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「最後の人」

ある夜、僕は無職になった。

明日の計画など何もない・・・人生最悪の気分で家路につく。朝が怖くなったけど、誰の上にだってお日様は登るらしい・・・

運悪く僕の上にもお日様が登ってきたので、いつものように家を出たのだが・・・

無職の僕に行く場所はない。

あてもなく車で彷徨いながら、朝の通勤風景を眺めていた。みんな忙しそうだ。遅刻の心配も必要ないので安全運転していたら邪魔者扱いだった。

そういえば僕も昨日までは忙しく出勤していた気がする。その日からしばらく会社を辞めたことを隠して、いつもの朝ように「仕事に行く」と言い残し家を出た。実家の世話になり、親の脛をかじるダメ人間がまた会社を辞めてしまった。

20代の情けない挫折だった。

「挫折」という言葉を辞書で引くと

 挫折:意気込んで行なっている仕事や計画などが途中でだめになること。また特に、そのために仕事をする気力を失うこと。

と書いてある。確かに意気込んで仕事に取り組んでいた。だた問題なのは仕事で成果を出していたわけでも、期待されるような成長をしていたわけでもない。「挫折」という言葉がもったいないほど、なんの取り柄もない凡人だった。

どうも凡人の曽川慎司です。

何の成果も出せていない、凡人如きが「挫折」を語るにはあまりにも貧相なのだが、転職を繰り返すダメ人間っぷりが恥ずかしくて、辞めてもしばらく両親に言えないまま、会社に行く「体」に見せかけて、そこらで一日中時間を潰して夕方になって帰宅していた。そんな時、

ある映画を観て僕の心に衝撃が走った。

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『最後の人』“DER LETZTE MANN”(1924)

主人公はベルリンの大きなホテルの入り口に立つポーターである。恰幅のいい体格をし、威厳に満ちた髭をつけ、そして一流ホテルの豪華さの象徴である金ボタンのフロックコートを身にまとったこのポーターは、このホテルの正面に立ち、長い間このホテル顔として自分の仕事に誇りを持っていた。だがあるとき、この老ポーターがそろそろ引退の時期であると考えたホテルの支配人は、突然このポーターの代わりの人物をホテルの入り口に立たせる。それを目撃した老ポーターは・・・・・最後の人 (F.W.ムルナウ コレクション/クリティカル・エディション) [DVD]より

『最後の人』は1924年公開のドイツ映画、時は戦間期(1919-1939)第一次世界大戦終結から第二次世界大戦勃発までの間に作られた映画である。

20世紀ヨーロッパの歴史はこの2人を無視しては語れない。

1889年4月16日 イギリス・ロンドン生まれ「チャールズ・チャップリン

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1889年4月20日オーストリア・ブラウナウ生まれ「アドルフ・ヒトラー

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喜劇王チャップリン誕生からわずか4日後、後のドイツ国首相アドルフ・ヒトラーが生まれる。チャップリンはやがて〈チャーリー〉の愛称で大スターとなり、世界の人々を笑わせ1つの文化を作り上げた。ヒトラーが大衆の前に登場するのは、チャップリンよりやや遅れる。17歳のアドルフは画家を目指してオーストリア・リンツからウィーンにやって来た。美術専門学校の入学試験準備をしながら、はじめて見るウィーンの都会生活にのぼせて、終日博物館やバロック式の大建築物を見て回った。しかし、美術専門学校の試験に失敗し失意のどん底へ落ちていく。うだつの上がらないアドルフは、しだいに絵や建築から遠ざかり、毎日、新聞の政治欄ばかり読むようになった。政治への関心は増していき、ドイツ帝国バイエルン軍に義勇兵として志願するもヒステリーにより野戦病院に収監。入院中に第一次大戦が終結する。

チャップリンが〈チャーリー〉のイメージを創造したように、ヒトラーは〈独裁者〉のイメージを世界に売り込んだ。

前者のイメージは「笑いと人間性」

後者のイメージは「恐怖と破壊」

共にイメージを演じ、組織し、動かした。

両者の運命的な接点は、1940年チャップリンが「チャップリンの独裁者」を作ることによって頂点に達した。

チャップリン、ヒトラーが過ごした20世紀初頭、ドイツ映画は黄金時代を迎えようとしていた。第一次大戦中の1917年初め、宣伝手段として映画の重要性に着目していたドイツ帝国軍参謀長エーリヒ・ルーデンドルフは、「写真・映画部」略称BUFA(Bild- und Filmamt )を政府機関としてつくらせ、もっぱら軍事宣伝に当たらせた。同年11月になると第一次大戦後のドイツ映画界にとって決定的な意味を持つ大きな計画が出現した。

UFA (Universum Film AG)ウーファ設立である。

仕掛け人は映画界とは何の関係もない財界の大物、ドイツ銀行重役エーミール・ゲオルグ・フォン・シュタウスだった。シュタウスは映画には興味はなく、その代わりにバルカン半島の石油に関心があった、バルカンでドイツ映画を扱っている会社の背後に重工業資本が控えていることを知り、ルーデンドルフを動かそうと画策した。

シュタウスは石油のことはおくびにも出さず、ドイツのモラルを高めるためには、また中立国にドイツの影響を及ぼすためには、映画がいかに重要であるかを熱心に説いた、そして巨大映画会社を作るために買収を必要とする映画会社のリストを示した。参謀長ルーデンドルフは銀行家シュタウスが国内外の文化政策について、自分と同じ考えを持っていることに感銘を受ける。こうして中立国に映画でドイツの宣伝を行う、という大義名文の元にウーファが設立された。

1910年代後半、チャップリンやヒトラーと同世代の若者がドイツ映画界で才能を開花させ注目を集めはじめていた。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・プルンぺ

1888年12月28日、ドイツ帝国ビーレフェルト生まれ

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プルンぺはハイデルベルク大学で美術史と文学を学ぶが、幼い頃から興味のあった演劇の道へと進むことにした。ベルリンにいき二、三の端役を演ずる。戦争が始まり彼は空軍に志願し従軍するが重傷を負い、手術で腎臓を失って捕虜交換でスイスにやってくる。そこでドイツ大使館の宣伝映画を作る仕事に関わる。その頃、彼は既にプルンぺとは名乗っておらず姓をムルナウとしていた。

フリードリヒ・ヴィルヘルム・ムルナウ(映画監督)

終戦後に映画監督デビューを果たし、1922年「吸血鬼ノスフェラトゥ」を監督。ネガ反転やコマ落としなどの技法を使って不気味さと恐怖感を描き出し、人間の心理構造をくすぐるようなホラー映画をつくりだした。『最後の人』誕生を語る上で、初期ムルナウのいくつかの作品で脚本を手がけていた盟友の存在も外せない。

カール・マイヤー(脚本家)

1894年オーストリア・グラーツ生まれ

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カールマイヤー(脚本家)とムルナウ(監督)の談話は上記文献を引用する。やけに詳細な会話記録だが著者のクルト・リースとは何者なのか?知らん・・・

マイヤーは、ムルナウ に「あなたと一緒に映画を作りたい」と誘いを持ちかける。ムルナウ は「もう決まった材料はありますか?」と返すとマイヤーは「私の考えている材料はあなたの恐怖映画よりももっとゾッとします。」
マイヤーは続ける。「ペストが人間となって登場したり、ドアが目に見えない手で開かれたり、棺のなかに死体の代わりに無数のネズミが入っていなくても、人々を興奮させたり、震え上がらせることは出来ますよ!簡単です。人々に現実を示せば戦慄を与えることができます。」
「そういう材料はどこで見つけるのでしょうか?」ムルナウが聞くと、マイヤーは窓辺に行って窓を開ける。「あの向こうのホテルが見えますか?ホテルの前にいる男が見えませんか?あのドアマンです。金モールの制服を着たあの男はなんとまぁ堂々としていることでしょう!彼は車のドアを開きます。お辞儀もします。何しろホテルのお客様ですから。」
「もちろんあの男は薄給で、そしてきっと貧乏街の小さな家に住んでいるでしょう、しかし、想像してごらんなさい。夕方、帰宅する時、みすぼらしい地域の街路を通っていく時、窓から身を乗り出している住民の視線が、自分の制服に注がれていると感じる時、自分をもっと大物で・・・もっと偉いと感じます。」
「いくつぐらいでしょうか?五十?五十五?ごらんなさい。今彼は車の天井から荷物をとって来ます。重いトランクだ!それを軽々と片付けていますよ。彼は頑健です。しかしいつまで続くでしょうか?数年もすれば老いてポンコツです。そうなるともうトランクをひきづることはできなくなります。するときっと、他のドアマンがあそこに立っています。」引用:ドイツ映画の偉大な時代―ただひとたびの 
クルト・リース (著), 平井 正 (翻訳), 柴田 陽弘 (翻訳)

すっかり魅了されたムルナウは、ドアマンの話を受け入れた。ウーファのプロデューサー、エーリヒ・ポマー(1889年7月20日、ドイツ・ヒルデスハイム生まれ)もマイヤーのドアマンの話を気に入りUFAでの映画製作を決定する。

製作:UFA (Universum Film AG)ウーファ

監督:F・W・ムルナウ

脚本:カール・マイヤー

ごく平凡な人物を主人公にし、字幕を一切使わず、人間の心理を描こうとした。そのためにストーリーは簡潔化・単純化された。

舞台は、大都会ベルリンの豪華ホテル。

格子仕立てのシースルーエレベーターが下の階に降りていくシーンから始まる。エレベーターを降り、ロビーを進むと回転扉の前にドアマンが立っている。

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エレベーターの目線からロビーを抜け回転扉まで、まるで自分が歩いているかのような映像は、1920年代、当時まだ珍しかった縦横無尽に移動できるカメラを操り「鎖から解き放たれたカメラ」という言葉で知られ、今日に至るまで無声映画史上もっとも有名な移動カメラの映像として多くの人に語られている。撮影を担当したのは、

カール・フロイント(撮影技師)

1890年1月16日、ボヘミア生まれ

当時、重いカメラをこれだけ動かすのは、ほとんど不可能とされていた。ところがマイヤーは、脚本の中に細かくカメラの動きを書き込み、ムルナウはマイヤーのイメージを完璧に形象化した。マイヤーとムルナウの高度な要望に様々な技術で応えたのが、カール・フロイントである。

後のハリウッド映画界にも多大な影響を与えた歴史的な映像だ!プロデューサーのポマーにとっては米国に売り込むまたとないチャンスになる。

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流れるような映像から、ホテルの正面玄関に向かうと1人の老ポーター(エミール・ヤニングス)が働いている。彼は格調高い金モール・金ボタンのフロックコートを纏い、威風堂々と宿泊客を出迎える。

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撮影には主に2台のカメラが使用された。フランス パテ社製カメラとドイツ シュタホウ製カメラを用いた。フロイントはガラス板にワセリンを塗りレンズ前で滑らせてボケ味を表現し、塗らない箇所だけ一瞬ピントが合うような効果も工夫して表現いる。老ポーターが涙ぐむ表現をカメラで再現している所も凄く面白い!小型化されたカメラを紐で体に固定して俳優を追った。まさしく「鎖から解き放たれたカメラ」である。

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無声・無字幕映画で人々の心を掴むには、演出やカメラワークも重要だが俳優の演技も、これまた最重要である。登場人物にはあえて名前を付けていない。老ポーターは「老ポーター」であり、夜警は「夜警」に他ならない。ごくありきたりの人間に潜む情熱や衝動を描くために登場人物の内面は極限まで簡潔化された。

老ポーターの金モールのフロックコートは映画の象徴とも言える重要な小道具だ、日本人が「金モール」と聞いてもあまりピンと来ないが、当時のドイツ人にとって金モールは軍国主義、権威の象徴でもある。だからこそ重要な小道具なのである。メイキングによるとベルリンの有名店の仕立で生地は「赤」なんだとか!モノクロで観てるから意識してなかったけど赤だったのか。

もう一つこの映画で度々登場し印象深いのが「回転扉」である。クルクルと回り絶えず人々が出入りする様は、せわしない資本主義社会をも思わせる。ある文献にはこう表現してあった。

「視覚的な韻」

たしかに映画全体を通して「韻」のようなリズムを与えている。

威厳ある老ポーターだったが、大きなトランクをヨロヨロしながら、やっとの思いでロビーまで運んだが、息が上がってしまい椅子に座り込んで水を飲んでいる。

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そこにホテルの支配人がやってきて、一息つく老ポーターを見かけて何やらメモをとっている。

一切気がついていない老ポーター・・・。

映画の背景となる素材で一番目立つのは言うまでも無く「ホテル」である。1920年代から30年代にかけて、雑多な人々が出入りを繰り返す都市の象徴として「ホテル」が文学作品などの舞台として意識され始めた。舞台装置を担当したロベルト・ヘルルト、ワルター・レーリッヒは全カットの草案を撮影現場に持参していた。スケッチには美術や小道具、カメラの移動も細かく描かれた。

『最後の人』ふたつ社会領域。

物語には2つの社会領域が存在する。それが高級ホテルとポーターの住む安アパートだ。古びたアパートには、ホテルに来る客層とはあきらかに違う貧相な服装の住人が暮らしている。

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老ポーターがコートを纏って帰宅する。

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するとアパートの住人は老ポーターを見るやいなや会話を止め、彼にお辞儀している。立派な制服ゆえ住人からも一目置かれる存在なのだ。ポーター宅には結婚を控えた姪が同居している。老ポーターは姪の結婚を寂しくも楽しみにしている。

翌朝も自慢のコートを纏い出勤していく老ポーター、中庭では子ども達が遊んでいる。小さな子どもがいじめられて泣いているのを老ポーターが見かけて、側に寄りその子にキャンディーをあげて場を和ませる。人望も厚い一面を見せる。

意気揚々とホテルに向かうと信じられない事件を目撃する。

知らないポーターが立っている・・・

誰やねん!!

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新人ポーターは若く佇まいも堂々として見える。老ポーターは呆然と立ち尽くす・・・・。ベルボーイに支えられ支配人室に連れて行かれる。

支配人から無情な通告が言い渡される。

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老ポーターは自慢のコートを脱がされてしまう。

あらすじの解説はこれくらいで・・・物語はさらに展開していく。主役のヤニングスは40歳で老ポーターを演じた。メイクも素晴らしい!

当時この映画に賛成しない意見も多かったようだ。その中にはホテルのドアマン連合の幹部メンバーも含まれていた。要は「そんなドアマンは田舎にしかいない。ドアマンの名誉を滑稽なものにしている」というクレームだ。

たしかにカールマイヤー(脚本家)とムルナウ(監督)の言葉には多少の偏見も含まれるのは否めない。しかし、物語は淡々と行く末を描いているだけで差別的な表現は出てこない。あくまでも淡々と・・・人々に現実を示せば戦慄を与えることができます。

とにかく、このあとの展開が切なすぎるのだ。

僕が20代の頃、会社を辞めたことを両親に言えず、いつもの朝のように仕事に出掛けて、行く当てもなく彷徨い、夕方になったら家に帰る生活。映画の老ポーターのとった行動は僕のとは全然ちがうのだけど・・・共通するのは隠し事も長くは続かず簡単にバレてしまう点。この映画に出会いはじめて見たときは正直泣けてきた。。。

いいかげん人生も軌道にのせないといけないけど未だに大成していない。

ここで参考にした文献をあげていく。すべて図書館で借りてきた。リンクのDVDはブックレットも詳細が書いているし、メイキングも面白くて参考にした。


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