贈与はウェルビーイングなのか?
ウェルビーイングという言葉。「寄付をするといい気分になる」とか「人助けしたからいいことが起こりそう」みたいな気持ちになることがありませんか。でも、贈与は本当にウェルビーイングに向かっているのでしょうか。
今回は、新しい贈与論代表の桂大介さんと会員の宮本聡さんが贈与とウェルビーイングというテーマで対話しました。
イントロダクション
桂:そもそも贈与するということはウェルビーイングに近づいているのかということを考えたいんですよね。贈与っていうのは何かを失うことですよね。贈与の本質的なところは「失う」っていうことだと思っていて……。
宮本:はい、はい。
桂:「あげる」「与える」っていうのも贈与なんですけど、本質的には「失う」っていうところもポイントだと思っているんですよね。
宮本:なるほど。
桂:でも、ひったくりに取られる、置き忘れるとかは贈与じゃない。例えば、目の前で子どもが雨に濡れそうで、傘を渡して、自分は走って帰る。これは贈与的なエピソードですよね。メンタル的にはウェルビーイングかなと思うんですけど、フィジカル的にはウェルビーイングから遠のいていますよね。
宮本:おー。ちょっと天邪鬼的ですけど「ひったくられた」「置き忘れた」ということですら、人の想像力は贈与に変えることもできるかなと。「ひったくられたな、でも、あの人にも事情があったのかな。生活に役立ってたらいいな」と消化することもできる。
マイナスの贈与
桂:「うしろめたさの人類学」って本で出てくるんですけど、富裕層がうしろめたさから寄付するというような行為って、「寄付による損失(-)」と「うしろめたさの解消(+)」がトータルプラスになるというよりは、マイナスとより大きなマイナスを比較している気がするんですよ。やっぱり、こういうマイナスの贈与ってあると思うんですよね。むしろ、これこそ、本当の贈与と呼べるんじゃないでしょうか。痛気持ちいいみたいな。災害寄付と誕生日プレゼントとかは比較として分かりやすいですよね。別に、災害寄付したからといって、誕生日プレゼントをあげた時のような高揚感はないわけで。知っちゃったから寄付せざるを得ない感じですね。
宮本:なるほどー。すごい、細かい話しますけど、飲み会の幹事を例に出しますね。幹事にも「得する幹事」と「損する幹事」がいると思うんですよ。例えば、5200円ですって言うのか、5000円ですって言うのか。もちろん、5000円しかもらわなかったら損するんですけど、みんなが細かいお金を出さなくてもいいし、全体の幸せの総和は増えるじゃないですか。そういうのがいいなと思っていて。逆に「その作業大変だから付き合うよ」っていうのはあまり好きじゃなくて、苦しみは最小化しようって思うタイプなんです。だから、損をしてくれる人に「ありがとう」の気持ちが湧くようになりましたね。
桂:そうですよね。だから、やっぱり、マイナスの贈与、純粋な利他ってあると思うんですよね。贈与をすることは、自分の幸せが増えるというより、むしろ、自分の幸せの必要度が下がる。そして、幸せを感じられる半径が増えるってことなんじゃないかなと。
「わたしたち」から出るための贈与
宮本:「わたしたち(We)」だと認識しているところから、外に出る、橋をかけるというような行為なんですかね。結果として、わたしたちの範囲が広がることもあるけど、それは必ずしもそうなる訳ではない。ちょっとした恐怖も伴いますよね。しびれるなという感じ。
桂:分かります。そのしびれる感じって、額じゃなくて、資産に対する比率だと思うんですよね。新しい贈与論にも、学生さんとか入ってくれてますけど、5000円/月を寄付するってすごいなと思います。
宮本:学生価格といっても、なかなか出せないですよ。お金の価値って、相対的ですよね。自分にとっての1万円と子どもにとっての1万円って違いますもんね……。
▼対話の様子はこちら(入会するとフルバージョンがご覧いただけます)
Author:東詩歩(新しい贈与論世話人)