも「味わい」となるのが演奏の面白いところだ。12曲目は「清き湖に僕は住んでいた」という曲。料理される運命にある白鳥が、我が身の行末を嘆くというユーモアのある曲で、テノール独唱でそれが歌われる。この曲の冒頭ではファゴットが通常よりも高い音域を演奏する。そのメロディーが白鳥の悲しい運命と白鳥の心情を見事に表現しているようだ。ちなみに全曲を通じてテノールの独唱の出番はこの曲のみ。この曲が終わったら心の中でテノール歌手を讃えてほしい。テノールの出番は終わったが、曲はまだまだ続く。
そして13曲目は、酒場に入り浸りのギャンブル依存症聖職者の「演説風」楽曲だ。「オレの生の喜びを奪いやがって!」とは言っているが、酒と博打はやめられないのである。曲中「呪い」という意味の"wafna"という言葉が多く登場するが、どうしても僕の耳には「ワナ(罠)」と聞こえてしまう。人生の「罠」にハマるという意味では当たらずも遠からずかもしれない。
そして第2部最後の14曲目は速いテンポで歌われる。内容は「オレたちは来世のことなど考えず酒を飲み博打をするんだ。いろんなことに結びつけて酒を飲む。老若男女、どんな人も酒を飲む。飲み放題だ!たとえ飲んで一文なしになって、周りから非難されてもオレたちは酒をのむ!酒最高!!」という飲酒礼賛の曲を、大合唱と華麗な管絃楽で高らかに演奏する。
第3部・睦言
「睦言」とは「愛の言葉」のこと。中世の恋愛感情のストレートな表現や性の解放感といったものが歌われている。
15曲目で初めて「児童合唱」と「ソプラノ独唱」が登場する。特にちびっ子たちに「よくぞここまでじっと我慢したね!」と声をかけたい部分。それはもちろんソプラノ歌手も同じ。声のコンディションの調整には苦労すると思うし、歌わないままずっと待つということは、僕たちの想像よりもはるかに大変なことだと思う。この曲は穏やかで官能的なものも感じる曲だ。「愛の神はあちらこちらで飛んでいる、そして欲望に捕まるんだ。そして、男女は自然に結ばれるよ。」と天使のような歌声で意味ありげな色っぽい内容を歌う。それに対して、ややテンポを上げた部分でソプラノが歌う歌詞は「夫のいない女性に悦びはない、独り身の寂しさをじっと我慢している辛さよ・・・」と切々と歌う。
16曲目では恋に悩む男性の悲哀と嘆きが、バリトンとしては少し高めの音域で切々と歌われる。「恋に悩み苦しむ僕は、あなたの一度だけのキスで生き返る」といった内容の歌詞である。続く17曲目では「赤いブラウスを着た娘が立っていて、風でそのブラウスがカサカサ音を立てている」という情景描写のような歌をソプラノ独唱で聴くことができる。この娘こそ、恋に悩み苦しむ男性の恋焦がれる女性である。
18曲目では再び男性の恋の悲哀が歌われる。合唱が執拗に「私の恋人は来ない」と繰り返し歌う。なんとも酷な・・・と思ってしまう、そんな中でも男性の女性に対する思いは昂っていく。それに従って曲も高揚感を増していくところは、オルフの名人芸といえる
男性の昂り続ける心情は次の19曲目と20曲目に引き継がれる。しかも・・・あろうことか男性の「妄想タイム」となっていく。「もしあの娘と二人きりで小部屋にいられたら・・・」などと考える。「愛は高まり・・・」と歌われていくのだが、その後は公式のプログラムノートの歌詞対訳をご覧いただきたい。楽曲としては男性の妄想は高まり、テンポもどんどん上がっていく。
突然曲想が変わり、穏やかな21曲目に入る。ソプラノ独唱で歌われるこの曲は「揺れる女心」を歌っている。曲の前半では自らの「浮気心」と「慎ましさ」を天秤にかけ、この人でいいのかと自問する。後半ではこの男性を愛すると決断するような言葉が散りばめられている。この曲はソプラノ歌手が歌うには少し音域が低い「アルト」の音域が出てくる。
また突然曲想が変化し22曲目となる。この曲はついに恋する男性と娘の恋愛が成就する場面である。合唱もその喜びを祝福するかのように賑やかに花を添える。
曲が最高潮に達したところで全休止、その中からソプラノ独唱だけが歌い始める、この23曲目は全曲の中でも特に「聴きどころ」である。ソプラノは難しい音の跳躍に加えて、音域的にもかなりの高音域で歌い上げる。ソプラノ歌唱の実力を余すところなく堪能できる部分だ。この部分では「愛しいあなたに、私の全てを捧げます。」と歌っている。男性と娘の愛が成就した瞬間である。
続く24曲目は「ようこそ、最も美しいひと」という歌詞から始まり、ありとあらゆる美の表現を使用して女性を褒めちぎっている。タイトルは「プランツィフロールとヘレナ」、ともに美女を象徴する名である。そして曲の終盤に「美の女神」である「ヴィーナス」を連呼して、最後の曲に切れ目なく突入する。
最後の曲は第1曲目と音楽も歌詞も全く同じである。このように最初と最後に同じ曲を配置することにより、全曲の統一感を生み出すのに成功している。また「運命の女神の車輪」の如く、運命とは「良い時もあれば、悪い時もあり、常にそれは廻り続けているもの」という意味も持っているといえる。
後ろ向きに考えれば「人生上手くいっている時でも気をつけろ」という戒めにも感じられるし、逆に「今は上手くいかなくても、人生はきっと好転する」という前向きなメッセージにも捉えられる。どうせなら後者の考えを持ち、明日に希望を持ちながら日々を過ごしたいものである。
出光の創業者である出光佐三の言葉に「逆境においては楽観し、順境においては悲観せよ」というものがある。オルフの「カルミナ・ブラーナ」にもそれと同じメッセージを感じるのは僕だけだろうか。
(文・岡田友弘)
●新日本フィル演奏会情報●
《日時》
2022年7月9日(土)14:00開演
会場:すみだトリフォニーホール
詳細:https://www.njp.or.jp/concerts/23124
2022年7月11日(月)19:00開演
会場:サントリーホール
詳細:https://www.njp.or.jp/concerts/23167
《プログラム》 ※両日とも同じ
・バルトーク作曲『弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽』
・オルフ作曲『カルミナ・ブラーナ』
7月11日の公演は有料の生配信もあります。(1.500円)
アーカイブが7月25日までご覧頂けるので、お忙しい方や、各奏者の表情までチェックしたい方はぜひ!
詳細:
●新日本フィルnoteをご覧の皆様にお知らせ●
「オトの楽園」スピンオフ企画がnote内の「サークル」機能でスタート予定です!タイトルは「新日フィル定期の曲を真面目に!?事前大お勉強会(仮称)」。新日本フィルの定期演奏会前に演奏会で取り上げる曲の聴きどころやこぼれ話をお話しします。演奏会チケットをまだお買い求めてされていない方もご参加いただけるコンテンツとなっております。
詳細は近日、noteにて発表予定ですので、是非お見逃しなく!!
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