鞆の浦で考える「憧れの日本史スター」
先日、広島県福山市の「鞆の浦」に仲間たちと行ってきました。鞆の浦といえば、「崖の上のポニョ」の舞台となった場所として有名で、江戸時代には瀬戸内海の拠点港の一つとして大いに栄えたことでも知られています。でも、私にとって鞆の浦は、江戸時代に朝鮮通信使がその景色をいたく気に入った、いわばインバウンド先駆けの地としてのイメージがあり、通訳案内士として、ずっと訪れたいと思っていた場所でした。
「朝鮮通信使」とは?
高校時代、世界史を選択していた私にとって、通訳案内士の試験を受けるまで、朝鮮通信使という言葉はいまいちピンとこないものでしたが、
・秀吉の朝鮮出兵により断絶した国交を江戸幕府が回復させたこと
・江戸幕府治世のおよそ200年の間に12回も来日したこと
・瀬戸内をはじめ、日本各地に立ち寄り、その景色を激賞していること
などなど、鎖国時代にあって、緊密な友好関係が築かれていたことを知り、ずっと興味を持っていました。
以前、静岡市清水区の清見寺に行ったことがあるのですが、そこも朝鮮通信使が景色を称賛した記録が残っており、国の史跡に指定されています。
「日東第一形勝」に見る使節団の感動
鞆の浦といえば、古い町並みや常夜燈なども見どころなのですが、私が訪れたかったのは「福禅寺 対潮楼」。1711年、朝鮮通信使の上官8人がここからの眺めを「対馬から江戸までで一番美しい」と感嘆し、従事官の李邦彦(イ・バンオン)が「日東第一形勝」と記したと伝わります。対馬から江戸までの間であれば、間違いなく富士山はいろんな角度から見ているし、京都や琵琶湖も通過しているし、感動ポイントはいろいろあるにも関わらず、対潮楼からの景色を「日東第一形勝」としていることに、瀬戸内に縁がある私としては小躍りするほどにうれしくなってしまいます。私が外国からのお客様に対し、瀬戸内海を案内するときは、「日本のインバウンドの先駆けともいえる朝鮮通信使が日本で一番感動したのは、富士山ではなく、この瀬戸内の美しい島々の景色であった」と説明しています。
日朝関係を支えた大スター「雨森芳洲」
私にとって、歴史上の人物で憧れる人、尊敬する人は何人かいるのですが、雨森芳洲(あめのもり・ほうしゅう)もその一人です。近江の医者の家庭で生まれた芳洲は、儒教を修め、そして対馬藩に任官した後は朝鮮語・中国語も使いこなして、李氏朝鮮と対馬藩、引いては江戸幕府を繋ぐ存在として大活躍したと伝わります。朝鮮通信使の江戸訪問にも2度同行し、流暢な朝鮮語で両国の難題に関する交渉もうまくまとめ上げたといわれています。彼の言葉は、通訳案内士としても中小企業診断士としても私の心に刺さります。
「国どうしの関係、取引先との関係、職場の同僚との関係、家族との関係、自分と他者の関係において、独りよがりになってはならず、相手のことをよく知り、尊重する姿勢が大事である。」当たり前に聞こえるかもしれないけど、日朝関係のキーパーソンとして活躍した芳洲が言うと、説得力が違います。そして、芳洲自身も努力して、儒学を修め(新井白石らと並び、秀才と称されたそうです)、朝鮮語、中国語を極め、そして自らの知識やノウハウを惜しみなく後進に伝えたという記録も残っています。「努力して得た深い知識とまごころ」、私が理想とする通訳案内士像でもあり、中小企業診断士像でもあります。
まとめ
芳洲が生まれた滋賀県長浜市には、雨森芳洲の生家跡に芳洲の著作などを展示しているそうです。その名も「東アジア交流ハウス 雨森芳洲庵」。ずっと行ってみたいと思っていますが、まだ行けていません。
内村鑑三が英語で執筆した著書「代表的日本人」の中で、各時代の日本の偉人を取り上げ、アメリカに紹介しましたが、雨森芳洲について知れば知るほど、私の中の「代表的日本人」の一人として彼の存在感が高まっています。早く長浜にも行かなければ。。。