【歴史小説】第40話 鵺退治③─近衛帝の回想 『ひとへに風の前の塵に同じ・起』
1
物の怪退治で、近衛府の役人が瘴気で倒れたことは、都の貴族たちを震え上がらせた。
空を飛ぶこと、鋭い爪を持っていることから、物の怪の正体は鳥ではないかと噂されていた。また、夜だけしか現れないことから、「夜」と「鳥」を合わせた「鵺」という漢字を作り、「ぬえ」という言葉を当て、それを読みとした。この創作漢字の読みに当てられた言葉には、はっきりしない、という意味が込められている。
日を改めてまた、泰親は、鵺退治を手伝ってもらうようお願いするため、近衛松原にある頼政の屋敷を再び訪ねた。だが、また「考えさせてください」と断られた。
近衛帝の様子を見るため、泰親は参内した。
寝床にいる近衛帝の容態は、前に見舞いに来たときよりも、悪くなっているのが、聖と俗を分ける簾越しに見てもよくわかる。前よりも生気のない青白い顔色になっていること、目の下にできた隈の色が濃く、そして大きくなっていることが、何よりの証左だ。
「相変わらず、眠れないようですね」
泰親は言った。
「うん。昨日は二刻ほどしか、眠れなかったよ。おかげで、疲れは取れないし、鏡を見ると、目の下の隈が前よりも大きくなってる」
「困ったものです」
「そうだ」
近衛帝は、はっと何かを思い出したかのように続ける。
「頼政はまだか?」
「まだです。頑なに勅令を拒んでおります」
近衛帝は残念そうに、そうか、と言った。
無礼も承知で、泰親は近衛帝が頼政にこだわる理由について聞いた。
頼政以外にも、剛の者はたくさんいる。頼政にこだわる必要はない。
「それはね──」
近衛帝は語り始める。
──僕がまだ子どもだったとき、父上に誘われて流鏑馬(やぶさめ)を見たことがあったんだ。
参加していたのは、ほとんど元服したてか20歳を少し超えたぐらいの北面の武士。その中に、明らかに場違いな人がいたんだ。その人は、背が高くて、肩幅も広い30歳を越えたぐらいの男の人だった。
その人が馬に乗って矢を射ると、全てが命中。
僕はその人のことが気になって、父上に聞いた。
父上は、
「あれは源頼政という者でな、まだ余の父が生きていたころから、滝口につかえていた男じゃ」
と答えてくれた。
「みなもとのよりまさ、か」
頼政が滝口の武者と聞いて、もしかしたら会えるかもしれない、と思っていた。けれど、毎日儀式やら何やらで忙しく、なかなか会えなかった。
「なるほど」
「だから、頼政をここへ連れてきて、鵺を、討ち果たしてください。そして、子どものときから、ずっと憧れていたことを、伝えたい!」
「わかりました。でも、頼政は、帝の勅令にも応じる気配がございません」
「困ったなぁ」
「おっしゃる通り。何度勅令を届けても、受け取ろうとしません」
「そうか。ならば、今度雅頼を通じて、ここへ来るように言っておく」
「わかった」
泰親は内裏を出た。
2
深夜の内裏。
右近の桜と左近の橘が植えられた大広間の前からは、漆を塗ったかのように見える夜空、その中には、金粉や銀粉をまぶしたように星々が光り輝いている。
蚊帳の中にいた近衛帝は、眼を覚ました。
(起きてしまった。また、あの鳴き声を聞かないといけないのか)
鵺の鳴き声について、もううんざりだ、と近衛帝は思っている。
夜に変な鳴き声を挙げては、いつも起こしてしまう。そして、その鳴き声があまりに不気味なものだから、また寝付けようにも眠れない。だから、
(誰かが帝である僕を、法師陰陽師を雇った誰かが、式神でも使って呪詛しているのではないか?)
と疑心暗鬼になることもある。だが、そのようなことを考えていると、周りとうまくやっていけないから、
「そんなことないよね、うん。みんな僕に優しいし」
と心の中でつぶやいて、不安をごまかそうとする。
近衛帝は、またあの鳴き声が聞こえると嫌なので、さっさと寝床について、今日こそはあの鳴き声を聞かないでやろう、と考え眠りに着こうとしたそのとき、
「ひぃ……、ひょぉ……」
れいの鳴き声が聞こえた。
(来た)
着物の中に入り、お腹の中にいる胎児のようにうずくまる。そして、心の中で必死に観音菩薩を観想しながら、
「南無観世音菩薩」
と祈った。
そのとき、何かが破ける音がした。
紙と木が破けた音からして、障子戸であることは間違いない。
障子戸が破けたのと同じくして、ゆっくりと何かが床の上を歩く音がした。音の持ち主は、あの不気味な鳴き声で鳴きながら、そっとこちらへと近づいてくる。
「南無観世音菩薩」
さらに強くイメージしながら祈った。
近衛帝の祈りとは裏腹に、足音と鳴き声は強くなっていき、夜の獣がこちらへ近づいてくるのがわかる。
「南無観世音──」
念じていた途中で、左肩から何か液体のようなものが流れ出てくることに気づいた。
(肩に棘がいくつも刺さったかのように痛い)
近衛帝は、その液体が流れ出ている場所を触ってみた。
(何だか鉄臭い。もしかしてこれは──)
血だ。知らないうちに噛みつかれたようだ。
「あぁあぁあぁっ‼」
近衛帝は大きな声を上げ、着物をめくった。
障子から差し込む月光のせいで見えないが、目の前には虎ぐらいの大きな獣が、真っ赤に染まった細い牙と、金色の瞳を煌めかせている。
「帝、何事でございましょうか!」
叫び声を聞いた滝口の武者たちが駆け付けたときには、すでに鵺は夜空の彼方へ消えていった。
3
夕方。職務を終えた頼政は、馬に乗って、職場である内裏から、近衛松原にある自宅へ帰ろうとしていた。
馬が走り出そうとしていたとき、雅頼がやってきて、
「帝がお呼びです。すぐに来るように」
と告げられた。
いぶかしげな表情で頼政は、
「また妖怪退治の話ですか? それならお断わりします」
と返した。泰親の要請でウンザリしたのだろう。
「いいえ、違います。頼政殿と、直々にお話ししたいそうです」
「そ、そうか」
「ええ」
雅頼と頼政は、負傷した近衛帝がいる部屋へと向かった。
頼政は近衛帝のいる部屋へと入った。
簾の前には舎人が厳重に控えていて、その外に敷かれた円座には、泰親が座っていた。
「来たか」
泰親はつぶやいた。
「ええ。帝がこの五位の私と、お話しがしたい、とお聞きになりまして」
「ほう。これが、今の帝の現状さ」
目の前には、包帯を巻き、苦しそうに寝床で伏している近衛帝の姿があった。
「なんと、おいたわしいこと……」
「お前が鵺の退治を断り続けたせいで、帝はとうとう鵺に喰われそうになったのだ」
「こんなにも帝の近くにいながらも、なんで私は、気づかなかったのでしょう……」
苦しそうに咳き込み、痛そうに傷口を抑えている近衛帝を見た頼政は、自分の不甲斐なさと自信のなさを恥じた。
主君が、病魔と毎晩やってくる鵺への恐怖と戦っていることを知らず、自分は妖怪退治の不確実さを言い訳にして、逃げていた。そのせいで帝は、鵺に肩を噛まれてしまった。帝を守護する滝口の武者の一人として、本来守るべき帝を置いてけぼりにしていた自分が、とても情けない。
痛々しいうめき声を聞いていると、悔しさと悲しさが半分ずつ混じった涙が流れてくる。
「来てくれたか、頼政殿」
近衛帝は、小さく、辛そうな声で、頼政の名前を呼んだ。
「はい」
平伏する頼政。
「会いたかった。いつかの、流鏑馬のときから」
「そ、そんな、畏れ多い!」
「僕は子どものころから病弱でね、熱を出しては、いつも寝込んでいたんだ。でも、あなたの流鏑馬を見たとき、強く生きたい、と思った。あなたのように」
「そうですか」
「うん。本当なら僕は、もう死んでいてもおかしくない。でも、あなたのように、強く、優しく生きたい、と思えているから、ここまで生きて来られた」
「ほうほう」
頼政は、流れ出てくる大粒の涙を、直垂の袖で拭きながら、近衛帝の思いを聞いていた。
「頼政殿に、あの物の怪を倒してもらいたい」
「でも、内裏の警備ばかりやっている私に、そのようなことができるでしょうか?」
頼政はそう問いかけた。
痛む肩を左手で抑えながら、近衛帝は立ち上がり、よろよろとした足取りで頼政に近づき、もやしのように細く、小刻みに震える手を差し出した。
「頼政ならば、きっとできる」
「帝もそう仰せられています。やってみてはどうでしょうか?」
雅頼は、頼政の背中を押した。
「わかりました。やりましょう」
頼政は、鵺を倒すことを決断した。
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