「J.S.バッハとは何者か?」(上)
新日本フィルnoteではダントツの情報量「岡田友弘《オトの楽園》」。《たまに指揮者》の岡田友弘が新日本フィルの定期に絡めたり絡めなかったりしながら「広く浅い内容・読み応えだけを追求」をモットーにお送りしております。今回は定期に絡めてバッハの「親近感が湧いてくるような野郎っぷり」をご紹介!
ドイツの作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハ。読者もよくご存知の人物だろう。「音楽の父」と位置付けられ、ベートーヴェン、ブラームスとともに「ドイツ3大B」といわれる人物だ。生涯にキリスト教プロテスタント教会のための音楽を数多く作曲した。それはキリストの処刑と復活を描いた「受難曲」や、毎週教会で演奏される「教会カンタータ」、教会以外の場所、例えばコーヒーハウスなどで演奏された「世俗カンタータ」、そして教会のパイプオルガンで演奏される多くのオルガン作品や、クラヴィーア(現在のピアノの前身の楽器)のために作曲された作品やヴァイオリン、チェロなどのための無伴奏曲や協奏曲など、有名な曲を挙げるだけでも膨大な量となる。無論、量だけでなく質的にも高い作品を現在に残している。現代の音楽家たちもこぞってバッハの作品を取り上げ、音楽学者の中でもバッハ研究者の数は桁違いに多い。それだけ彼の作品や生涯には他の作曲家にはない、唯一無二の魅力があるのだ。
バッハの作品は、クラシックの作曲家に大きな影響を与えただけではない。多くのジャズやポピュラー作品にそのオマージュや引用をみることができる。そして時にはパロディー音楽の「替え歌」にもなってしまった。嘉門達夫の「鼻から牛乳」はバッハのオルガン作品の代表格「トッカータとフーガニ短調」の冒頭であることは、多くの人に周知の事実だ。
学校の音楽室に必ず掲示されている肖像画は、気難しい顔で白い粉をふった宮廷でのカツラを着用した威厳ある姿だ。プロテスタント教会の音楽を多く作曲し、敬虔なクリスチャン。通常我々が思い描く「バッハ像」はおおよそそのようなものだろう。あの姿はある意味ではバッハの特徴を示してはいるが、実は一般的には認知されていない「バッハ像」があるのだ。新約聖書の4つの福音者「ヨハネ」「マルコ」「ルカ」「マタイ」に続く「5人目の福音史家(エヴァンゲリスト)」とも評されるバッハだが、その知られざる「バッハ像」を知ることで、私たちはヨハン・セバスチャン・バッハという人物の人間的な側面を知ることができるのである。
(「ヨハン・セバスチャン・バッハ」ハウスマン画。手にしている楽譜は上から読んでも下から読んでも曲になり、さらに同時に演奏することで6声の複雑な音楽になる。楽譜のタイトルも「3声ではなく6声の音楽」と書かれている。)
「20人の子だくさん」「2度の結婚」「子供時代の成績は中くらい」「1年に100回も授業をサボる」「気に食わないファゴット奏者に曲で仕返し」「恨みを買ってそのファゴット奏者に街で襲撃される」「数週間の出張を無断で数ヶ月に延長して怒られる」「貴族同士の揉め事に巻き込まれ投獄」「自分が売れないのは周りが邪魔するからだ!と雇用主である貴族に訴える」など・・・あまりに人間的、いやそれを超えた多くの逸話。これは全てバッハにまつわるエピソードだ。「人間万事塞翁が馬」という故事があるが、バッハの生涯はまさに、この故事が当てはまるような「ジェットコースターの如き人生」であったといえる。
ヨハン・セバスチャン・バッハは「大バッハ」と言われる。ということは「中バッハ」や「小バッハ」、「白バッハ」や「黒バッハ」がいるのか?ある意味において答えは「イエス」だ。
バッハが生まれたのはドイツの中部、チューリンゲン地方と呼ばれる地域である。その中の小さな街アイゼナハで大バッハは生を受けた。少々ドイツ語をかじったことのある人は「バッハってドイツ語で小川なんだよね〜」と自慢げに語り、「バッハは日本的に言えば小川さんだよ!」などとキャバクラで女の子に話し「そうなんだ〜すご〜い」などど言われ悦に入る男性がいるかもしれない。事実、現代のドイツ語において”Bach”は「小川」という意味があるのだが、この大バッハの家系の苗字の由来は「小川」ではない。少々専門的なことを言えば、この”Bach”という単語を「小川」とするのは「高地ドイツ語」である。ドイツには南部ミュンヘンなどで話される「高地ドイツ語」と北部ベルリンなどで話される「低地ドイツ語」がある。バッハ家が活動したのはその高地ドイツ語と低地ドイツ語の境界線に位置する地域であった。従ってステレオタイプに「バッハは小川」という意味にはならないのだ。その由来は別のところにある。
ドイツのみならず、苗字には「職業」「家業」を由来とするものが多い。ドイツに多い苗字も上位にはそのような苗字が並ぶ。「粉屋」のミュラー、「鍛冶屋」のシュミット、「漁師」のフィッシャー、「商人」のカウフマン、「大工」のツィマーマンなど多くの職業由来の苗字がある。古来のドイツにおいて家に生まれることは「家業を継ぐ」ということが通常だったのだ。
バッハ家はチューリンゲン地域で総合的音楽家の一族としてそれを生業としていた。当時の音楽家は「アーティスト」という位置付けよりは「職人」と同じような職能集団であった。バッハ家は「音楽を生業とした職人の家系」だったのだ。故に「大バッハ」以外にも多くの「音楽家バッハ」が数多く存在する。
そこで苗字の由来であるが、バッハの語源は古い言語、それはドイツ語の起源とされるゲルマン語よりも古い言語の"pah"ないしは"pacht"という単語である。意味は「流しの音楽家に渡すおひねり」というもので、つまり「ギャラ」である。つまり「バッハ」とは「ギャラさん」であるというのが正確な意味なのだ。多少生々しい由来ではあるが、古来からの家の仕事を表す苗字なのである。
図:(バッハにゆかりの街の大体の位置関係)
大バッハ、つまりヨハン・セバスチャン・バッハは1685年にドイツ中部、チューリンゲン地方のアイゼナハという町で生まれた。「音楽の母」と呼ばれるゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルも同年の生まれである。無論「母」ではあるがヘンデルは男性である。ちなみに日本は江戸時代で、バッハが生まれた前年の1684年には「暴れん坊将軍」として知られる8代将軍徳川吉宗が生まれている。前述の通りバッハ家は当地の音楽家一族であり、そのバッハ家の8番目の末っ子として生まれた。アイゼナハは宗教改革を推し進めたマルティン・ルターゆかりの地だ。アイゼナハには「バッハハウス」や「ルターの家」が現在も残されており、多くの観光客が訪れている。ルターが学んだ学校でバッハも学び、ルターが在籍した合唱団にバッハも在籍していたことは特筆すべき事実である。ちなみに当時のバッハの学校での成績は90人中45位くらいで、「中の中」の成績であったことが当時の成績表などの資料でわかっている。素行もあまり良いものではなく、年に約100回授業をサボったという記録もある。そんなやんちゃな末っ子に突然の悲劇が訪れた。相次ぐ父母の死である。バッハ9歳の時に母が、10歳の時に父が他界してしまう。バッハはアイゼナハから程近いオールドルフに住んでいた年長の兄、ヨハン・クリストフの元に引き取られる。音楽家バッハにとってこの長兄の存在は非常に大きなものとなっている。また、父母の保護もないバッハは自らが生き残るには自分が頑張るしかないと決意したのか、オールドルフに行ってからのバッハの学校での成績は飛躍的に向上し、常に学年で1位か2位の成績であったことが記録に残されている。その後ドイツ北部のリューネブルクの修道院附属学校の給費生となるが、約300キロの道のりを徒歩で向かったそうである。300キロといえば東京から新潟あたりまでの距離に相当する。ちなみに現在は電車を乗り継いで約4時間半かかるようだ。
そしてついにバッハの音楽家としてのキャリアがスタートする。最初はワイマールの宮廷楽団のヴァイオリン奏者として就職、たまに代役として教会のオルガニストとしても演奏した。ワイマールはのちに文豪ゲーテが宰相を務めた小国である。その後アルンシュタットという街の「新教会」に新しく設置されるオルガンの試奏と選定に赴き、そのままその教会のオルガニストとして就職する。その時期、バッハはドイツ北部の主要都市のひとつであるリューベックに4週間の予定で旅行する。リューベックという街で生まれた偉人には「ブッテンブローク家の人々」や「魔の山」、「ベニスに死す」などで知られるノーベル文学賞も受賞した作家トーマス・マンがいる。ちなみにトーマスの兄ハインリッヒも著名な作家だ。
(フォールハウト「ヴィオールを演奏するブクステフーデ」)
4週間の予定を会社(教会)に届け出もせず、連絡も怠り3ヶ月滞在、その間当時の音楽界の巨匠であったブクステフーデの薫陶を受ける。無断で旅程を伸ばし、好き勝手なことばかりする「不良オルガニスト」に対して教会の聖職会議の心証はみるみる悪くなる。また、楽団の奏者ともトラブルを起こし、特にウマが合わなかったファゴット奏者に街で襲撃され、決闘騒ぎになったりもした。我々が抱く「バッハ像」とは若干違う、血気盛んな人物像をみることができるエピソードだ。そのような陰鬱とした時期に、バッハにとっては良いタイミングでミュールハウゼンのオルガン奏者が亡くなり、後任を探していたのでバッハはそれに応募、まんまと合格しアルンシュタットに別れを告げ、ミュールハウゼンに移る。若干バッハの報酬は上がったらしいのだが、生活の足しにするために短い曲を書いて小銭を稼ぐ「バイト」などもしていたそうである。現在の通貨価値にすると約3万円弱程度の値段で「バッハ作曲」の作品を手に入れられたとしたら・・・私ならなけなしの金でバッハに一曲依頼するだろう。ミュールハウゼンでバッハは1回目の結婚をする。子宝にも恵まれた反面、生活を維持するためにバッハはさらに待遇の良い仕事を求めていくことになる。
バッハは再びワイマールの宮廷楽団での仕事に就く。今度はオルガニスト、そして楽長に昇進する。楽長は音楽部門のトップではあったが、思ったほどに待遇は良くなく、しかも短いスパンで新曲を作曲しなくてはならなかったので、バッハはハレという街のオルガニストの採用に応募し合格する。F A宣言して晴れてハレに・・・と思った矢先、ワイマール公(正式にはザクセン=ワイマール公)からギャラの大幅アップと待遇改善を提示され、残留することになった。
ワイマール時代はバッハにとって必ずしもバラ色の生活ではなかったが、作曲上のさまざまな挑戦や新たな試みのアイデアに溢れた作品を多く残している、作曲家の観点から見ると非常に重要な分岐点でもある時代だ。
そしてついにバッハは理想的な上司と環境に出会う。ケーテン侯の宮廷に楽長として招聘されたのだ。ケーテン侯は音楽の理解が深い領主であり、国自体はカルヴァン派という、ルター派に比べたら「ユルい」信仰の国だったため、バッハは教会の音楽よりも器楽作品を多く作曲する機会を持つことができた。各楽器の無伴奏曲や、協奏曲、クラヴィーア曲を多く作曲し、現在も愛聴され愛奏されている。5つの「ブランデンブルク協奏曲」もケーテン時代の作品であり、バッハの協奏作品の頂点に君臨する楽曲である。独奏ヴァイオリンが活躍し、複数のオーボエを楽曲に採用したのは、バッハ自身が優れたヴァイオリン奏者であったことや、バッハの兄弟に宮廷楽団で活躍していたオーボエ奏者がいたことも影響しているかもしれない。フレキシブルな編成で自在に曲を構成するバッハの作品は、古典派以降の定石通りの楽曲構成や楽器編成を超越した自由で革新的なものであったことは、西洋音楽の中でのバロック時代、バッハという作曲家の特異性と先見性を示すものといえよう。
(作者不明「アンハルト=ケーテン侯レオポルト」)
実はワイマールからケーテンに移籍する際に、ちょっとした事件があった。バッハはケーテンに移籍する旨を伝えた上で辞職願をだし「円満退社」したと思っていたのだが、社長(ワイマールの領主)の怒りを買い約1ヶ月投獄される。作曲家は数多くいるが「ムショ暮らし」を経験したものは少ないだろう。バッハはその点においても他の作曲家の追随を許さない。
ケーテンでの幸福も永遠には続かなかった。領主に随行して長期間ケーテンを離れていた間に妻が急死する。のちにアンナ・マクダレーナと再婚するが、最初の妻とは7人、二番目の妻との間に13人の子を設けた。そのうち成年まで生きていたのは約半数である。ケーテンの領主は当初は音楽に理解のある人物であったが、結婚した妻の影響で次第に音楽への情熱が薄れ、楽団も徐々に縮小していき、バッハの理想とする音楽環境から遠くかけ離れていった。
そしていよいよ、バッハの生涯の頂点と言われる「ライプチヒ時代」へと進んでいく。ライプチヒ時代のバッハや、死後のバッハ受容などについては、演奏会後の余韻とともにお読みいただきたい。
「オトの楽園」
岡田友弘(おかだともひろ)
1974年秋田県由利本荘市出身。秋田県立本荘高等学校卒業後、中央大学文学部文学科ドイツ文学専攻卒業。その後色々あって桐朋学園大学において指揮を学び、渡欧。キジアーナ音楽院(イタリア)を研鑽の拠点とし、ヨーロッパ各地で研鑚を積む。これまでに、セントラル愛知交響楽団などをはじめ、各地の主要オーケストラと共演するほか、小学生からシルバー団体まで幅広く、全国各地のアマテュア・オーケストラや吹奏楽団の指導にも尽力。また、児童のための音楽イヴェントにも積極的に関わった。指揮者としてのレパートリーは古典から現代音楽まで多岐にわたり、ドイツ・オーストリア系の作曲家の管弦楽作品を主軸とし、ロシア音楽、北欧音楽の演奏にも定評がある。また近年では、イギリス音楽やフランス音楽、エストニア音楽などにもフォーカスを当て、研究を深めている。また、各ジャンルのソリストとの共演においても、その温かくユーモア溢れる人柄と音楽性によって多くの信頼を集めている。演奏会での軽妙なトークは特に中高年のファン層に人気があり、それを目的で演奏会に足を運ぶファンもいるとのこと。最近はクラシック音楽や指揮に関する執筆も行っている。日本リヒャルト・シュトラウス協会会員。英国レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ・ソサエティ会員。マルコム・アーノルドソサエティ会員。
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